忍者ブログ

ここから吉野家倒産も有り得る発言

まあ、エロ中年のエロジョークだが、語彙が「漫画ゴラク」とか「アサヒ芸能」とかの(ラーメン屋の置き雑誌)レベルである。これで外資勤務経験ありらしいから、キャリアと品性は一致しないもののようだ。受講した連中も似たり寄ったりの感性の持ち主が多いのではないか。その中でこれを告発したのはやはり女性で、当然の批判である。勇気が要っただろう。私はポリコレ運動には批判的だが、さすがにこの発言は全体を見るとかなりの顧客蔑視・女性蔑視・田舎蔑視であり、これで常務であるというのだから吉野家という企業の体質も分かる。
なお、私は吉野家には素寒貧の若いころにかなり食事場所(私は大衆食堂を「餌場」と言うような嫌みな言い方も嫌いである。大衆食堂は重要な存在意義がある。)としてお世話になったし、その牛丼自体も好きである。もっとも、何十年も昔のことなので、味が同じかどうかは分からない。
まあ、この問題常務(もともと外食産業と無縁の経歴の人物だ。吉野家自体を軽蔑している人間だと思われる。おそらく縁故採用だろう。)追放と経営陣刷新でやり直すしかないのではないか。


(以下引用)


吉野家「生娘をシャブ漬け戦略」抗議した受講生が詳細語る。「教室で笑い起きた」


吉野家の役員が自社のマーケティングを「生娘をシャブ漬け戦略」などと話したことについて、吉野家及び早稲田大学が謝罪した。


一連の発端になったのは、受講生のSNSの投稿だ。運営に抗議した受講生に話を聞いた。


発言は38万円超の講座初日、グループワークの課題で


吉野家、早稲田大学


吉野家役員の「生娘をシャブ漬け戦略」発言が大きな批判を集めている。抗議した受講生に話を聞いた。


撮影:西山里緒、shutterstock / yu_photo


問題となった発言は早稲田大学の「デジタル時代のマーケティング総合講座」で起きた。当講座は4月から7月に80時間をかけて行われる社会人向けのプログラムで、受講費用は38万5000円。


開講初日の4月16日、対面授業でキャンパスに集った受講生たちに課されたのは、牛丼チェーン吉野家のマーケティング課題の解決策をグループで話し合い、発表するというものだった。


講師は吉野家・常務取締役企画本部長の伊東正明氏。吉野家は18歳から25歳までの若い女性の集客に苦戦しており、こうした女性たちを取り込む施策を考えて欲しいと説明する過程で、伊東氏は「生娘をシャブ漬け戦略」と笑いながら複数回発言。「田舎から出てきた右も左も分からない女の子を無垢・生娘のうちに牛丼中毒にする。男に高い飯を奢ってもらえるようになれば、(牛丼は)絶対食べない」と話していたという。

教室には教授や講師陣も同席していた


早稲田


問題の発言があった早稲田大学のマーケティング講座HP。講師陣のほとんどが男性だ。


出典:WASEDA NEOのホームページ


受講生は授業の様子を振り返る。


「酷い性差別であるのはもちろん、覚醒剤で苦しんでいる人もいるのに、冗談にして笑って話して良いことだとは思えません。男性客に対しても『家に居場所のない人が何度も来店する』という趣旨の発言がありました。
企業の社会的価値が求められる時代に顧客を中傷する発言をすることに強い怒りを覚えましたし、その発言が教育機関でなされたことにも驚きました。
また、本心は分かりませんが教室にいた受講生の中には笑っている人もいて、温度差を感じました」(受講生)


当時、教室には早稲田大学の教授をはじめ「デジタル時代のマーケティング総合講座」の講師陣、運営スタッフが数名同席していたが、その場で注意する人はいなかったという。

マーケティングより人権意識のほうが大切


に上記のような発言があったことを報告して謝罪を求めたところ、講義の最後に早稲田大学教授から謝罪の言葉があったという。


一方で伊東氏本人は既に離席していたためか教室での謝罪はなかったそうだが、同日(16日)に直筆での謝罪が受講生個人宛てに送られてきたそうだ。


その後18日には吉野家、早稲田大学共に公式ホームページで謝罪文を掲載している。

受講生はSNSで今回の件を明らかにしたことについて、

ed by pasture

「社会にも企業にも学校にも、当たり前に年齢も性別もバックグラウンドも多様な人がいます。けれどこうした偏った発言の1つ1つが、日本社会から多様性を排除していると思います。


こんな言葉は下の世代には絶対に聞かせたくない、その思いを誰かに理解して欲しくて抗議しました。高い意欲を持って学びの場を活用されようと考えていた、他の受講生の方には申し訳ない気持ちもあります。
私自身は、講座はスタートしたばかりですが続けることを迷っていますマーケティングや授業よりも、人権意識を持つことの方が大切だと感じるので」


個人の認識か社内の共通認識か、吉野家は調査を


吉野家


吉野家の採用ホームページ。女性客の比率が25%の現状に課題を持ち、女性活躍推進施策で打開する意志が綴られている。


出典:吉野家ホームページ


受講生は「二度と教育の場でこういう発言が起こらないよう再発防止策を徹底し、すべての人が平等に安心して教育を受けられる場所を提供して欲しいです。また、企業側、特に影響力のある立場にある方は人権意識を持って顧客を大切にして欲しいと思います」と語る。


吉野家及び早稲田大学の担当者と受講生は後日、話し合いの場を設ける予定だ。


弁護士の伊藤和子さんは、


「女性蔑視で消費者を馬鹿にした発言。伊東氏個人の認識なのか、本当に『シャブ漬け戦略』というマーケティング施策があったのか、役員やマーケティング部門でこうした用語が日常的に使用されていたのかなど、徹底した調査をして欲しい。そうでなければ信頼を回復できない。
早稲田大学も外部講師に対するコンプライアンスのポリシーや、問題が起きた場合にどう対処するのか詳細を明らかにして欲しい」


と指摘する。

nsored by PERSOL TEMPSTAFF

吉野家は女性活躍推進に関するホームページを設けており、伊東氏は同社のマーケティング担当者として数々のメディアに登場している。今後、それぞれの組織がどのような対応を取るのか、消費者として注視したい。

(文・竹下郁子







拍手

PR

哲学の「普遍的思考」と思想の「普遍主義」

世界が唯一絶対の秩序をもち、したがってこれを正しく捉える唯一絶対の観点が存在するはずだ、と考えること、これをあえて思考の「普遍主義」と呼ぶことはできる。(中略)哲学の普遍的思考とは、さまざまな共同体を越えて共通了解を作り出そうとする思考の不断の努力だが、思想の「普遍主義」とは、唯一絶対の観点が存在するという一つの独断的信念にすぎない。(竹田青嗣「プラトン入門」より)

まあ、これ(上記の引用された言説全体)も竹田青嗣の独断的信念かもしれないが、確かに、「主義」化した思考はすべてドグマ(狂信)になる、あるいはドグマに近いものになる、という用心は世界を認識しようとする者(哲学者)には必要だろう。そして、そのドグマの中でも上に書かれた「普遍主義」は、あらゆる宗教の土台であり、狂信の土台であるわけだ。しかも、それは哲学でもあまりにしばしば生じるのである。その信仰や信念に自らを投企する勇気こそが偉人と凡人を分けることもあるだろう。ただ、竹田の定義による「普遍的思考」は常に自分の思考を疑い確認する作業が絶対的に必要であるのに対し、「普遍主義」は最終的にはその懐疑と確認を打ち切ることで成立することから、前者は哲学の支柱となり、後者は主に宗教となるのだろう。

拍手

「唯物論」とは何か

前に載せた「ふたつの唯物論」の中の紙谷氏の文章である。

(以下引用)


左翼や共産主義者というのはいつもこの世に不平を鳴らしているのだからさぞ世界は灰色にしか見えないだろうと多くの人はおもうだろう。
 さにあらず。
 世界が美しいと底なしに確信しているからこそ、それを抑圧するものへの厳しさは人一倍だといえる。 ピカソネルーダが共産主義者だったことには、それなりにワケがある。




 意識とは独立した客観世界は、まこと底なしで、深く、豊かで、それゆえに美しい。
 そのことを感じる力が唯物論である。




「こんなに世界は美しいのに
 こんなに世界は輝いているのに……」




 荒れ狂う王蟲の群れをぼんやりと見ながら、ナウシカは疲れたようにつぶやく。




(引用終わり)

最初に読んだ時から私が違和感を感じたのが

 「意識とは独立した客観世界は、まこと底なしで、深く、豊かで、それゆえに美しい。
 そのことを感じる力が唯物論である。」

という紙谷氏のこの「唯物論の定義」である。
まあ、昔の書き飛ばした(失礼)文章の重箱の隅をつつかれても迷惑だろうが、これは哲学的に大きな問題というか、問題のある発言だと思うからここで問題にするわけだ。
一応、手近な辞書で「唯物論」の解説を探してみると、

物質を根本的実在とし、精神や意識をも物質に還元してとらえる考え。(「新明解百科語」三省堂)

とある。まあ、これが常識的な唯物論の定義だろう。
では「愛」はどのように物質に還元されてとらえられるのだろうか。世界を美しいと感じるその感情はどのように物質に還元されるのだろうか。つまり「美しい物質」と「美しくない物質」があるのか、それともそれは見る人の心という「物質」のメカニズムで作られる現象なのだろうか。そもそも、心とは存在するのか。精神はいずれすべて物質に還元されるのか。
他者への畏敬や可愛く思う気持ちもすべて物質的現象なのか。
私には、紙谷氏とはまったく異なり、唯物論とは「すべてただの物質だ」という「世界の軽視」「人間の軽視」「精神の軽視」にしかつながらないように思える。

ナウシカははたして「唯物論者」なのだろうか。


















拍手

巨乳対貧乳という平和な戦争

これは視点が面白いので載せておく。
つまり、園子音問題は一部の特殊な場での話であるが、「たわわ」広告はすべての貧乳女性が被害者になる(巨乳でない女は価値が低いとされる)わけだ。まさに「自分の問題」だが、では巨乳女性が「たわわ」広告を擁護したらどうなるか。女性の4分の3くらいから総攻撃を受けるだろうと推測できる。
ちなみに、私は度を越した巨乳は奇形にしか見えない。たわわもその部類である。(広告の絵しか見たことはないし、原作漫画などまったく読む気はしない。)整形手術でシリコンか何かを入れた女性が老婆になった姿は想像しても恐怖である。まあ、その時はまた手術をしてもとに戻すのだろう。
例の宇崎ちゃん献血広告の絵もやはり巨乳を強調していた構図だったと思う。あの媚びと男挑発の表情も気持ち悪かった。男の描く巨乳女性はだいたい気持ち悪いようだ。やはりエロのための巨乳という精神があるからだろう。
昔の西洋絵画や彫刻には実は巨乳はほとんど無い。それを美と思う視点が無かったわけだ。日本画に至っては、巨乳はゼロである。オッパイなど、授乳期だけしか存在価値は認められていなかったのではないかwww 乳問題は、漫画による誇張表現と共に社会に浮上したと思う。

(以下引用)

2022-04-18

園子温より「たわわ」が盛り上がるのは「自分被害者から」でしょ

園子温セクハラ加害者被害者も知り合いでもなんでもない。だから他人ごと。


たわわの広告→見た人全員が被害者になれる。だから盛り上がる。


拍手

言葉の意味と音感

言葉の音感と意味が良く合った言葉というのがあって、それには心理的なメカニズムがあるのかもしれない。たとえばA音やO音は広がった感じがあるし、I音やU音は屈折した感じがある。これはA音やO音は口を開けるだけだがI音やU音は口をある形にして発音する必要から来た心理ではないか。
まあ、音韻の話は別として、言葉の意味と音感が良く合っている言葉の例を幾つか挙げてみる。
たとえば「ノンシャラン」という言葉である。フランス語で、私は辞書で意味を調べたことは無いし、その意味を説明した文章も読んだ記憶は無いが、聞かなくても何となく意味が分かる気がする。たぶん「お気楽」という意味に近いのではないか。で、そういう印象がこの言葉にあるのは、おそらく日本人には「暢気(呑気)」という言葉と「洒脱、洒落」という言葉に音の響きからの連想が働くからだろう。
多分第二次大戦に中国戦線に出兵した日本兵があちらで覚えてきた言葉らしい「脳天壊了」(ノーテンファイラー)という言葉も意味と音が良く合っている。特に後半の「ファイラー」は本当に頭が馬鹿になった感じの音の響きだ。
沖縄の方言で食いしん坊のことを「ガチマヤー」と言うが、これは本土の人にはどういう印象の音の響きだろうか。何か、妖怪的な印象を受けたとしたら、その人は勘が鋭い。「マヤー」は沖縄方言で「猫」のことで、「ガチ」はおそらく「餓鬼」のことだと思う。「餓鬼」だけでも妖怪的だが、「餓鬼猫」と書くといっそう妖怪的ではないか。なぜ、食いしん坊を猫にたとえたのか知らないが、沖縄ではなぜか犬より猫のほうが生活に馴染んでいるようなのである。その証拠に、私は未だに犬のことを方言で何と言うのか知らない。そのまま「犬(発音はinuではなく inのような気がする)」なのではないか。ちなみにうちの近所には野良猫が10匹くらいいるが、野良犬はいない。

拍手

「なろう系小説」とそのアニメ化

「はてな匿名ダイアリー」記事だが、高齢者が余生をどう過ごすか、という面でなかなか示唆的なものがありそうだ。
私自身田中芳樹の小説は大好きで、それと現在の「なろう小説」には共通点もありそうである。もちろん、作品の質という点ではおそらく「なろう小説」のほとんどはダメダメな物が多いのではないかと思うが、文章の下手さなどの欠点は、アニメ化されると目立たないだろう。ただしまた、アニメ化された中にも超愚作は毎度お目にかかる。
言えることは、見ていて不快感を感じるなら見る価値は無いということだ。たとえば、松本清張の小説は素晴らしい完成度と文学性と社会性を持っていると思うが、それをアニメ化して見る気になるかと言えば、おそらくならないだろう。当たり前である。それは「重い」からだ。「なろう小説」の軽さのほうがアニメ向きなのである。重さと「暗さ」は類縁のものだが同じではない。ホラーアニメなどというものもある。これは恐怖自体を楽しむという、不真面目な快楽なのである。他人の死など、ホラーアニメでは「軽い」のである。ホラーアニメではないが、「名探偵コナン」など、毎回のように小学生が殺人現場にいるしwww
私の意見だが、アニメの場合、基本的に、主人公の性格が善良だと視聴感が非常にいい。性格が悪いと視聴感が非常に悪いようだ。「無職転生」など、話作りは上手いと思うのだが、途中で主人公に飽きて、視聴を辞めた作品である。性格が悪いというよりあまり共感できない性格だったわけだ。そりゃあそうだ。引きこもりが異世界に転生しても性格は同じなのだから。


(以下引用)

高齢者父親がなろう系にハマった

うそろそろ古希になろうとする父親だが、ここ数年でなろう系にすっかりハマってしまった


元々、昔から銀英伝とかグイン・サーガアルスラーン戦記とかみたいなファンタジー小説スペースオペラが好きで読んでいた


アニメもそこそこ見ていて、探偵物とかSFアニメとかを見ていた


還暦を超えたあたりで、職場が変わり暇な時間も増え家でゴロゴロする事が多くなったので、ボケ防止に何となく適当ななろう系アニメをサブスクから勧めた


そしたらすっかりとハマってしまい、映画化が決まると初日舞台挨拶にまで行く始末


暇な時間が多いからか何周もアニメを視聴し考察をわざわざ話してくる


今ではすっかりなろう系の虜になり、小説家になろうとかのWebサイト毎日のように漁ってる


久しぶりに帰省すれば実家には書籍化したなろう系の本が山積み……


なろう系って高齢オタクにほどウケるんだな……


深く考えなくても読めるし楽でいいと父親は話してたけど

追記

かに水戸黄門暴れん坊将軍も好きだったから元々素質あったのかもな


どんな作品を読んでるかを書く(1部なろう系じゃないラノベあり)


親が読んでるの全部知ってる訳じゃないから本人が面白いと会った時に豪語してたやつね


転生したらスライムだった件


盾の勇者の成り上がり


乙女ゲーム破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…


魔法科高校の劣等生


とある魔術の禁書目録


本好きの下剋上


・月が導く異世界道中


無職転生 ~異世界行ったら本気だす~


他にも色々上げてたけど、アニメ化してない作品ばかりだから自分知らなくて覚えてない


基本、アニメ化してる奴は全部見てると思う


何故なら、なろう系にハマりだした頃からクールアニメは全部面白くなくても最後まで切らずに見てるらしいか


逆に面白くないと言ってた作品を上げる


・ソー〇アートオンライン


あんまりゲームとかしないかネトゲRPG世界観が分からいから没入出来ないらしい


本人がアニメを見た上で映画を見たいと言うので連れていったけど不発だった


何度か本人になろうに投稿したらと言ったけど、自分には文才無いから無理と言ってた











拍手

「レーニンの笑い」の謎

「レーニンの笑い」についての中沢新一の解釈を「行き過ぎた解釈」だと私は書いたが、その確認をしておく。
その前に、私自身の「笑いの機序」についての所説を書いておく。

笑いとは、「驚き」と「安心」(場合により、それに続けて「自己反省」と「自己防御意識」)の連続が身体症状(表情や笑い声)となったものである。ベルグソンが言っているらしい「緊張と緩和」もそれに近いが「驚きと安心」の方が現実に近いと思う。驚きが現実の危機となると、それは「恐怖」になり、驚きが安全な種類のものだと分かると安心して笑いとなるわけだ。たとえば、道で転んだ人間を見ると我々は驚く。だが、その相手が安全だと分かるとその「転んで威厳を無くした相手」への「笑い」が生まれる。ところが、転んだ相手が動かないとなると、笑いどころではなくなるのである。


で、中沢新一の文章(紙谷氏による要約を含む)を再引用してみる。元の文章では二か所になっていたのを連続させて把握を容易にしておく。

(以下引用)

 レーニンは、ゴーリキーの仲介で、政敵と無理矢理ひきあわされ仲直りを強要されるという不本意な旅につきあわされる。
 そのとき、唯一レーニンが「笑い」をみせる瞬間があった。
 海釣りをしていたレーニンが手釣りをすすめられ、魚がかかった瞬間、「ドリン・ドリン」という引きがきたらすぐに引き上げろ、と指示されるのだ。最初のあたりがきて、レーニンは勢いよく釣り糸をひきあげ、熱狂的に叫ぶ。




 「ああ、ドリン・ドリン! これだ、これだ」




 これはトロツキーレーニン伝に出てくる一節である。
 中沢はこう記す。




レーニンという強力な思考機械は、たしかに思考の外にあるもののごく近くで、しばしばそれに直接的に触れながら、作動していたのだ。それは、物質の未知の領域に挿入された、科学的な実験装置のように、人間の言語や思考のなかにまだ組み入れられていない領域に、直接触れている」




 これぞ唯物論である。
 レーニンは物質を存在論的に規定せず「意識から独立した客観的実在」というふうにだけ規定する。中沢はそれを「画期的」と表現する。




 レーニンは、ぼくらの意識の外に、未知の、無限で、底のない、そしてとてつもなく豊かな、きわめつくすことのできぬ「物質」が広がっていたことを知っていた。それがまったく別種のものとしてぼくらの思考に侵入してくる瞬間、「笑い」をひきおこすのだ、と中沢はいう。




 しかし、レーニンはそれをカントのようにたんに「知りえぬもの」とは名付けない。
「それはカントの『物自体』のように、のっぺらぼうの抽象になってしまうからだ。……これにたいして、レーニン唯物論は、その『物自体』、その『知りえぬもの』の内部にわけいって、思考がその外にあるものに接触していく『実践』の運動の重要性を主張したのだ」(中沢)



「実践する人間の意識は、自分の外にむかって踏み出していく。なじみのない不気味な異和の感覚が、意識の尖端に接触し、そこをあらっていく。意識は意識ならざるものに触れながら、自分の形態を、たえず変化させていく。この実践は無限につづく。しかし、実践の波頭では、意識は客観に変容し、客観の中から、新しい意識の形態が、たえまなく発生している。そのとき、レーニンのあの笑いがよみがえってくるのだ。ドリン・ドリン!……だから、レーニン唯物論は、笑いとしての哲学なのだ。彼がマッハ主義を攻撃するのは、それが笑わないからだ。観念論は、子供の頭をなでることができない。それは、犬の腹をなでるとき、意識のなかに、絶対的自然が優しい侵入をはたしていることが、わからない。そのとき、レーニンの手のひらに触れているものを、経験の要素だと言うならば、彼のからだにあの笑いの波は、おこらない。ニーチェの言う『神的な笑い』を知ることができない。意識の外にある客観的実在だけが、人間を心の底から、笑わせることができる」(中沢)



(引用終わり)

最初の部分には(いや、中沢の文章の引用全体に)どこにも「レーニンの笑い」そのものの描写が無いのである。紙谷氏が省略したのか、中沢の本にその記述が無かったのかは不明である。だが、「ああ、ドリン、ドリン! これだ、これだ」がなぜ「レーニンの笑い」となるのかを書かないと、紙谷氏の文章全体が破綻するのではないか。

次の文章が中沢氏による「レーニンによる『笑い』の定義」かと思われるが、それが行き過ぎた解釈であるのは明白だろう。もし彼が言う通りなら、新しい事物に出会った人間は四六時中笑いっぱなしとなるのではないか? そんな人間(もしいたら多幸症というキチガイだろうが)などどこで誰が見たことがあるだろうか。

(以下引用)

 レーニンは、ぼくらの意識の外に、未知の、無限で、底のない、そしてとてつもなく豊かな、きわめつくすことのできぬ「物質」が広がっていたことを知っていた。それがまったく別種のものとしてぼくらの思考に侵入してくる瞬間、「笑い」をひきおこすのだ、と中沢はいう。

拍手

カレンダー

02 2025/03 04
S M T W T F S
11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31

カテゴリー

最新CM

プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

ブログ内検索

アーカイブ

カウンター

アクセス解析