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call,calling,recall

政治用語でリコールという言葉があって、中学社会科くらいで習うと思うが、言うまでもなく「一般投票で公務員を解職する」ことであり、(たぶん)ほとんど日本では実施されたことの無い制度であり、死語である。それが死語であることが、民主主義がこの国では機能していないことの証明だろう。
だが、ここで私が言いたいのは、この制度がrecallと呼ばれていることの不思議さだ。
これは、第一義的には「思い出す」意味だからである。第二義に「(~を)呼び戻す、回収する」意味があって、これが政治用語としてのリコールに近いだろうか。つまり、政治的に不適切な人間を公職に就けてしまったことが分かって、その人間を一般人として「呼び戻し」「回収する」わけだ。
しかし、racallの第一義が「思い出す」であるのは、このrecallの中のcallが「呼びかけ」であり「訪問」だからだろう。つまり、racallとは、自分の記憶からの呼びかけであり、記憶への再訪だ。

私が一、二番に好きな昔のポップスの中に「Too Young」という歌があり、その歌詞の最後は、こうである。

And someday they may recall
We were not too young at all

このrecallは、自分の記憶から再び呼びかけられることであるわけだ。

そんなことを目覚めの寝床の中で朦朧と考えていると、乙一に「calling you」という短編小説があって、それをこの前読んだばかりであるのを思い出した。つまりrecallした。
この小説は「失はれる物語」という短編集の冒頭の作品で、(古文文法的には「失はるる物語」か「失はれし物語」とすべきかと思う。)名作が詰まった作品集だが、その最初の作品が「calling you」で、これは親から携帯電話の所持を許してもらえない女子高校生が頭の中で理想の携帯電話を克明に想像してそれを「持ち続けて」いると、或る日、その頭の中の携帯電話が鳴る、という話である。その呼び出し音(着メロ?)が「calling you」という曲で、これは「バグダッド・カフェ」という映画の主題曲であるらしい。私はこの映画を見たことがないし、曲も知らないが、題名から想像すると「私はあなたを呼び続ける」という趣旨の歌だろうと思える。この「calling」という「現在進行形」には、そういう印象があるわけだ。

(追記)念のために「バグダットカフェ」の「calling you」を聞いてみたが、ほとんどsummertimeのアレンジというか、パチモンであり、がっかりした。誰もそのことを指摘した人はいないのだろうか。過去作品(古典)への無知とは恐ろしいものである。

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とても面白い、「退屈な話」

チェーホフの「退屈な話」読了。非常に面白かった。
話の内容は、まあ、ベルイマンの「野いちご」である。つまり、偽善的に、あるいは自己欺瞞的に生きてきた人間の、老年における精神の荒廃だ。
ここで自己欺瞞的というのは、自己節制的、と言ってもいい。つまり、自分の欲望を抑えて理性的に生きてきたわけだ。ところが、すべての欲望がほとんど消滅した老年に残るのは、不満感だけであるわけである。黒澤明の「生きる」も、同じテーマである。まさに「命短し、恋せよ乙女」なのである。
まあ、快楽主義的に生きてきた人間の老年期の精神的荒廃は、もっとひどいかもしれないし、人間は自分の精神が導くようにしか生きないのだから、この種の話は或る種の「警告」にはなるかもしれないが、特効薬にはならないだろう。要は、話としてそれが面白いかどうかだけで、私などには面白い。30代でこれを書いたチェーホフ自身の晩年の精神的状況がどんなだったか知りたいものだ。
この「退屈な話」が退屈かどうかは読む人による。「退屈な話」というタイトルだけで敬遠する人も多いだろう。

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労働者の昼飯は娯楽や贅沢ではなく活動エネルギー源

私は定年退職後に、1日4時間の土方労働をしていたが、昼飯はだいたい、自分で作ったおにぎり2個(だいたいは塩むすび)だけだった。コンビニのおにぎりでは小さすぎるだろう。インスタント味噌汁は贅沢だと思うが、塩分補給にはいいと思う。何より、膨大な発汗で塩分とミネラルが体外に出るからである。
下の記事だと、おにぎり2個で270円くらいということで、これも贅沢だ。先に書いたように、量も不十分だろうが、肉体労働でなく頭脳労働の人ならそれでいいのかもしれない。
まあ、自分で作れば、1個あたり50円か60円程度だろうと思う。
なお、疲労回復に即効性があるのは甘味である。ある時、職場のチーフの差し入れでシュークリームを配給されたが、まさに天上の美味で、エネルギーが即座に体全体に沁み込むようだった。
体を動かさない人間には塩分も糖分も毒かもしれないが、肉体労働には必須である。エネルギー源として一番必要なのは炭水化物。米飯は腹持ちもいい。ちなみに糖分は頭脳労働にも必要で、棋士などが対局中に糖分を大量補給することは知られている。

これはどうでもいいことだが、おにぎりは食事時間が短くて済む。たぶん、10分程度で食えるだろう。余った時間が無駄に長いという人もいるかもしれない。まあ、食事が娯楽という人は、凝った弁当を1時間近くかけて食うのもその人の勝手だ。

(以下引用)



職場でのランチは「おにぎり2個」と「インスタントみそ汁」だけです。お腹はふくれますが“栄養面”は大丈夫ですか? 夜にしっかり食べれば大丈夫でしょうか…?© ファイナンシャルフィールド

おにぎり2個、インスタントみそ汁の節約効果と栄養面について

おにぎり2個とインスタントみそ汁は節約に向いているのか、栄養面に偏りがないのかを見ていきましょう。おにぎりはセブン-イレブンの梅干しのおにぎり(手巻おにぎり 熟成旨味仕立て紀州南高梅)を2つと、セブンプレミアムのカップみそ汁(磯の香り広がる 有明産海苔 21.6g)を購入していると想定します。

おにぎり2個とインスタントみそ汁の節約効果について

おにぎり2個とインスタントみそ汁をランチにしていた場合、節約効果は高いのか計算していきましょう。まず梅干しのおにぎりは1個135円で、2つ購入すると270円です。インスタントみそ汁は127円となっているため、おにぎり2個とインスタントみそ汁を合わせると397円かかります。


株式会社UOCCが運営する女性向けメディア「Spicomi」が2022年に行った会社員のランチ代に関する調査によると、全体の平均が575.8円(男性平均:561.8円、女性平均:584.1円)となっており、おにぎり2個+インスタントみそ汁だと平均よりも178円安くなっていることが分かります。

つまり、おにぎり2個+インスタントみそ汁は節約効果があるといえるでしょう。

おにぎり2個とインスタントみそ汁の栄養面について

続いて栄養面についてみていきましょう。結論からいうと、おにぎりとみそ汁は健康面にいい食材だといえます。梅干しおにぎりとみそ汁に含まれている栄養素の働きの一部をまとめたものは、図表1の通りです。


図表1


筆者作成


図表1の通り、おにぎりとみそ汁には多くの栄養素が含まれています。どの栄養素も健康を保つうえで大切な成分となっており、栄養面においてはおにぎりとみそ汁は好ましいといえるでしょう。

足りない栄養素は朝や夜でどう補う?

おにぎりとみそ汁は栄養面に優れているものの、食物繊維などが足りていない可能性があります。


厚生労働省で定められている「日本人の食事摂取基準(2020年版)」によると、1日の摂取目標とされている食物繊維は、18歳~64歳で男性21g以上、女性18g以上ですが、今回のおにぎりとみそ汁に入っている食物繊維は4.8gとなっており、1食分で摂取しておきたい量よりも少なくなっています。


そのため、朝食や夕食で足りない栄養素を補うのが良いでしょう。もし朝晩もみそ汁を飲むなら、みそ汁にさまざまな野菜を入れるという方法があります。具沢山でボリュームが出ますし、あまったら職場の昼食にもできる点もメリットです。


食物繊維はごぼうや大根などに多く含まれています。

おにぎりとインスタントみそ汁は経済面でも栄養面でもおすすめ!

今回はおにぎり2個とインスタントみそ汁の節約面と栄養面について解説しました。節約面ではランチ代の平均額よりも178円安くなっているとともに、栄養面でも健康にいい栄養素がたくさん入っています。一方で不足している栄養素もあるため、朝・晩に具だくさんみそ汁を作るなど、さらに栄養価を高める工夫をしていくとよいでしょう。

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「to be,or not to be」というセリフの含意

メモ的に使っている私の別ブログに書いた記事だが、実村文氏のここに引用したような「革命的」な創見は、広く知らせる価値があるだろうから、少しは読者もいそうなこちらにも載せておく。
ただし、少し追記する。

(以下自己引用)
私は英語力の無さには自信があるので、下の解釈が英語的に正解かどうかは分からないが、論理的には正解だと思う。つまり、これまでの無数の「誤訳」は、問題箇所の文脈をきちんと考えてこなかったための「誤訳」だったということだ。

「このままでいいのか、だめなのか、そいつが問題だ」

これこそ、この時のハムレットが抱えていた最大の問題であるのは明白である。つまり、「生きるか死ぬか」という問題ではなく、母親の不倫(父王の生前からの関係がどうかは不明だが、父王を殺したのが叔父なら、その可能性大)と、叔父による王(ハムレットの父)の殺害に対して立ち上がるか否かという問題だ。
そして、立ち上がることは、自分の死をもたらす可能性もあり、母の不倫を世に知らしめることにもなる。だからこそ、ハムレットは悩みに悩み、オフェーリアさえも「女という、不倫予備軍」と見てしまうのである。彼のオフェーリアへのあまりに無情な態度の意味はそこにある。だから「尼寺へ行け」なのである。それは「性欲を断て」という厳しい命令なのであり、そこに母親の不倫に苦しむ息子の怨念があるわけだ。


(追記)先ほど考えたのだが、なぜシェークスピアは単純に「to do,or not to do」としなかったのか、という疑問も生じるが、それは、なぜ「to live,or not to live」としなかったのと同様に、言いたいことの「含み」が無くなるからで、かといって、すべてを言いつくすと長くて締まりのない台詞になるからだろう。つまり、このbeには、doとliveが含まれており、さらに言えば、たとえば「to be continued」のように、この「to be」は、ここでの問題が未来に関係することを示している、という屁理屈はどうだろうか。つまり、それだけ深みがあるから、多くの訳者を悩ませたわけだ。





(以下引用)


「生きるべきか死ぬべきか」、それは誤訳だ。『ハムレット』の"例の箇所"について(透明なシェイクスピア(1))

実村 文 (theatre unit sala)
2020年1月28日 01:34

To be, or not to be, that is the question.

『ハムレット』三幕一場の「例の箇所」だ。いま、この記事を読んでくれているあなたは、どういう日本語訳で覚えているだろうか?
「生か死か」? 「世に在る、世に在らぬ」?
「生きるべきか死ぬべきか」?


あえて言おう。どれも、誤訳だ。


え、どこが誤訳なの? と、あなたは問うかもしれない。
"be"という動詞には「存在する」という意味があるから、その不定詞"to be"は「存在すること」つまり「生きること」「この世にあること」と訳せる。さらに、to不定詞はしばしば「~べき」という意味合いを含むから、「生きること」から一歩踏みこんで「生きるべきだということ」とも訳し得る。
その否定形"not to be"も、「生きること」の反対だから「死ぬこと」。「生きるべきだということ」の反対なら「死ぬべきだということ」。
ほら、どこも間違っていない。


そう、どこも間違っていない。文法的にはね。
でもそれは、この一行だけ訳したときの話なのだ。

この一行だけ見ていては、何も見えてこない。

この一行は、長い長い独白の冒頭にある。いわば「フック」だ。
よくある手だ。「え、なにそれ」と注意を引きつけておいて、そのあとにパラフレーズ(わかりやすく展開した言い換え)が続く。
こんなふうに。



To be or not to be, that is the question;
Whether ’tis nobler in the mind to suffer
The slings and arrows of outrageous fortune,
Or to take arms against a sea of troubles
And, by opposing, end them.  (Hamlet, Act 3 Scene 1)






このまま生きるか否か、それが問題だ。
どちらがましだ、非道な運命があびせる矢弾やだま
心のうちに耐えしのぶか、
それとも苦難の荒波にまっこうから立ち向かい、
決着をつけるか。(拙訳)



ハムレットの二択。1か2か選ばなくてはならない。
1.「非道な運命があびせる矢弾を心のうちに耐えしのぶ」= to be
2.「苦難の荒波にまっこうから立ち向かい、決着をつける」= not to be
1はようするに、このまま生きていくことだ。"to be"は「存在すること」だが、「いまのままの形で存在すること」でもある。ほら、ビートルズの"Let It Be"って「存在させてやれ」って歌じゃないでしょ、「あるがままにしておきなさい」でしょ。


2は1の否定だ。
1が「生きること」ではなく、「このまま生きていくこと」なら、
その否定は、「このまま生きていかないこと」。
ここで、慎重に考えてみてほしいのだ。「このまま生きていかないこと」=「死ぬこと」、なのか?
そうではないだろう。「いまの生き方をやめること」ではないのか。


ハムレットだけが、彼の父親を暗殺した真犯人を知っている。そいつは何重にも守られて、ぬくぬくと生きている。ハムレットは歯ぎしりしながら、それを「心のうちに耐えしのんで」、日を送っている。
いいのか、俺。いいわけないだろう、と彼は思う。
復讐しろ、俺。父上の敵を討て。「決着をつけろ」。


だが、キリスト教では、個人の復讐は大罪なのだ。復讐すればほぼ確実に自分も天罰を受けて死ななければならない。
死ぬのか、俺? 人を殺して死ぬのが俺の使命か?
俺はそれだけのために生まれてきたのか?


この二択、迷って当たり前だ。
とくに、若くて、才能と可能性にあふれた人間だったら。


いまの生き方をやめて、立ち上がって戦うと、結果としてたぶん死ぬ。だけどそれは「死ぬべき」を選んだのとはぜんぜん違う。だいたい「死ぬべき」って何だ。「生きるべき」はわかるが「死ぬべき」って何だ死ぬべきって。


「このままでいいのか、いけないのか、それが問題だ」という小田島雄志訳を初めて読んだとき、本当に衝撃だった。これこそ正解だと思っていた。
でも、小田島先生ごめんなさい、それさえも違う。
だって、わかっているじゃないですか、ハムレットも私たちも。
このままでいいわけがないのだ。


わかっているのに、まだ、変えられないでいる。

このまま生きるか否か、それが問題だ。

この独白全体の拙訳を、以下に挙げておく。
私には、ハムレットの言葉が、刺さる。泣ける。私自身の気持ちを語ってくれてるんじゃないかと思うほどだ。
難解でも哲学的でもなんでもない。ひじょうにクリアだ――痛いほど。
ひりひりする。
あなたは、どうだろうか。



このまま生きるか否か、それが問題だ。
どちらがましだ、非道な運命があびせる矢弾やだま
心のうちに耐えしのぶか、
それとも苦難の荒波にまっこうから立ち向かい、
決着をつけるか。死ぬ、眠る、
それだけだ。眠れば終わりにできる、
心の痛みも、体にまつわる
あまたの苦しみもいっさい消滅、
望むところだ。死ぬ、眠る――
眠る、おそらくは夢を見る。そこだ、つまずくのは。
死んで眠って、どんな夢を見るのか、
この世のしがらみから逃れたあとに。
だからためらう。それが気にかかるから
苦しい人生をわざわざ長びかせる。
でなければだれが耐える、世間のそしりや嘲り、
上に立つ者の不正、おごるやからの無礼、
鼻先であしらわれる恋の苦痛、法の裁きの遅れ、
役人どもの横柄、くだらぬやつらが
まともな相手をいいように踏みにじる場面、
なにもかも終わりにすればいいではないか、
短剣の一突きで。だれが耐えるというのだ、
人生の重荷を、あぶら汗たらして。
つまりは死のあとに来るものが恐ろしいだけだ、
死は未知の国、国境を越えた旅人は
二度と戻らない、だから人間は
まだ見ぬ苦労に飛びこむ決心がつかず、
いまある面倒をずるずると引きずっていく。
こうして、考えるほど人間は臆病になる、
やろうと決心したときの、あの血の熱さも、
こうして考えるほど冷えていく、
一世いっせ一代いちだいの大仕事も
そのせいで横道にそれてしまい、
はたせずじまいだ。




こちらにもう少し多めに載せてあります。




(追記)
紙の本、神保町の共同書店PASSAGE(パサージュ)で取り扱っていただいています。
どうぞよろしく。


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五年の無駄と一生の無駄

私は、ある時点から(たぶん、子犬の悲惨な「人生」を描いた短編小説を読んだ時から)チェーホフという作家が嫌いになったのだが、それは、彼の「冷酷さ」というのが嫌いだからだ。ただし、その「冷酷さ」というのは「科学者的冷徹さ」と言うのが適切だろう。
彼は自分が興味を持ったあらゆる事象を科学者的冷徹さで分析し、表現する。その結果、人生の悲惨さや社会の悲劇が見事に描写されることになるが、それを読んで「気持ちいい」と思う人は、よほどのサディストだろう。
彼の「ユーモア」も、人間の愚かさ、その行動の愚劣さを「冷徹に」描くところから生じるのである。けっして「暖かい」ものではない。つまり、ユーモアではなく、サタイア、皮肉、冷笑と言うべきだろう。もちろん、彼自身は、それを冷酷だとは思っていない。「桜の園」を彼が「喜劇」と言っているのは有名だ。そして、この劇の状況を「喜劇」だとしているところに、彼の冷酷さがある、と私は思うわけである。サドなどのほうが、人間としては温かいと私は両者の作品を比べて感じる。
ただ、チェーホフは作家としては天才的な才能があるのも確かで、読んで有益な、「人間教科書」ではある。心理解剖・分析など、見事なものだ。
わずか30歳で彼が書いた「退屈な話」を今読んでいる最中だが、あきれるほどの心理分析である。引退どころか死を間近にした老教授の心理を、わずか30歳の人間が、ここまでどうして描けるのだろう。まあ、誰かモデルとなった医学部教授がいた可能性もあるが、それでも、外部から見てその心理が分かるだろうか。

まあ、長々と意味不明の自論を書いても仕方が無いので、その「退屈な話」の中で、その老教授が落第学生に言う言葉を書いておく。これは、落第生たちへの見事な金言である。

「お赦しください教授」--彼はにやついている。「しかしそれは、少なくともぼくの側からいうとおかしいようですね。五年も学んできて急に……出ていけとは!」
「ふん、そうさ! 五年を棒にふるほうが、そのあと一生好きでもないことを仕事にするよりはましだよ」(湯浅芳子訳)




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海流の変化と気候変動

「大摩邇」所載の岡氏の記事の一部である。
例によって私の愚説を述べれば、地球の海流の状態変化は、地球の回転軸(地軸)の傾きが変化した結果である。地軸の傾きが変化したら、地表にある海流も影響を受けるのは当然だろう。
そして、海流に変化が生じたら、それは地表の気候を変化させるという、当たり前の話である。これも毎度言うが、二酸化炭素など、気候変動と何の関係もない。全校生徒の集まった体育館、いや、運動場で誰かが屁をひったら、その場の全員が臭いを感じるか?




(以下引用)

海流の問題

私はずいぶん以前から「地球の海流の消失傾向」ということに興味を持っていました。14年前の「海の終焉: すべての海流が死につつある」という記事が最初ですかね。


その後、14年間、地球の海流は死んではいないですが、弱体化はし続けていて、2015年には、「メキシコ湾流が減速している」ことが、研究で明らかになりました。


気候変動研究は、メキシコ湾流の減速を明らかにした


メキシコ湾流は、地球上で最も重要な熱輸送システムのひとつだ。メキシコ湾流は、効率的に海流を通して北半球に赤道から熱をもたらす。


しかし、このメキシコ湾流が減速してきていることが最近の研究で示された。


このことは興味深い。なぜなら、世界の多くが温暖化している中で、世界の一部の地域は寒冷化に向かうことが予測されるからだ。


ペンシルベニア州立大学の名誉教授であり、気象学が専攻のマイケル・マン氏は以下のように述べる。


「現在の一般的な気候モデルは、私たちが現在直面している変化を過小評価しています。その理由は、大西洋の熱循環が安定しているためかもしれないですし、あるいは、気候学者たちが、グリーンランドの氷床の融解を正しく見積もっていないか、またはその両方の理由により、過小評価されているのだと思われます」


Pioneer News 2015.03.25



Hadal Environmental Science/Education Program


2015年のこちらの記事に全文の翻訳があります。この 2015年ころから現在にいたるまで続く、ややカオスな気象や天候も、このメキシコ湾流の減速や、あるいは、海流は地球海洋上ですべてつながっていますので、「地球規模の海流の異常」と結びついている可能性も高いです。


つまり、気候変動の原因のひとつには、この海流の異常や海流の変化というものが関係していると思います。あくまでひとつですが。







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天皇制の考察

胸中に成案があるわけではないが、「天皇制とは何か」について考えてみたい。政治学者も、この問題を真剣に考察した人は少ないのではないか。まあ、昔の「神皇正統記」くらいしか思い浮かばないが、あれも多分、南北朝のどちらが正統か、という問題を論じているだけなのではないか、と推測する。
で、私の腹案としては

1:天皇とは権力ではなく権威である。
2:権力でないからこそ、異常な永続性があった。
3:天皇とは平和の象徴である。

という3点が、今思い浮かんだものである。特に2は、かなり確信がある。
1に関しては、「天皇そのものが『錦の御旗』である」と言えば、分かりやすいかと思う。つまり、権力の正当性を保証するのが、「天皇がこちら側に付くこと」だったわけだ。

権力そのものは武力によってしか保証されないが、それが逆に権力の不安定さや、永続性の無さの理由でもあった。
古代中国には無数の政権や王朝が成立しては滅んでいったが、それは彼らがただ「権力的存在」でしかなく、その永続性を保証する「権威」の後ろ盾が無かったからだ、というのが私の仮説である。武力で打ち立てられ、武力で維持されてきた権力は、それより強大な武力的存在が出てきた時、必ず打倒され、滅びるのである。
そして、中国には権力を背後で支える「権威」が無かったから、たとえば黄巾の乱や太平天国の乱など、新興宗教が突然に力を持ち、政府を揺るがしたわけだ。道教も仏教も、それらの新興宗教を阻止する力にはなれなかった。いや、道教など、新興宗教に利用されたのである。
つまり、宗教を土台にした「権威」は、中世西洋のカトリックくらいのレベルでないと、社会秩序維持の基盤にはなれないのである。で、それは「唯一神」という狂信が疑われるようになると、力を失った。現在の西洋の無道徳さは、その宗教心の崩壊が原因である。

日本の「天皇制」というか、天皇の存在は、宗教ではないのに、動揺する人心をひとつにまとめる不思議な力があった。明治以後の「国家神道」は、宗教でもない神道を宗教化し、天皇を神格化するという異常なやり方で近代国家形成の土台とし、それは国力増大の大きな力になったが、それが第二次大戦での破滅の原因にもなったわけだ。
それは「天皇という権威」を「権力と一体化する」歴史的失敗だった、というのが私の説である。(現在の「象徴天皇制」こそが、「権威」としての天皇制のもっとも純粋な形だろう。天皇は、「ただ存在するだけでいい」のである。それが存在することで、人の心の奥底に安心感が生まれ、日本の歴史や伝統や日本人への誇りと信頼が生じ、日本という国が安定するのだ。それが「天皇は日本の象徴である」ということの意味だ。)

3についての考察は宿題として、「権力」と「権威」の違いを簡単に言っておく。
権力とは文字通り、力である。それは「武力」や「資力」を土台とする。現代世界では資力こそが政治や社会を動かす権力なのである。そして、天皇には資力も武力もないのは明白だろう。天皇家の資力など、雀の涙程度のものとしか私には思えない。
だが、大富豪の資力も天皇の前では無力である。それが1000年以上もの歴史の上に成立する「権威」というものだ。
武力は、簡単に天皇を殺せるだろう。だが、それをやる時、その権力はこの日本で存続する力を失うと思う。だから、信長も秀吉も家康も天皇制に手を触れなかったのである。


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職業:
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考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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