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入院は天国か地獄か

「女だから言えること」というブログから記事の一部を転載。(別ブログにもこの記事は載せたが、特に下の引用部分について考察したい。)
下の記事の筆者自身も精神病院への入院経験があるだけに、書かれた内容に事実の持つ重みがあるが、入院患者は入院によって明らかに病状が良化するにも関わらず、患者の大半は入院生活を嫌がる、ということについて考えてみる。

もちろん、精神病院への入院は世間体が悪いという昔からの社会風潮が最大の原因だろうが、私の想像では、「他人に決められたパターンで生活しなければならない」ことの苦痛が最大の理由ではないかと思う。これは私が特にそれを苦痛に思う人間だからだろう。
朝昼晩の食事、服薬、運動、休憩など、すべてが決まった時間に決まったやり方で行われ、患者はベルトコンベアの上の品物のように流されていくだけである。
それを楽だと思い、「ここは地上の天国かよ」と思う下記記事筆者のような人もいれば、「他人に命じられたこと、決められたことをやるのは死ぬほどいやだ」と思う人もいるのではないか。私などはそうである。自分の意志でぼんやりと無駄に時間を過ごすのは大好きだが、病院(せいぜい高血圧の薬を貰いに行く程度だが、最近はそれもやめている。)などで「強いられて」無駄な待ち時間を過ごすのは不快そのものである。
つまり、そこに「自分の意志」(たとえば、就職や入学などのように、会社や学校という場に入ることで生じる不自由さを受け入れることへの同意も、一応は自分の意志がそこにあるということだ。)があればいいのだが、自分の意志がまったく認められず、他人の決めたルールの中でしか動けない、というのは、自分が生きた人間ではなく死体か物体であるような気がするわけだ。
だから私は、約束事とか予定というのも大嫌いなのである。嫌いだが、「生きる上で仕方がないからこれは受け入れておく」と決めたことだけ受け入れるのであり、嫌いであることは変わらない。なぜそれほど自由が好きなのか、自分でも分からない。自由であってもロクなことは何ひとつしないのだが、ロクなことをしないでいられるというのも自由だからこそである。
念のために言うが、私の政治信条の上での最大の敵は「新自由主義」であるwww



(以下引用)

入院したら状態が良くなるという現実


 精神病患者の家族会の人たちの話によると、発達障害からの二次障害で精神病になる人も少なくなく、特に統合失調症の患者さんは薬を飲みたがらない、あるいは全力で拒否する人も多く、どんどん悪化させていたりします。



 結局、家族会の方々のお話によると、入院して退院した直後が一番、状態が良いとのことです。(ただし、正しい治療を行っている病院に限る。)私も精神病棟に何回か入院していますが、入院すると休養が取れる上に、治療に集中できるので非常に状態が良くなりました。早く退院したいという患者さんもいましたが、1人暮らしの精神病で働くことも、食事も、服薬も、自分ではコントロールできない状態だった私としては「三食昼寝付き、エアコン付きで、掃除も風呂洗いもシーツ交換も他人がしてくれるなんて、ここは天国かよ。」と思ってました。



 さらに、精神病棟での、初期から中期の統合失調症患者の回復具合は目を見張るものがありました。また、私の父のような重度の人が少ないのにも驚きました。早期発見早期治療ができている人たちが入院していたためでしょう。また、慢性の人も父ほどの症状の人はいなくて驚きました。



 精神病者をどこかに閉じ込めるなんて良くないみたいに考える人もいるかもしれませんが、本人の病状は滅茶苦茶良くなるし、家族は患者の面倒を見なくて良くなるしで、いいことずくめに見えました。ただ、問題なのは本人が入院生活を嫌がって早く退院したがること。精神病院は食事の時間も決まっており、栄養バランスの良い食事を3食食べ、外出禁止の人は買い食いできません。さらに薬も決まった時間に必ず飲ませるので、良くなるのだと思いますが、本人がそれがとても良い環境だと気づけないことは残念なことだったりします。




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安倍政権とは皿の上に蛆が湧き、それを蓋で抑えている状態

「混沌堂主人雑記」から抜粋転載。
混沌堂主人さんがよく引用する「神戸だいすき」さんが安倍政権について易を立てたところ、「山風蠱」の卦が出た、と書かれていて、それだけでも「おおっ。実にぴったりの卦だな」と思ったのだが、その後に書かれていた「山風蠱」の説明が実にナイスである。

「容器の中の腐った空気が蓋に閉じ込められた状態」というのは、まさに今の日本の政治状況、そして社会状況そのものだろう。当然、中には蛆が湧いているというのが、「山風蠱」である。「蠱」は皿の上に蛆の湧いた状態を表わす漢字。もちろん、蛆は経団連や官僚や自公政治家。


(以下引用)


内卦は巽で風です。
外卦は艮で山です。

風というものは流通振作の性質があります。

風は空気を移動させ、あらゆるものに清新な感触を与えていく働きがあります。

しかし、この卦においては、艮の山の麓に押しとどめられてしまい、吹きぬけることができません。

それにより、空気を濁らせ、湿気をよび、カビを生えさせたり、物を腐敗に導いたり、ついにはウジの湧くような状態にまで至らせます。

たとえば洋服を風に当てることをせずタンスの奥深くにしまい込んでいたりするとカビが生えたり虫に食われたりします。

その場合は艮が箱の蓋で、巽は腐った空気です。

艮の蓋のある容器に、巽の臭い風が閉じ込められていれば、いやでも物を腐敗させるようになります。

蠱という字は、蟲が三匹、皿の上にある文字で、この皿の上の蟲はしまいには必ず同類相喰む状態となるのは当然のことです。

そういう意味で蠱の字は「そこなう」」と訓読みし「みだれる」と
解します。

さらに「まどわす」「ふるし」「やぶる」です。

予、隨、蠱と配されるのも「喜びを以て人に隨うものは必ず事あり」ということです。

平和に馴れ、楽しみに泥み、向上進取の気力を失ったため、更新されない空気の中に色々な弊毒が生じたのが蠱弊なのです。

ですから、このまま放任しておかず何とか正していかなくてはなりません。

「大川を渉に利ろし」とはそのことで、重大な覚悟をもって改新の策を施さなくてはならないことを教えているのです。

そして各爻も、旧弊是正の意味を見ています。

「蠱は元いに亨る」とありますが、蠱は蠱のままで亨るわけではありません。

蠱の状態にあるものは、その弊毒を更新し大いに打開の道を建てることが先ず主題とならなくてはなりません。

その方法が「大川を渉る」「甲に先だつこと三日。甲に後るること三日」なの です。

「大川を渉る」ほどの一大決心が無ければ蠱弊は是正できません。

また「甲に先だつこと三日。甲に後るること三日」とは、これを改めなくてはならないと分かっていても、いきなり実行に移すのではなく、まずは蠱の生じた由縁を調べ、そして悪しきを削り取り、再び蠱を生み出さない用意を充分にしていくべきである……そして、事を起こす三日前に用意を整え、事を起こしたら、その三日後には功を挙げるくらい速やかに、徹底的に行うべきということです。

(加藤大岳述 易学大講座 現代語要訳)

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梅雨の随想

別ブログに載せた文章だが、ここにも載せておく。最後の一行だけ削った。




読みかけの本の中に、ある女学校の国文学教師が、授業中に窓の外の雨を眺めて、雨を見ると万葉集のこの歌を想起する、と言って、次の歌を呟く情景がある。


うらさぶる心さまねし 久方のあめの時雨の流らふみれば



このエピソードを読んで、言葉を知り詩を知り文学を知っていることが我々の人生に与える幸福さ、あるいは価値の大きさを思ったのだが、実は私はこの歌が昔から好きだのに、その解釈は読んだことがないので、ここで自己流の解釈をしておく。(あるいは解釈を読んだこともあるのかもしれないが、記憶が漠然としている。)


「うらさぶる」は「心さびしい」の意味で、「うら」には、「心」の意味と、「何となく」の意味があるかと思う。
「さまねし」は「遍(あまね)し」で、あちこちに広がることだろう。「さ」は接頭辞で、ここでは語調を整える働きかと思う。
「ひさかたの」はもちろん「天(あめ)」に掛かる枕詞で、意味を考える必要は無いが、「ひさしい」「永遠」を連想させるとすれば、「さまねし」と、響き合っている。私がこの歌を読んで感じるのは茫漠とした時間と空間の広がりだが、その理由はこのへんにありそうだ。
「時雨」は俳句では初冬の季語だが、万葉の時代から初冬に限定されていたとは思えない。(その辺は専門家の研究を見ないと分からない。)私は、この歌ではむしろ梅雨を連想した。
「流らふ」は、もちろん「流れる」であり、ここでは「天から流れ落ちる」意味だと思うが、あるいは「地上で川となって流れている」という解釈もあるのかもしれない。しかし、「天の時雨」と、わざわざ「天の」を入れていることから、そういう解釈は難しいのではないか。
見落としがちなのが、「流らふ」の「ふ」で、これは時間の継続や経過を表わす言葉で、つまり「経(ふ)」である。この時雨は、長時間降り続けている雨なのである。

私が、この歌を実に雄大で、かつメランコリックな歌だと思うのは、「うらさぶる心さまねし」とは、「何となく寂しい私の心が世界全体に広がる」ということだと解釈するからである。そして、その世界全体に広がった心の見る風景は、どこもかしこも「雨、雨、雨」である。
世界全体が雨で灰色一色に塗りつぶされている。
そして、それは私の心がうらさびしい心だからだ。

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「あれかこれか」となる理由

まあ、普通の人(消費者)にとっては時間もカネも有限だから、「あれもこれも」ではなく「あれかこれか」になるのは仕方がないが、作る側が、Bという商品を売るには既存のAという商品を駆逐しなければならないと考えるのはおかしいわけで、そういうことをすると文化がやせ細る。
ネットで文章を読むのと紙の書物で文章を読むのとでは、私の場合は読み方も印象の受け方も違う。どちらも私には必要だ。いくら電子書籍がシェアを増しても、紙の本のメリットが存在しなくなるわけではない。
ただ、兎小屋に住む下層階級(私)には、家に本を置くスペースが無いから書物をほとんど購入しなくなっただけである。その分、市民図書館にはお世話になるわけで、税金というのはそういう部分に支出してもらいたいと思う。それも「福祉政策」のひとつだ。



(以下引用)


  1. 僕らは何というか、生活実感的に「パイの大きさは変わらない」と考えがちで、それは文化的な面でも「デジタルよりアナログ」とか「電書より紙本」みたいな分捕り合い思想でものを考えてしまいそうになる原因なんじゃないかと思ったり。>RT

    デジタルもアナログも電書も紙本もどれもありよ。


  2. さんがリツイート

    最近メディアに取り上げられることが多くなったボードゲームも取材時に「デジタルゲームよりも良いもの、優れたもの」と言う前提で演出やコメントを求められたりすることがあるそうです。なぜデジタルの方を貶める必要があるのか。デジタル、アナログどちらも好きな立場としては残念です。














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関ヶ原で豊臣恩顧の大名たちが東軍になった理由

別のブログに書いたものだが、私にはまったく新しい知識(小西行長の謀略)を含むので、備忘的にここにも載せておく。
いくら考えても、加藤清正ら豊臣恩顧の大名たちが徳川方についた理由は今一つ納得できなかったのだが、その疑問が解けたような気がする。






司馬遼太郎の随筆「遠藤周作氏『鉄の首枷』について」の中に、小西行長の異常な計画への言及がある。
たぶん史実だと思うのだが、秀吉の朝鮮出兵の時、この戦争の失敗を予期していたと思われる小西行長は明朝廷に家来の内藤ジョアンを送り、日本を明の属国とし、秀吉を封じて日本国王とさせようとしたというのである。もちろん、秀吉のあずかり知らぬことで、行長の独断だろうが、その「講和内容」に、さらに驚くべきことが書かれていて、秀吉に次ぐ「大都督」として五人を封じてほしいとしていると言う。その五人の筆頭が小西行長、以下、石田三成、増田長盛、大谷吉継、宇喜多秀家となっているらしい。つまり、関ヶ原の戦いの西軍の中心メンバーだ。
仮に、この申し出が明に受け入れられていた場合、大大名を含め、諸大名はこの五人の下の立場になるわけで、もしかしたらこの申し出の内容を漏れ聞いた諸大名が、小西石田以下のメンバーへの憎悪と危機感を抱いたのが、関ヶ原の戦いの真の原因だったのかもしれない。
通常言われているように、朝鮮出兵時の「後方にいて、自分たちは指図口や干渉や上から目線の戦闘評価をするだけの文官グループへの憎悪」だけでは、豊臣恩顧の諸大名がほとんど東軍に付いた理由は説明できないわけで、この「小西行長の陰謀」こそが、関ヶ原の戦いの真相だったのではないか。(司馬遼太郎もそれに近いニュアンスを述べているが、そこまで明言はしていない。)

秀吉の朝鮮征伐、さらには明の征服という誇大妄想的計画の失敗を早くから見抜いていた「官僚グループ」が、明への服属をあらかじめ申し送り、朝鮮出兵失敗後の自分たちの地位を確保しようとしたのは官僚の習性としてよく理解できる。つまり、第二次大戦後の官僚たちのアメリカへの服属と同じである。

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どこをどう調べて発言しているのか

どうでもいいような話だが、こんな風にアルファベット型の小さなパスタの入ったスープは大昔からキャンベルのスープにある。「2000年ころ神奈川の小学生が考えた」というデマが拡散されないようにしてほしい。小さなことでも、デマは拡散しない注意が必要だ。









57歳の私には見たことも聞いたこともない給食メニューだった。




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指の長さを切りそろえる

「癸巳存稿」という昔の中国の随筆の中にこんな話がある。建隆年間というのは北宋の第一代の年号で、太祖は北宋初代皇帝。次の赤字部分が、引用。(大滝一雄訳)

建隆年間のこと、竹木務監督が、積まれている材木の長さがふぞろいなのを気にして、それを切りそろえたいと願いでた。すると太祖はその上申書の末尾に、「お前の手の指にも長短がないわけではなかろう。どうしてそれを切りそろえないのか。長いものは長いなりに、短いものは短いなりにしておくがよい」と返事を書きこんだという。
わたしの親戚に、この上申書と返事を見たものがある。この(太祖の)ことばというのは、信じてもよさそうだ。

お役人(管理者)というのは、自分の管理するものを整然としたい欲求が強いのだろう。今の日本の教育の画一主義というのも、その根源はそこにあるのかもしれない。手の親指も人差し指も中指も薬指も小指もみんな同じ長さに切りそろえたがるわけである。そういう「指の長さの揃った手」が、はたしてどれだけの働きができるものだろうか。
指の長さを切りそろえるというイメージが強烈なので、メモしておく。

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酔生夢人
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男性
職業:
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考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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