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イスラム世界でのクルアーン(コーラン)受容の色々

前回記事と同じく「中外日報」記事だが、仏教にこだわらず、他宗教に関する記事も載せる懐の深さを見せている。素晴らしいことだ。
引用記事によって私もイスラム世界でのクルアーン(俗にコーラン)の受容態度が様々であることが分かり、勉強になった。これによって「イスラムテロ」がイスラム教徒から発生する可能性が認識されると共に、それがクルアーン受容のひとつの在り方でしかないことも分かる。まあ、仏教でも日蓮宗のように他宗攻撃が激しいものもあれば、禅宗のように個人的悟りだけを目指すものもあるようなものだろう。キリスト教も同様であり、カソリックとプロテスタントの違いは大きい。

(以下引用)

聖典クルアーンとムスリムたち(1/2ページ)

明治学院大国際学部教授 大川玲子氏

2022年2月7日 10時00分
おおかわ・れいこ氏=1971年、大阪府生まれ。東京大大学院博士課程修了。文学博士。専門はイスラーム思想、クルアーン解釈史。最近はクルアーンの宗教多元主義的な解釈とその実践に関心を持つ。著書に『クルアーン 神の言葉を誰が聞くのか』などがある。

コロナ禍のため、海外での調査出張ができない日々が続いている。筆者の専門はイスラーム思想で、特にムスリムによる聖典クルアーン(コーラン)の解釈を研究してきた。ムスリムたちのクルアーンとの関わりを多角的に知るためには、文献調査のみならず、現地での聞き取り調査も大切なのは言うまでもない。これまで中東や東南アジア、欧米のムスリム社会で現地調査を行ってきたが、ここのところ、研究対象は文字情報が中心となってしまっている。


このような中、ムスリム社会での現地調査を思い起こすとやはり脳内に流れるのが、アザーン(礼拝の呼びかけ)とクルアーン読誦の声である。ムスリムが多数を占める社会を訪れると、アザーンは街中で否応なく耳に入って来る。朝から晩まで。クルアーンもテレビやラジオから流れ出ているので、商店やタクシーの中で耳にすることになる。また電車やカフェでも、クルアーンを手に小声ではあるが読誦している人を見かけることは珍しいことではない。


ムスリムは聖典と距離が近く、日本社会での聖典との関わり方とは大きく異っている。ただ、全てのムスリムが厳格に関わっているわけではなく、地域や個人による差、さらに言えば時代による変化がある。このことについては拙著『リベラルなイスラーム 自分らしくある宗教講義』(慶応義塾大学出版会、2021年)で書かせていただいた。クルアーンを根拠としてテロ活動を正当化するムスリムもいれば、平和主義活動に従事するムスリムもいる。そしてその間には様々なタイプのムスリムがいて、自分の立ち位置に迷いながら過ごす者もいる。ムスリムたちも決して一枚岩ではなく、人間であるがゆえに多様性や迷い、試行錯誤の中で生きているのである。


アメリカの世論調査会社ピュー・リサーチ・センターは、世界中のムスリムたちを対象に興味深い調査を行っている。上掲の拙著でも紹介したが、「どの程度の頻度でクルアーンを読むのか」と「クルアーンを字句通りに読むべきか」という質問に対する答えを見てみたい(12年公表)。ムスリムたちがクルアーンを読む頻度は地域によって異なっている。毎日読む者は、中東アラビア語圏の国だとほぼ半分だが、南欧・東欧・中央アジアだと10%以下になっている。ここからもクルアーンとの接し方に文化・地域差があることが分かるが、それでも社会の中にずいぶん浸透しているという見方が日本と比較しての正直な感想ではないか。


この頻度についての質問は、内容をどう理解しているのかには直結していない。しかし「クルアーンを字句通りに読むべきか」という質問は、ムスリムの内容理解の実態に踏み込んでいる。この調査はサブサハラ(サハラ以南)のアフリカ諸国とアメリカのムスリムが対象になっている。サブサハラ・アフリカでは平均すると80%がクルアーンを字句通りに読むべきと回答している(ただし国によって54%から93%と差がある)。他方アメリカ在住のムスリムで字句通りに読むべきと考えているのは半分ほどであった。マイノリティとしてアメリカで暮らすムスリムたちの中には柔軟にクルアーンを理解する必要性を認識している者が多い、ということであろう。とはいえ、それでも半分以上のムスリムがクルアーンを字句通りに理解するべきと考えているということは、日本人の感覚からすると驚きかもしれない。


このことは何よりも、クルアーンが神(アッラー)の言葉そのものとされていることに起因する。預言者とされるムハンマドの口を通して人々に伝えられた一字一句が神のものだと信じられているのである。そのためそれをそのままアラビア語で読誦することが重視され、かつては他の言語への翻訳も忌避されていた。翻訳されて広く読まれている他の宗教の聖典に比べると、ムスリムのクルアーン認識には、7世紀にアラビア半島で生まれた言葉への強固なこだわりが存在する。ゆえに柔軟な解釈を認めずに、当時のムハンマドの周囲の環境を現在に復元することを求めるムスリムが出てくるのである。


ムハンマドはメッカで生まれたが、そこで新しい教えを説き、多神教徒であった人々に迫害された。そしてメディナに移住した。だがそれでもメッカ勢力から攻撃されたため、自ら戦闘に従事している。この時期に断続的に下されたとされる言葉が神の啓示と信じられているものであり、ゆえにこの中には異教徒を攻撃することを命じる内容が含まれている。このような句をどう解釈すればよいのだろうか? 字句通りに読めば、今なお異教徒を見つけ次第、殺害することが必要となる。この読み方を支持する者たちの究極の形がテロリストということになる。


他方、字句通りではなく、当時の状況を考慮して解釈しようとする者も少なくない。アラビア半島では戦闘が常態で、ムハンマドは迫害を受け防衛のために戦ったのであり、ユダヤ教徒やキリスト教徒から多くを学び良好な関係を構築しようとした。クルアーンにはこのような内容の文言も多く含まれる。ゆえにそれらを考慮し、クルアーンの言葉が持っていた価値観を現代的に読み直し、「自己防衛のための戦い以外は認めない」という解釈を提示する者もいるのである。


読む者によってクルアーン解釈は変わっていく。するとクルアーンという聖典の存在にはどのような価値があるのか、という疑問が出てくるかもしれない。ここでクルアーンを解釈した二人の現代ムスリム思想家を紹介しておきたい。彼らは自らの思考を深めるためにクルアーンがあると捉えている。インドの平和主義者ワヒードゥッディーン・ハーン(1925~2021)はコロナ禍により逝去されたが、生前に筆者がお会いした時、このような会話を交わしたことがある。筆者が「どのクルアーン解釈者の解釈を評価していますか」と尋ねたところ、「あれかこれかにこだわらず、自分で読むのがよい」とのことであった。またパキスタン出身でイギリスで活躍する文化評論家ズィアウッディン・サルダール(1951年生)はその解釈書『クルアーンを読む―イスラームの聖なるテクストの現代的関係性』(2011年、日本語未訳)で、読者はクルアーンを読む時に熟考する必要があり、それこそがクルアーンの価値だと述べている。つまり彼らはクルアーンの解釈は確定されるものではなく、時代や読む者の立場との応答の場のようなものだと考えている。これは他の者の解釈を鵜呑みにすることを否定し、クルアーンを通して個々人が神と直接対峙し思索を深めることを目指すものだとも言えるだろう。


近年、日本でもムスリム人口が増加してきた。これまではムスリム諸国から就業などで日本にやってきて定住する者が多かったが、日本人改宗者が増えてきているのが近年の特徴であろう。クルアーンの日本語への翻訳の歴史を見るとそのことがよく分かる。最初の翻訳は大正時代になされ、それ以降、知的関心による翻訳が続いた。代表例が1950~60年代に井筒俊彦が訳した『コーラン』(岩波文庫)である。しかしここのところムスリムに改宗した日本人による翻訳書が立て続けに刊行されている。例えば中田考監修、中田香織・下村佳州紀訳『日亜対訳クルアーン』(作品社、2014年)や、水谷周監訳著、杉本恭一郎訳補完『クルアーン やさしい和訳』(国書刊行会、19年)などである。それぞれの翻訳書に付された注解を見ると、訳者の見解つまり解釈を垣間見ることもできる。加えて最近、日本人ムスリムによるイスラーム論もいくつも刊行されている。


日本社会にイスラームが定着し、展開しつつある現在、思想的にも深まっており、そろそろ日本人ムスリム独自のクルアーン解釈書が世に現れるのではないか、そう思うこの頃である。それは宗教の影響が大きくないとされる日本社会からの一神教理解の提示であり、世界中に広がるムスリムのクルアーンとの関わり方の歴史に新しい様相を加えることになるだろう。





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インドの宗教と社会体制

「混沌堂主人雑記(旧題)」で知った「中外日報」という仏教系と思われるウェブマガジン記事だが、インド社会の過去・現在・未来と「ヒンドゥー教対仏教」の対立は大きな関係があるかと思うので、全文を転載する。私の管見では、インドのカースト制とヒンドゥー教は不可分であり、カースト制が在る限りインドの発展は望めないと思っている。もちろん、仏教やキリスト教ならいいというわけでもないが、ヒンドゥー教はカースト制という地上最悪の社会制度の土台である以上は、強く批判検討されるべきだろう。それはヒンドゥー教社会の内部からは難しいと思う。なお、文中の「ダンマ」は「ダルマ」と同義で使っているかと思うが、読者を無用に混乱させるのではないか。

(以下引用)

アンベードカルと仏教改宗運動(1/2ページ)

京都産業大教授 志賀浄邦氏

2018年9月14日
しが・きよくに氏=1974年、大分県生まれ、京都大大学院文学研究科博士課程修了(仏教学専修)。専門分野は、仏教学・インド思想。京都産業大講師を経て、2018年4月から現職。主な著書に『社会苦に挑む南アジアの仏教』(関西学院大学出版会、共著)などがある。

2018年2月、筆者はインド・チャティースガル州にあるプラギャーギリ(智慧山)という山の頂に鎮座する黄金の大仏の前にいた。同州ドンガルガル市において、毎年この時期に開催される国際仏教徒大会に参加するためである。「山の砦」を意味するドンガルガルには、山々が連なり、ヒンドゥー教やジャイナ教の聖地が点在している。


今年25回目を迎えた国際仏教徒大会は、地元仏教会によって主催され、毎年大仏が完成した2月6日に開催されている。例年日本を含む世界各地から多くの仏教僧や仏教徒が参加するが、ここ数年は在インド50年余になる日本人僧・佐々井秀嶺師が大会の導師を務めている。元々この大仏は、佐々井師とも関係が深く、長年比叡山で修行したインド人僧サンガラトナ師が日印仏教友好協会(現パンニャ・メッタ協会)の支援を受けて1998年に建立したものだという。


会場にはすでにナーグプルなどインド各地から数万人の仏教徒が集結し、イベントの開始を待ちわびていた。関係者の挨拶や来賓のスピーチの合間に、舞台上では歌や踊り、劇などが演じられる。それらは概して、B・R・アンベードカル(1891~1956)という一人の偉人の功績を讃えるものであった。


数ある演目のなかで、特に印象に残っている演劇がある。それはアンベードカルによるダリット(「虐げられた者」の意で旧不可触民のこと)の解放を象徴的に再現するものであった。上半身が裸で腰布のみを着用し、首から痰壺をぶら下げ、腰から箒を下げた男が、周囲からの視線に怯えながら前かがみの姿勢で3人の男の前を横切ろうとする。3人の男とは、バラモン、クシャトリヤ、シュードラに属する者であるが、腰布の男はそのいずれからも叱責、罵倒され、その場から立ち去るよう命じられる。


途方にくれた男のところに、眼鏡をかけ背広を羽織った、立派な体躯の男が突如として現れる。背広の男は、腰布の男の身体から痰壺と箒を取り去り、彼を勇気づけ、祝福を与えるのである。腰布の男は歓喜に震え、胸を張って笑顔で観衆の方を向く。最後に背広の男は、人々に向かって人間の尊厳と平等について語るのである。言うまでもなくここでの「腰布の男」とはダリットを指し、「背広の男」こそがアンベードカルである。


「マハール」という旧不可触民出身であったアンベードカルは、幼少時代から幾多の差別を経験しながらも学業に秀で、海外留学を経て帰国後は、独立後のネール政権下でインドの初代法相となった。憲法起草委員会の委員長に任命され、インド共和国憲法の起草に際して中心的な役割を果たす。そしてついに憲法第17条において不可触民制の廃止を明文化するに至った。彼は元々ヒンドゥー教徒であったが、最終的に、ヒンドゥー教自体を内部から改革することによって差別問題を解決しようという道はとらなかった。彼は、1935年に行った演説のなかでヒンドゥー教以外の宗教への改宗を正式に宣言したものの、すぐに改宗を行うことはなかった。それから約21年間、研究と熟慮を重ね、最終的に56年10月、数十万もの下層民衆と共に仏教への集団改宗を敢行するのである。


前述の演劇の話に戻ろう。筆者なりに分析すると、これは「不可触民出身であるが、仏教徒となったアンベードカルが差別と貧困に苦しむダリットを救済する」、すなわち「不可触民(仏教徒)自身が自ら行動を起こし、自分たち自身を解放する」という構図になっていることがわかる。


もちろんダリット民衆がある団体を組織し、政治的・社会的な側面から解放運動を展開することも可能であろう。しかしながら、ヒンドゥー教徒が圧倒的多数を占めるインド社会では、社会的上位者(ヒンドゥー教高位カースト)が弱者(下層カースト、不可触民)を救済するという構造を変えることは難しい。つまり、不可触民はヒンドゥー教という枠組みのなかにいる限り、ブラーマンを頂点とするカースト(もしくは浄・不浄)イデオロギー ――換言すれば、聖俗両フィールドにまたがるヒンドゥー・ダルマ――の言説空間にとどめ置かれ、「救済されるべき哀れな人々」という受動的な立場を脱することができないのである。


そこで鍵となるのが、ヒンドゥー教から別の宗教への改宗という行動である。アンベードカルによる仏教改宗はこれまでも色々な角度から考察されてきたが、近年ゴウリ・ヴィシュワナータンが新たな見解を打ち出しているので、ここではそれを参照したい。


アンベードカルのかつての留学先の一つでもあるアメリカ・コロンビア大学にて、エドワード・サイードに師事した彼女は、「改宗する」という動的プロセス自体に注目した。そして改宗を「社会に動揺を引き起こす政治的出来事」であり、「ある宗教をそのまま受け入れること」では決してなく「改宗先の宗教を作りかえるプロセス」であると述べている(『異議申し立てとしての宗教』)。


アンベードカルは、自著『ブッダとそのダンマ』において「ブッダの意見によると、絶対に確実なものは何もなく、いかなるものも決定的なものにはなりえない。あらゆることはいつでも再検討と再考に開かれていなければならない」と表明している通り、ブッダのダンマの合理的・理性的側面や懐疑主義的側面を重要視していた。このことを受け、彼女は「理性、思慮深さ、歴史的意識にもとづく個人の選択の行使」を「行為主体性」という言葉で表現する。アンベードカルにとっては、ダリット民衆が「自ら何かを選び取る」という行為主体性の回復こそが仏教改宗の主眼の一つであったといってもよい。


さらにアンベードカルは不可触民の起源についても、通説とは異なる興味深い考察を行っている。アンベードカルは、元々仏教徒であった人々がブロークン・メン(「砕かれた人々」「虐げられた人々」の意で、村落共同体のつながりを失い各地に離散した人々を指す。ヒンディー語の「ダリット」にも対応)となり、ブラーマンたちからの蔑みと憎しみの対象となっていたことや、ヒンドゥー教内で牛肉食が廃止された後もそれをやめなかったことが不可触性の起源として考えられると主張する。


また同一視されることの多い不可触性と不浄性は実は異なるもので、不可触性は法顕や玄奘等の中国僧による記録から牛肉食が禁止されたと推定される紀元後400年頃から現れたとした。不可触民差別の最大の根拠となる不浄性を不可触性から切り離し、差別の実体的な根拠は実は何もないことを示そうとしたこの手法は鮮やかという他ない。


すでに多くの識者の批判にさらされている通り、不可触民の起源を仏教とバラモン教(ヒンドゥー教)の宗教対立や牛肉食に関連付けようとする彼の説を実証的に証明することは困難であろう。しかしながら、彼は差別に喘ぐダリット民衆のため、一般に認められている公式の歴史とは別の「もう一つの歴史」を描き出そうとしたと考えることはできないか。必ずしも歴史的事実に裏付けられない『マハーバーラタ』等の叙事詩が、ヒンドゥー教徒にとって自信や誇りの源泉となっているのと同様、彼の創出した物語は、抑圧されてきたダリット民衆たちに自信と勇気をもたらし、自ら考え行動するためのホームベース(本拠、避難場所)を提供している。以上のことから、彼が最終的に改宗先として仏教を選んだのは必然であったとも言えるだろう。


先に述べた行為主体性の回復は、同時に、当該集団において主に多数派によって容認される既存の価値観や権力に取り込まれることへの抵抗をも意味する。改宗という営為は、伝統的に認められてきた教義やあり方に異議申し立てを行い、既存の枠組みを揺さぶるというダイナミズムを秘めているのである。アンベードカルの衣鉢を継ぐ、前述の日本人僧・佐々井秀嶺師は、現在1億人を超えるとも言われるインド仏教徒の指導的立場にいるが、時に日本の宗派仏教の現状に対しても痛烈な批判を行う。これは、アンベードカルに始まる仏教運動が、既存の仏教の形骸化や教条主義的側面に対しても、強い批評性をもちうることを意味している。そのような意味で、アンベードカルによって再発見・再構成され、佐々井師に先導される仏教徒たちによって受け継がれた「ブッダのダンマ」は、新たな生命を吹き込まれ、21世紀の今、「再創造」されつつあると言えるのではないだろうか。


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「正義」とは何か

「正義」とは何か、を改めて考えてみよう、というわけだが、
基本的には「正」も「義」も「正しいこと」だろう。だが、その「正しさ」とは何か、と改めて考える必要がある。
テストの答えが「正しい」ことと、「正義」は明らかに違うわけで、「正義」とは論理ではなく倫理に属する概念だ、と言えるだろう。(もちろん、倫理の設定段階では論理が思考手段となる。)
問題は、その「倫理」とは何か、ということだ。「倫理」の「倫」は「道」「道筋」のことである。あるいは「秩序」のことだ。ほかにも意味はあるが、「倫理」に関係する意味は上記のものだろう。手元の漢和辞典では「倫理」は「人が守るべき道」「道徳のよりどころとなる原理」とある。一般には道徳と倫理はイコールだろう。つまり、倫理は「法律」とは異なる社会秩序維持の原理であり手段である。簡単に言えば、法律には罰則があるが、倫理には基本的に罰則は無い。そして法律は人の行為を規制するが、倫理は人の内面を規制する、と言えるのではないか。キリストは姦淫の目で女を見ることは実際に姦淫を行ったのと同じだ、と言ったが、だからと言って、その人の目を抉り出せ、とは言わないww  考えたことが罰の対象となるなら、私など何万人も人を心の中で殺している殺人鬼である。
では、倫理は無力かと言うと、そうではない、というのが私の主張だ。しかし、自由主義社会の中ではどんどん自由が拡大される結果、内面的道徳は無力化するはずだ。偽善的であろうと、社会が倫理を墨守している場合、やはりそれが個人の思考や行動を無意識のうちに規制するはずだ。それが不正義から人を守る抑止力となる。いや、なっていたわけだ。
つまり、自由主義の拡大によって「道徳によって守られていた部分」がどんどん蚕食されていくのである。もちろん、その道徳で守られていたのが「強者の権利」だった部分もあるだろう。
では、「何の規制もなく、すべてが許されている社会」は、どうなるのか。もちろん、そこでは弱者の生きる余地は無くなる。つまり、倫理で守られているのは必ずしも強者ではなく、むしろ弱者のほうだ、と私は見ている。そういう「倫理の無力化」がトラシュマコスの「正義とは強者の利益だ」という「悪しき正義」である。「勝てば官軍」とはそういうことである。

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読書とは何か

まあ、あれだ。年を取って性欲も物欲も希薄になると、毎日の楽しみは「認識の喜び」だけになるのではないか。食欲などもかなり寿命は長いが、老人は食える量そのものが制限され、歯が無くなると固い物は食べられない。老眼でも遠くの物はかえって見やすいから、風景の美に興味のある者は「物を見る喜び」はかなり長続きする。これも「認識の喜び」だ。もっとも、海を見ても山を見ても木や草花を見ても壮大な夕焼けを見ても静かな夜明けの空や遠くの地平を見ても何の美も感じないとなると、老年の喜びとして何があるのだろうか。地位の高い人間なら他人を怒鳴りつける快感とか?
読書の喜びなども、単なる娯楽小説だと「認識の喜び」はほとんど無い。毎度おなじみのパターンで、いわばコンビニ弁当のようなものだ。すぐれた小説や随筆や論文を読むことは、すぐれた知性の人間との対話ができるという「特権」だ。つまり、読む側にある程度の知性が無いと対話はできない。そういう文章を読むことは、先に書いた「コンビニ弁当」に対して「超一流シェフの作った料理」を味わえる、ということなのである。だが、味覚音痴にはその料理もコンビニ弁当と同じ、いや、牛や馬の餌と同じだろう。逆に、牛や馬の餌が「電通商法」によって「一流料理」扱いされることもよくある話である。
まあ、とりあえず、「年月によって評価が定まった古典」は品質保証の一流料理だろう。で、一流作家の小さな作品も、やはり一流の料理なのである。これは、寝起きに夏目漱石の「カーライル博物館」という初期随筆を読んでの感想だ。我々は夏目漱石の目や頭脳を通して、世界の事物を眺めるという、貴重な経験、大袈裟に言えば「至高体験」ができる。これが読書というもので、ネットでの「情報収集」とはまったく別物だ。私の考えでは、この読書体験は「紙媒体」でないとかなり難しい。
ただし、ショーペンハウエルが「読書について」で言っているように、読書がしばしば「自分の頭を他人の思想の運動場にする」だけで終わることも多いだろう。
年齢を重ねることで読書能力が増すのなら、年を取るのも悪いことだけではない。





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「自由」




「自由 Liberté」ポール・エリュアール Paul Eluard 

     
自由       ポール・エリュアール   安藤元雄訳


学校のノートの上
勉強机や木立の上
砂の上 雪の上に
君の名を書く

読んだページの上
まだ白いページ全部の上に
石 血 紙 または灰に
君の名を書く

金色の挿絵の上
兵士たちの武器の上
国王たちの冠の上に
君の名を書く

ジャングルと砂漠の上
巣の上 エニシダの上
子供のころのこだまの上に
君の名を書く

夜ごとに訪れる不思議の上
日ごとの白いパンの上
結び合わされた季節の上に
君の名を書く

切れ切れの青空すべての上
池のかび臭い太陽の上
湖のきらめく月の上に
君の名を書く

畑の上 地平線の上
鳥たちの翼の上
影を落とす風車の上に
君の名を書く

曙のそよぎの一つ一つの上
海の上 船の上
途方もない山の上に
君の名を書く

泡と立つ雲の上
嵐ににじむ汗の上
つまらないどしゃぶりの雨の上に
君の名を書く

きらきら光る形の上
色彩の鐘の響きの上
自然界の真理の上に
君の名を書く

目をさました小径の上
伸びひろがった街道の上
あふれ出る広場の上に
君の名を書く

いまともるランプの上
いま消えるランプの上
一つに集まった僕の家の上に
君の名を書く

二つに切られたくだもののような
鏡と 僕の部屋との上
からっぽの貝殻 僕のベットの上に
君の名を書く

くいしんぼうでおとなしい 僕の犬の上
ぴんと立ったその耳の上
不器用なその前足の上に
君の名を書く

僕の戸口の踏み板の上
いつも見慣れた品物の上
祝福された火の波の上に
君の名を書く

許し与えられた肉体全部の上
僕の友人たちの額の上
さしのべられる一つ一つの手の上に
君の名を書く

思いがけないものの映る窓ガラスの上
じっと黙っているときでさえ
心のこもる唇の上に
君の名を書く

取り壊された僕の隠れ家の上
崩れ落ちた僕の烽火台の上
僕の退屈の壁の上に
君の名を書く

望んでもいない不在の上
むきだしになった孤独の上
死神の歩みの上に
君の名を書く

立ち戻った健康の上
消え失せた危険の上
思い出のない希望の上に
君の名を書く

一つの言葉の力によって
僕の人生は再び始まる
僕の生まれたのは 君と知り合うため
君を名ざすためだった

自由 と。




Liberté    Paul eluard


Sur mes cahiers d'écolier
Sur mes pupitre et les arbres
Sur le sable sur la neige
J'écris ton nom

Sur toutes les pages lues
Sur toutes les pages blanches
Pierre sang papier ou cendre
J'écris ton nom

Sur les images dorées
Sur les armes des guerriers
Sur la couronne des rois
J'écris ton nom

Sur la jungle et le désert
Sur les nids sur les genêts
Sur l'écho de mon enfance
J'écris ton nom

Sur les merveilles des nuits
Sur le pain blanc des journées
Sur les saisons fiancées
J'écris ton nom

Sur tous mes chiffons d'azur
Sur l'étang soleil moisi
Sur le Lac lune vivante
J'écris ton nom

Sur les champs sur l'horizon
Sur les ailes des oiseaux
Et sur le moulin des ombres
J'écris ton nom

Sur chaque bouffée d'aurore
Sur la mer sur les bateaux
Sur la montagne démente
J'écris ton nom

Sur la mousse des nuages
Sur les sueurs de l'orage
Sur la pluie épaisse et fade
J'écris ton nom

Sur les formes scintillantes
Sur les cloches des couleurs
Sur la vérité physique
J'écris ton nom

Sur les sentiers éveillés
Sur les routes déployées
Sur les places qui débordent
J'écris ton nom

Sur la lampe qui s'allume
Sur la lampe qui s'éteint
Sur mes maisons réunies
J'écris ton nom

Sur le fruit coupé en deux
Du mirroir et de ma chambre
Sur mon lit conquille vide
J'écris ton nom

Sur mon chien gourmand et tendre
Sur ses oreilles dressées
Sur sa patte maladroite
J'écris ton nom

Sur le tremplin de ma porte
Sur les objets familiers
Sur le flot du feu béni
J'écris ton nom

Sur toute chair accordée
Sur le front de mes amis
Sur chaque main qhi se tend
J'écris ton nom

Sur la vitre des surprises
Sur les lèvres attentives
Bien au-dessus du silence
J'écris ton nom

Sur mes refuges détruits
Sur mes phares ecroulés
Sur les murs de mon ennui
J'écris ton nom

Sur l'absence sans désir
Sur la solitude nue
Sur les marches de la mort
J'écris ton nom

Sur la santé revenue
Sur le risque disparu
Sur l'espoir sans souvenir
J'écris ton nom

Et par le pouvoir d'un mot
Je recommence ma vie
Je suis né pour te connaître
Pour te nommer

Liberté


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職業と知性・教養

「阿修羅」所載の室井佑月のブログ記事への一連のコメントだが、思考素として興味深い。
私はこのブログのタイトル「嗚呼おっしゃってますが」が大嫌いで、室井佑月の教養レベルを馬鹿にしていたが、各回の記事タイトルは編集者がつけていたようで、それならブログタイトルも編集者が付けたのかもしれない。ちなみに、「嗚呼」は感嘆詞であり、「ああ」という指示語とはまったく別である。確か「日刊ゲンダイ」のコラムだと思うが、最近の新聞や雑誌の記者や編集者の教養レベルは低い。「日刊ゲンダイ」など、政権批判だけで部数が増えたのだろうが、どの政権になっても、「頭から否定」という姿勢が続いている。まあ、私も岸田の政策のすべては肯定しないが、前の菅やその前の安倍に比べればはるかにマシである。
前置きが長くなったが、政治問題の発言者が元ホステスだとか元AV女優だったとかだけで、その発言は聞くに値しないという馬鹿コメントの話だ。これは、学歴だけで人を判断する連中と同質の傾向で、男女を問わず案外多いのではないか。私自身、ホストや若手イケメンタレントの知能を馬鹿にする傾向があるwww まあ、私は「媚び」というのを武器にする男が昔から大嫌いだ、ということなのだが、イケメンでも媚びを武器にしない俳優などは評価している。男子フィギュアスケートなどは最初から媚びが前提なので、その競技自体が嫌いだ。
おっと、脱線した。自分の好悪の話となると熱くなるようだwww
女性が生活手段としてホステスになったりAV女優になったりするのは、まあその女性の家族としては好ましいとは思わないだろうが、当人がそう決定するのは自由であり、そこで職業差別をするべきではない。そして、そういう職業の女性の知的レベルが低いか教養が低いかはまったく別の問題だ。作家の山田詠美など、SMバーのホステスをしていたのではないか。むしろ、様々な人間に触れ、社会や人間の実相をよく知っているのではないか。学校教師のように、ほとんど一生自分より年下の子供を相手にしてきた人間より「人生教養」ははるかに上だろう。
もっとも、泥の中に入れば汚れるのは当然で、そういう「人生経験」が有意義なものになるか、堕落の元になるかも当人次第だ。まあ、普通は危険なものは避けるのが無難な人生航路だろう。



(以下引用)



21. 2022年2月06日 18:29:25 : Sn698n5Lng eGtUbEpPT3EuZTY=[745]  報告
またさりげなく立憲ディスってるな、この元AV女優。

ホステス、AV女優の政治評論(笑)を真に受ける奴はアホですよ、アホw


自分たちに都合のいいこと書いてるからといって、
こんなの洗脳に決まってんだから、
相手にしたら危険ですよ、こんなビッチ。


22. 2022年2月06日 18:29:44 : Lmgal6ZixU ektMajE3czlTbHc=[2]  報告

 ヨネとSEXしまくってるか、銀座No1ホステス室井イイイイイイ!

23. 曙を待望するもの[319] j4yC8JHSll2Ct4LpguCCzA 2022年2月06日 20:04:22 : FAt0kYWxVo VVlMOUVwaVF1dzY=[878]  報告
いい人と結婚されましたね。米山氏が室井佑月さんに出逢うまでの女性たちがいかに男性を見る目がなかったかの証ですよ。

24. 2022年2月06日 22:06:56 : niyy4hTwUA OHU1UGRCUHhtN0k=[6839]  報告
>>21>>22
彼女の言い分とは全く関係ないところを騒ぐのは、彼女の言ってることが全く理解できないバカだからかな?
女性の方が賢いことを嫌う差別主義者だからかな?
何にせよ、君らのコメントは君ら自身を貶めてる(爆笑)。
(賢い女性の尻に敷かれるのが男性にとって良いことだと思えないのは、男性がバカだからだろうな……)

25. 2022年2月06日 22:41:43 : Sn698n5Lng eGtUbEpPT3EuZTY=[746]  報告
>>24
お前みたいな馬鹿が勝手に理解できてないことにしたいだけだろ

元ホステスを熱烈に擁護
そして元ホステス批判を暴力的に圧殺しようとしてる


ようするに、このビッチには工作員がいるということ、
このビッチも工作員ってことよ


26. 2022年2月06日 22:43:05 : Sn698n5Lng eGtUbEpPT3EuZTY=[747]  報告
いくらなんでも元ホステス、元AV女優の
政治論評(笑)をまともに相手にする奴はアホ。

なんで、そんなビッチが政治評論なんか
やれてるのか、そっちのほうを疑うべき


27. 2022年2月06日 23:19:42 : niyy4hTwUA OHU1UGRCUHhtN0k=[6847]  報告
>>25>>26
内容で判断すれば、君らが間違いだな。
ホステスはバカだと決めつけるのもバカの証拠。
背後に誰がいるかとか、ゴーストライターの存在とかは、とりあえず置いとく。
内容を見ろ。

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音楽の趣味と体系的知識

「togetter」記事のひとつで、まあ、クラシック音楽好きなら好きな曲は膨大にあるだろうが、作曲家の国とか年代などはほとんど知らない人が多いだろう。知る必要があるのか、とも思うが、知っていたら便利なこともあるとは思う。引用末尾に訂正があるが、チャイコフスキーに「1812年」という有名曲があるのを知っていたら、彼の年代を1700年代初頭とする間違いはしない。ついでに言えば、1812年はナポレオンのロシア侵略と敗退の年で、世界史の大きな年号だ。まあ、年代などは適当に書いたのだろう。初心者へのお勧めなら、「ロマンチックでメロディアスな音楽ならショパン」とか「ダイナミックで堂々とした曲が好きならベートーベン」とか「幻想的で朦朧とした曲が好きならドビュッシーなど」とかいった「その作曲者の大まかな傾向」を教えたほうがいいかと思う。あまり一般には名前が知られていないシベリウスの「フィンランディア」など、最初から最後まで完璧な名曲中の名曲であり、聞けば「ああ、あれだ。映画の中で(一部だけ)聞いたことがある」と思うのではないか。

(以下引用)

このこねこ@年間500冊の乱読家 @konekoneko5

「クラシック音楽聴きたいんだけど、何かオススメある?」と父に聞いたら、目の前で資料も何も見ずにこれを書いて渡してきた。 こういう大人に私はなりたいんだよなぁ、とつくづく思う。 pic.twitter.com/tr1zcB9k6t


  2021-02-07 19:04:48
このこねこ@年間500冊の乱読家 @konekoneko5

とりあえずドビュッシーから聴き始めることにしました。


  2021-02-07 22:03:20
このこねこ@年間500冊の乱読家 @konekoneko5

@riki_murakami いや本当、目の前で書かれてビビりましたわ。さすが、数十年ずっと聴き続けているだけのことはある。


  2021-02-07 21:05:11
瀬田かおる@地方在住×アラフィフ×ブックライター @setata03

@konekoneko5 素敵なお父さま❗️ 子供にそう思ってもらえる親って素敵だなぁ✨


  2021-02-07 19:53:12
このこねこ@年間500冊の乱読家 @konekoneko5

@setata03 私の自慢の親父ですよ。久々に実家帰りましたが、二人で歴史トークして盛り上がってました。


  2021-02-07 21:06:38
このこねこ@年間500冊の乱読家 @konekoneko5

バズったので宣伝をば。 普段はYoutubeで1日1冊本紹介動画をあげている年間500冊ほどの読書家です。 今読んでいる本は『ヒルガードの心理学』(1000P超え、2万円超え)。 今年の読書テーマは「美術」と「クラシック音楽」です。 m.youtube.com/channel/UC8XWe… pic.twitter.com/DM2VQgx0WU


  2021-02-08 12:34:38

※注


このこねこ@年間500冊の乱読家 @konekoneko5

年代は割とズレてる、という指摘も多々ありますので、皆様、使用時はご注意ください。


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考えること
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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