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誰の都合で「サマータイム」導入なのか

確認してはいないが、アメリカでのテレビ放映時間を優先させたらそうなったという話ではないか。そもそも、夏のど真ん中にオリンピックをやることも、アメリカでのテレビ放映の都合だったらしいし。





さんがリツイート

何度読んでも意味がわからないのだが、「サマータイムを導入したら、午前7時スタート予定のマラソンがもっとも涼しい午前5時スタートとなる」というのはなんなんだ。今の時間制で午前5時にスタートさせたらいいじゃないか。何が悪いんだ。




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これを放置しているグーグルも同罪


朝から、このウザい詐欺広告が何度も表示されるのだが、こういうのはブラウザーは野放しにするしかないのだろうか。明らかな迷惑行為であり、詐欺行為だろうに。






Googleメンバーシップ・リワード

Googleユーザーのあなた、おめでとうございます!(1)件のGoogleギフトが当選しました!
8月 095月 24

毎週 木曜日水曜日 幸運な10名のユーザーが1日に一度無作為に選ばれ、スポンサーからのギフトが進呈されます。これは当社製品やサービスに対するご愛顧への感謝の印です。

iPhone X, iPad Air 2, Samsung Galaxy S6 の中からお選びください。

賞品を受け取るには次の3つの質問にお答えください。

注意: 10名の無作為に選出されたユーザーがこの招待状を受け取っており、賞品は限られた数のみとなっております。


他の幸運なユーザーに賞品を受け取る権利が移行するまで 110 です!幸運をお祈りします!



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弱者でも、相手を殺す気なら殺せる

これは格闘技に対するアンチテーゼとしてかなり強力な説だろう。
私がいつも残念に思うのは、いじめ被害者が何の抵抗もせず自殺してしまうことで、なぜ加害者を殺してから死なないのか、と、いつも怒りを感じる。もちろん、その理由は分かる。それは、自分の家族を「人殺しの家族」にしたくないからだ。だが、そうしていじめ被害者が無抵抗のままに自殺したりするから、いつまでもいじめ事件は無くならないのである。


(以下引用)




私は子供の頃から喧嘩に弱かったが、喧嘩に強くなろうと思って格闘技を練習する気にはついぞならなかった。私はおそらくこれからも肉体的な喧嘩はしないだろうが、もしそういう事態に陥ったら、喧嘩に勝とうとかは考えず、相手を殺すだろうからだ。殺人は殺意さえあればできるので、格闘技は必要ない。




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ウヨ化水銀

日本政府というか、安倍政権は「ヨウ化水銀」ではなく、「ウヨ化水銀」を日本人の頭の上から降らせたいのではないかwww まあ、安倍は従米右翼、つまり本当は偽右翼でしかないけど。


  1. さんがリツイート

    さん

    「五輪は完全な4千億以上の協賛金を集める営利事業。しかし無償ボランティア11万人募集

    仮に賃金を払う雇用契約となり、この酷暑下でトラブルがあれば、保険その他責任が発生するが、ボランティアなら『自己責任』にできる」



  2. 東京五輪、打ち水程度では逆効果だと思うので、中国軍に頼んで、東京上空の大気圏にヨウ化銀粒子を大量に拡散させ雨を降らせる降水爆弾をミサイルで撃ち込み、開催中ずっと雨を降らせるのはどうだろうか。中国は過去何度も実験に成功しているはず。


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「笑い」のメカニズム

別ブログに載せてあった文章だが、今読んでみるとなかなか面白いのでここにも載せておく。私はこういう具合に、「どうでもいいこと」をあれこれ考えるのが好きなのである。
なお、文中の「藤子不二夫」は「藤子不二雄」の誤り。「不二夫」は赤塚の方である。








 漱石の『文学論』の「滑稽的連想」による小論


 


 ある表現に対する聞き手や読み手の反応は、その表現の内容による部分と、音韻による部分があるが、音韻による連想が内容による連想と不調和を醸し出した時に、滑稽感が生じることがある。これが洒落・地口である。もちろん、音韻に無関係に、内容の対比による滑稽感もある。たとえば、「提灯に釣り鐘」は、どちらもぶら下がる物というだけの共通性しか無く、ただその一点で、軽い提灯と重々しい釣り鐘が並列されたことが聞き手に滑稽感を催させるのである。また、対比ではなく連続の意外さが滑稽感を生む場合があり、「恐れ入谷の鬼子母神」は、「恐れ入った」という言葉で終わるかと思っていたのが、「入谷」と続き、さらに「鬼子母神」と続く、その意外感がこの洒落の生命だろう。つまり、「入り」から「入谷」と続いた勢いでとんとんと「鬼子母神」が出てくるところが面白いのである。鬼子母神に何かの意味があるわけではない。


 


 一般に、滑稽感とは、何かの心理的落差によるものだと仮定しよう。言い換えれば、「期待された内容」と「実際の内容」の落差から生じた心理的な浮遊感が滑稽感の正体であるとしてみよう。


 我々は、謹厳な紳士にはそれにふさわしい言動・威厳を期待する。その紳士がこければ、見ている人間はその威厳の失われた状態と、その前の威厳との落差に滑稽感を覚えるのである。「こける」ことが喜劇の基本であるのは、それが、一瞬でその人間の状況を「喜劇的状況」に変えるからである。すべて失敗が喜劇的であるのも、同じ原理だ。


漫才では、話す内容が滑稽である場合と、話す当人が笑われる場合がある。後者は身体的条件、口調、表情などが笑う理由となる。


 落語家の場合は、当人自身が笑われるというよりは、純粋に話す内容によって笑わすのが基本である。だから、林家三平や桂枝雀などは異端であったと言える。


 身体的条件によって、すでに笑いの対象となる場合があるということは、前に述べた「心理的落差」が滑稽感の原因だという説に反するように見える。しかしこれは、社会の気風による習慣的条件づけにしかすぎない。ある風貌や身体的条件が笑いの対象になるかどうかは、固定的なものではない。肥満体が威厳の条件の一つであった時代もあったのである。一つだけ重要な事実を言えば、風貌が笑いの対象となる存在は、「愛すべき存在」とか「無害な存在」と理解されているはずである。それを逆手に取って、たとえばピエロの格好・メーキャップをした人物が凶悪な殺人鬼であった場合などは、その落差は滑稽感ではなく恐怖感を増幅することになる。恐怖と笑いは実は無縁のものではないということだ。


 心理的落差の簡単な例は、漱石の『吾輩は猫である』の冒頭だ。「吾輩」という自称の語は、偉人豪傑が使いそうな威張った印象の言葉だが、その後に「猫である」と続き、しかも「名前はまだ無い」と来る。飼い主から名前もつけられていない程度の猫が「吾輩」と名乗るその落差が滑稽なのである。(このことは小林信彦も言っていることだが、おそらく誰でもその仕組みは直感しているはずだ。)


 心理的落差が滑稽感の原因だということを示す事柄を二、三挙げてみよう。これはブラック・ジョークだが、両手両足の無い身体障害者の息子を持った父親に、その友人が「お久しぶり。最近、息子さんはどうしている」と聞くと、父親は、「うん、最近は野球チームに入って頑張っているよ」と答える。「へえ、すごいね。で、ポジションはどこ?」「うん、セカンドだよ」「ほほう、セカンドベースマンか」「いや、セカンドベースなんだ」


 あまりにも非人間的なジョークなんで、これを紹介しただけで人非人扱いされそうだが、それ以来、私はセカンドと聞いただけでこの話を連想してしまうのである。このジョークのポイントは言うまでもなく、人間がその尊厳を奪われ、物扱いされたところにある。どういうわけか、我々は、ひどい目に遭っている人間を見ると、同情すると共に、笑いたくもなるようなのである。だから、スラップスティック喜劇は、「誰かがひどい目にあうことの繰り返し」なのである。トムとジェリーだろうが、トゥイーティーとシルベスターだろうが、ロードランナーとコヨーテだろうが、可愛い鼠や小鳥に、猫やコヨーテがひどい目にあわされる話である。


 先ほどのブラック・ジョークに戻ると、どこに心理的落差があるかと言うと、身体障害者の少年が少年野球チームで頑張っているという部分で我々は乙武的なけなげな頑張りをイメージするのだが、その頑張りがまったくナンセンスな頑張りであることに、我々の持っていた常識的モラルに支えられた「意味の世界」が崩壊するというところがポイントなのである。つまり、我々は日常生活の中で、意味に縛られていて、その事に無意識の不自由感を感じている。そこで、ナンセンスによって意味の世界から解放されると、快感を感じるのである。その精神マッサージが笑いである。笑いは、社会的秩序や常識への反逆であり、しばしば不道徳なものとなるのは当然である。大昔には、笑いといえば、敵への嘲笑であり、人から笑われるということは、死ぬほどの屈辱だったのである。(笑いが武器であったということは、柳田国男も言っていた。)


 自分が自分であることの不快感、あるいはある物はその物以外ではありえないことの不快感を我々の無意識は感じている。その牢獄を破壊し、そこから我々を解放するのが笑いだ。笑いとは常識的世界(日常の秩序)の破壊だと定義してもいいだろう。狂人は笑わない。笑えないから狂人になるのである。笑う余裕がある間は、我々の精神は無事だと言えるだろう。


 今度はほのぼの系のジョークである。(たしか、藤子不二夫のエッセイで読んだ記憶がある。)動物園の入り口から入ろうとした男が、そこに象が座っているのを見た。やがて出口から出ようとすると、そこにも別の象が前の象とは反対向きに座っていた。そこで男が象に、「君たち、何をしてるんだい」と聞くと、「ブックエンドごっこだよ」。


 まあ、この話でにやりとかくすりとか笑う人もいるだろうし、まったく面白くないと言う人もいそうである。この話のポイントは、まずはイメージである。動物園をはさんで、二匹の象が座っていて、彼らはブックエンドごっこをしているのである。これは幼児的な可愛らしさだ。絵本的な絵柄である。もちろん、象が人間の言葉を解すること自体、童話的でもある。ここには、破壊的なものは無い。誰かがひどい目に遭わされるわけでもない。だから、痙攣的な笑いは生み出さないが、それでも笑いの要素はある。それは、「幼児の笑顔を見れば、誰でもつられて笑う」という笑いである。これを天使の笑いとでも言おう。   これは破壊的な笑いとは対照的なものだが、それでも「心理的落差」はある。それは、「意外性」だ。この話の結末は、落語のオチのようなもので、それが無邪気な印象なために気が付きにくいが、十分に意外性のあるオチなのである。そのオチ(結末)が危険な方向で終わればブラックジョークになるというだけのことである。


 以上から、予想と実際の「心理的落差」からくる「浮遊感」が笑いの根本であり、その落差が「常識的秩序を破壊する」場合に笑いが発生すると見ていいだろう。象のブックエンドに常識破壊があるかと言えば、そもそも象が人語を解すること自体シュールレアリスティックな話であり、童話的世界は常識的現実の破壊でもあるのである。


 やや強引な論理を積み重ねてきたが、最後に、笑いを作る方式を考えよう。


 漱石の『文学論』での笑いの分析を我流で解釈すれば、本来は結びつかない二つの事柄をわずかな共通点で強引に結びつけ、その落差によって聞く人を驚かせるというのが笑いの創造の基本であるようだ。あるいは、物事の常識的解釈に対して、あえて非常識な解釈を行い、しかもその解釈に屁理屈なりに理屈がある、という場合に、その意外性が笑いになるようである。


 たとえば、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」というビートたけしの有名なフレーズがなぜ面白いかというと、やはりここには秩序破壊、常識的世界の破壊がある。しかも、そこには理屈が通っているのである。それは、車は、歩行者側が赤信号でも、歩行者が横断歩道を渡れば止まらざるをえないという事実だ。車という物理的な危険性を持った存在に対し、歩行者が無意識に感じている敵対意識が、このフレーズであぶり出され、やむなく止まっている車の前を堂々と歩いていく歩行者の姿を人々はイメージしたのである。それは、車という強者と歩行者という弱者の逆転、現実の秩序の破壊だ。





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事実は小説よりもグロい

まさにそういう絵に描いたような悪人が企業や組織のトップにいるという、大藪春彦あたりが書きそうな世界が今の日本であるわけであるwww まあ、松本清張などの社会派作家は昔からそういう「真実」を描いてきたのだが、たいていの人はそれをフィクションだとしてきたのである。






さんがリツイート

若い頃ベテランの映画監督の映画などに絵に描いたようなベタな悪人が出てきて「おいおい、こういうパターンで作った悪人はうそ臭いよな、これだから年寄りはw」って思ってたのが、歳とって世の中を見ていくとマジでそういう悪人があちこちにいて「しまった、ただのリアリズムだったか」って思いました






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受験点数操作は東京医大だけではない

「40年以上前」どころか、戦後すぐから、あるいは戦前から普通に行われていたのではないか。ただ、女子学生を一律に点数を下げるというのはさすがに異常だから叩かれているわけである。異常というより時代錯誤と言うべきか。
それに、はっきりとした不正なのだから、過去に遡って女子受験生全員に損害賠償の訴訟を起こされてもいい事案だと思う。まあ、受験料返却くらいは当然すべきだろう。本当は、それで一生のプランが狂った受験生もたくさんいたのだから、アメリカなら一人数億円という賠償金になってもおかしくない。もちろん、東京医大だけでなく、同様のことをした大学すべてである。





【東京医大の点数操作】「なぜ今さら? 他大学でも40年以上前から行われている」



東京医大

1:学校裏サイト2ちゃんねるがお送りします:2018/08/03(金)22:01:02 GNw
東京医大の入試点数操作「なぜ今さら?」と予備校関係者 「他大学でも40年以上前から行われている」

ネットでは「時代錯誤過ぎる」「信じられない」など、驚きと怒りの声が広がっているが、都内の医学部専門予備校の関係者は、「この手のことは昔からある。裏口入学の件で火が付いたのだと思うが、なんで今さら?という感じ」だと話す。
2:学校裏サイト2ちゃんねるがお送りします:2018/08/03(金)22:02:16 GNw
http://blogos.com/article/315265/

「少なくとも、10年以上前からやっていることは確かです。東京医大に限らず、3、40年以上前からこうした点数操作を行っていると
大学関係者から聞いたことがあります。」
3:学校裏サイト2ちゃんねるがお送りします:2018/08/03(金)22:03:17 GNw
偏差値の低い私立医学部では「1点いくらで買わないか」と電話がかかってくることもあるという
4:学校裏サイト2ちゃんねるがお送りします:2018/08/03(金)22:03:52 E4Y
みんながやってたら良いってものではないんやで
8:学校裏サイト2ちゃんねるがお送りします:2018/08/03(金)22:05:48 qKn
>>4
ほんこれ





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酔生夢人
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男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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