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日本の新しい社会システムへの道(1)

宿題にしていた問題だが、まだまったく展望も構想も無い。
例によって、書かないと頭も働かないのである。
まず、問題を再提出しておく。で、考えやすい問題から考えてみる。これは仕事の基本だ。やりやすい仕事をやっているうちに「やる気スイッチ」が入って頭が働きだすのである。

1:少子化問題の解決法
2:高齢社会の諸問題とその解決法
3:生産年齢人口減少とその解決法
4:日本の貧困化の解決法

この中で一番重要なのは4の「日本の貧困化の解決法」だろう。それも基本は簡単なのであって、「日本人からカネを収奪する存在への『献金』をやめればいい」だけだ。ただ、それだけだと経済自体の活性化や進歩はあまり無いだろうから、そこから考えてみる。
最初に指摘したいのは「IT化は国を豊かにしない」ということだ。IT化によって音響機器などさまざまな旧来製品やその関連産業が潰れていったのはご存じの通りである。IT化で栄えるのは情報産業だけであり、それは娯楽産業に近い。もちろん、情報伝達の簡便さや速度によって多少は経済にも寄与するが、それは一部の話だ。つまり、人間が生きていく上で必須の産業ではないということだ。
あるいは、他の工業や工業製品(たとえば自動車や電車、あるいは家電)のように生活を本質的に便利にし、行動可能性を高め拡大するものでもない。逆に、新コロ騒ぎで分かったように、「リモートワーク」が拡大することで、人間の「独居性」を昂進するものであるわけだ。スマホで連絡していれば実際に会う必要もないし、暇な時間はスマホひとつで暇つぶしする。そんな社会がスマホとコンビニ弁当以外に何が必要だろうか。それで少子化が進まないほうがおかしい。
つまり、我々の世界はすでにヴァーチャルリアリティ化が進行しているわけである。
ただ、ゲームの世界に閉じ込められた人間と違って、我々は飯も食えばウンコもする。病気になれば薬を飲み手術をする。つまり、「生物である」という事実からは逃れられないわけで、そこに今の社会の閉塞状況や「非人間化」「非現実化」から逃れる道があるだろう。

人間の生活の基本とは何かと言えば、「自己の生命の維持」と「他者との関係」だろう。「食」と「住」は前者であり、「衣」は後者に関わる。もちろん、衣は体の保護や体温の維持の意味もあるが、南国では基本的に裸でも生きていける。そして「ファッション性」は完全に「他者との関係」で必要なものだ。バルザックが言うように、「身なりに構わないのは社会的自殺である」わけだ。葬儀や婚礼にポロシャツや半ズボンで行くわけにはいかない。
さらに、住には「利便性」の要素が出て来る。屋根と壁があるだけでは駄目で、電気や水道やガス設備が必要になる。これらは大きく言えば「自己の生命の維持」だが、生活を「快適にする」という面も出て来るわけだ。風呂に入らなくても生きていけるが、入るほうが快適な生活が送れる。その方が異性にも好まれるだろう。つまり、住の中にも「他者との関係」の要素はあるわけだ。豪邸のほうが掘っ立て小屋よりは住むのも気持ちがいいだろうし他者の評価も高くなるだろう。
まあ、要するに「衣食住」に関連する産業は今後も衰退することは無い。建築物などは、新しく作る仕事が衰退しても既にあるものを維持保全する仕事がでてくる。つまり、毎日消費するものもあれば、長期的に価値が減衰して修理するべきものもある。
で、「衣食住」に関する産業の衰退は、作る側の問題よりも「売り方」の問題が大きいのではないか。簡単な例で言えば、昔は「魚屋」「肉屋」「八百屋」「衣料品店」「靴屋」は別々だったが、デパートが現れてそれらの店は潰れていった。ところがそのデパートもスーパーマーケットやコンビニの登場で衰退したわけだ。そのスーパーやコンビニもそのうちアマゾンやウーバーイーツのような「宅配業」に駆逐されるかもしれない。
これらの変化は消費者がより簡便に利用できる方向へと進化して生じたもので、好ましい変化であることも多いが、人間をどんどん怠け者にし、独居性を高めるもののようだ。
まあ、便利さの進歩は人類を「その場から動かない」「脳だけの存在」に近づけると言っても良さそうだ。便利さとは「動き(行動や過程)を省く」ことが基本だからだ。

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量子コンピューターは本当に実現可能か

日立のホームページ記事だが、これを読んでも「量子コンピューター」の概念がさっぱり分からない。「1でもあり0でもある」という概念が分からないし、その概念を使ったコンピューターがなぜ高速性や大量処理機能を持つのかも分からない。
まあ、例によって仏教を持ち出せば、「色即是空」と「空即是色」は重なっている、という感じかwww
あるいは「マクベス」の魔女のように「きれいは汚い、汚いはきれい」ということか。それとも絶対矛盾の自己同一か。
で、問題は、このコンピューターが本当に実用化された場合、従来のコンピューターの情報を保護していた暗号が容易に解かれる、つまりIT社会の安全性がゼロになる、ということだろう。ITの発展がIT社会を崩壊させるという、ここにも「きれいは汚い」という暗黒面がある。

(以下引用)

量子コンピューターとは? メリット・デメリットを解説







量子コンピューターとは? メリット・デメリットを解説

量子コンピューターの開発が加速しています。実用化されれば、交通渋滞の解消、医薬品の開発、ビッグデータの解析、AIの開発などに大きな進展をもたらすと言われています。量子コンピューターとはどのようなコンピューターなのか、その登場が与える社会へのインパクトや実用化により生まれるメリット・デメリットについて解説します。

量子コンピューターのメリットとは

量子コンピューターは量子ビットを使って計算することで桁違いの処理能力を発揮します。その速度は従来のコンピューターの実に約1億倍と言われています。


従来のコンピューターにおいて、処理速度の高速化はやがて限界がくると言われていました。その限界を超え、従来のコンピューターでは成し得ないレベルの計算、例えば数えきれないほどのパターン(新薬開発のために行われる膨大な数の素材の組み合わせ、複数のチェックポイントを経由する交通ルートなど)から、最適なパターンを一つ見つけ出すといった計算を瞬時に行えるようにするのが量子コンピューターです。


これによりビッグデータの解析技術やAIの能力向上が見込め、新薬の開発スピードを飛躍的に上げたり、交通システムを改善したりといった活用へとつなげられると考えられます。


また量子コンピューターは電力消費が極めて小さいというメリットがあります。量子コンピューターの「D-Wave」は、冷却装置によりごく低温で動作し、消費電力は冷却装置も含めて25kW 以下だとされています。

従来のコンピューターと量子コンピューターの違い

従来のコンピューター(古典コンピューター)は情報を「0か1」という2通りの状態で表す「ビット」を最小単位として扱っています。これに対し、量子コンピューターは、量子力学の基本性質である「0と1の両方を重ね合わせた状態」をとる「量子ビット」を使って計算します。「0と1の両方を重ね合わせた状態」とは、「0であり、かつ1である」という状態のことを言います。この2つまたはそれ以上の状態を同時に表すことができる性質を、「重ね合わせ」と呼びます。


現在、量子コンピューターには「量子ゲート方式」と呼ばれるタイプと、「量子アニーリング方式」と呼ばれるタイプの2種類が存在します。


量子ゲート方式は1990年代頃から研究開発が進み、最近ではIBMやGoogleも実用化に向けた研究を行っています。量子ビットや重ね合わせを利用するのはこの方式の量子コンピューターです。


1994年にアメリカの論理計算科学者ピーター・ショアは、因数分解用のアルゴリズム「ショアのアルゴリズム」を発表しました。このことが大きな反響を呼んだのは、従来のコンピューターにとって因数分解のような計算は、計算可能ではあるけれどとてつもなく時間がかかるものだったためです。量子ゲート方式の量子コンピューターは「0と1」だけではない理論と方法を用いることで、因数分解を実用的な速さで行う新しいコンピューターとしての可能性を示しました。


一方の量子アニーリング方式は、2011年にカナダのベンチャー企業、D-Waveシステムズが量子コンピューター「D-Wave」の開発に成功したと発表して有名になりました。その原理は、1998年に東京工業大学の西森秀稔教授と門脇正史氏が提唱した理論が基になっています。量子アニーリング方式は量子ゲート方式よりもさらに用途が限られ、複数の選択肢から組み合わせた結果を評価し、その中から最適な組み合わせを決める「組み合わせ最適化問題」を解くことに特化した量子コンピューターだとも言われています。


2015年、NASA(航空宇宙局)のエイムズ研究センターで行われたNASA、USRA(大学宇宙研究連合)、Googleによる記者会見で、性能テストを行った結果、D-Waveの量子コンピューターは従来のコンピューターに比べて1億倍高速であると発表されました。

量子コンピューターの実用化がもたらす変化とは

量子ゲート方式によって因数分解が現実的な処理速度で行えるようになると、現在、金融分野を中心に広く採用されている暗号が容易に解読可能になると言われています。一部の専門家は、10年以内に量子コンピューターがそれらの暗号を破るのではないかと予測しています。具体的には「RSA」や「楕円曲線暗号」のような公開鍵暗号、「ディフィー・ヘルマン」などの鍵共有による方式が役に立たなくなるとされています。


そのため、量子コンピューターの実用化に対抗して、これまでの暗号やセキュリティ対策に代わる新暗号方式や新セキュリティ対策の開発が急がれています。このことは量子コンピューターがもたらすデメリットの一つとも言えるでしょう。

量子コンピューターの可能性

しかし一方で、社会に新しい希望をもたらすような可能性も開けています。


量子アニーリング方式が解く組み合わせ最適化問題は、例えばセールスマンの訪問先が複数あるとき、最も短い時間ですべてを巡回するルートを見つけるために役立つとされています。この巡回セールスマン問題が簡単に解けるようになれば、次は自動運転における交通渋滞緩和や、分子の構造分析を通じて進められる新薬の開発にも応用できると期待されています。


また量子コンピューターによって、ビッグデータの解析が今よりもずっと容易になるという観測もあります。ビッグデータ以外にも膨大なデータを掛け合わせたシミュレーションが可能になることから、まったく新しい製品の研究開発が進んで技術革新が起こったり、正確な未来予測ができるようになったりといったことも実現するかもしれません。


そしてもう一つ、大きな期待をされているのが、AIと量子コンピューターの組み合わせによる技術革新です。とくに機械学習の分野には組み合わせ最適化問題を含む要素が多くあり、量子コンピューターによってAIの開発が飛躍的な発展を遂げる可能性が指摘されています。


量子コンピューターの実用化にはまだまだ多くの課題も残されています。しかし、量子コンピューターが切り拓こうとしている未来への道筋はおぼろげながら見えており、その開発は急ピッチで進んでいくと考えられます。量子コンピューターが身近なものになれば産業と社会に変革が起きるでしょう。それによって私たちの生活もまた大きく変化するに違いありません。



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第二東西冷戦を予告したアニメか

まあ、不穏な例だが、「まどマギ」(の首チョンパ)と311の重なりとか。
コメントの下の数字はそのコメントへの評価のようだ。

(以下引用)

コメント


  1. 新たな東西冷戦体制がはじまるという、アニメ企画時には予想もしない時代になってきたからな。
    真の傑作には、神がかったようなタイミングの奇跡が起きるというけど本当かも知れん。

     38

    • >新たな東西冷戦体制がはじまるという、アニメ企画時には予想もしない時代になってきた


      同感
      西国(ウェスタリス)=米英仏独伊日豪加韓+台湾・ウクライナなど
      東国(オスタニア)=露中北+ベラルーシ・シリアなど


      西国(ウェスタリス)と東国(オスタニア)の冷戦って、米ソ冷戦時代(1945~1991)がモチーフなんだろうけど、
      第二次冷戦開戦で再び水面下で熾烈な情報戦が繰り広げられている時代になってしまった
      第一次冷戦時代との違いは、ネット上でも熾烈な情報戦が展開されている点か


      • 原作者も驚いていると思う


  2. アーニャしか勝たん

     20

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EU加盟国と「欧州委員会」

駐スロバキア大使新見潤氏の書いた記事の一部である。
EUの内蔵する問題への大事な視点だと思う。「欧州委員会」という存在ほど「民主主義」と乖離したものはないと私は思っている。つまり、今のEUでは民主主義は存在していない。

(以下引用)


【EU内における「三つの軸」】


 スロバキアをはじめとする中東欧の多くの国々は民主化後一定の時期を経てEUやNATOに加盟した。政治を民主化し市場経済を導入して、西欧諸国に追いつけ追い越せと急速な経済発展を続けている。欧州委員会から受け取る種々の補助金、そしてEUメンバーとしてEU内の四つの自由(人の移動の自由、モノの移動の自由、サービスの移動の自由、資本の移動の自由)を享受していることも、経済の高い成長率に貢献している。


 しかし、「EUに加盟して順調に経済が発展している」といった単眼だけで中東欧諸国を捉えることは若干危険である。


 私はEU諸国内には「3つの軸」があるのではないかと考えている。第1は「豊かな西側の諸国 対 発展途上の中東欧諸国」という東西の軸、第2は「独仏英などの大国 対 多くの中小国」という軸、第3は「ブラッセル(欧州委員会) 対 加盟各国」、という軸である。スロバキアを始めEU加盟中東欧諸国の多くは、この三つの軸のいずれにおいても後者に属する。


 多くの中東欧諸国において、EUに加盟したことは国全体の発展や安定、国民の福利厚生増加には資しているという大まかなコンセンサスがあると思う。同時に、


(イ)西側の相対的に豊かな国からEU補助金という形で種々の金銭的支援は受けているが、西欧諸国に経済的にキャッチアップしていくとともにこれら支援は今後目減りしていくことが確実視されていること。


(ロ)加盟28ヵ国とEUが巨大化していく中でEU外交内政に関わる重要政策の多くが独、仏等の主要な大国の先導によって決められてしまう傾向が益々強まっていること。


(ハ)市場統合はじめEU統合が深化していくほど、加盟各国の国内経済や社会、国民の生活に直接影響のある法律や規則がブラッセルの欧州委員会によって決められてしまう傾向が強まっていること。


といった点についてのフラストレーションも増大しつつあるように思われる。


 政治の右傾化とポピュリズム化は先進民主主義国の多くに共通する世界的傾向であるが、特にEU、就中中東欧諸国では、このような要因も、EU懐疑派、あるいは反EUといった右よりの世論を高め、ポピュリスト政治家や政党が各国内で影響力を強める背景になっていると考える。

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「阿修羅」の読み方

「阿修羅」管理人というか「サイト所有者」はかなり前に変わったはずで、それ以来、傾向が変わっているというのは古いファンから見れば明白だろう。昔は政治問題や社会問題について陰謀論視点も含めて馴染みのコメンターが議論を交わすサイトだったが、今ではどこの誰とも知れない一部の人間が掲載するスレッドに大半はくだらないコメントが付くだけである。しかし、そのコメントの最初は「赤かぶ」という阿修羅専属工作員が選んだ愚劣なコメントが並び、10番目くらいからまともなコメントが現れ始めるという「傾向」が分かれば、読みやすいものになる。
下はその事例で、「日刊ゲンダイ」の愚劣な記事への的確なコメントが連続しているものだ。
なお、岸田の改憲運動は最悪の行為だと思うが、対ロシア経済制裁についての「やっているふり」だけというのは属国の総理としては最善の策だと思う。

(以下引用)「赤かぶ」選のコメントはもちろんカットした。


※文字起こし

 9日に実施されたフィリピン大統領選で、フェルディナンド・マルコス元上院議員が圧勝した。


 父親は1965~86年の約20年間、住民を弾圧し、独裁政治を行った故マルコス元大統領。国際人権団体のアムネスティ・インターナショナルによると、当時のマルコス政権下では、政権の意向に従わない住民ら約3200人が殺害されたほか、約3万4000人が拷問を受け、約7万人が投獄されたという。


 そんな近代社会では類を見ないような恐怖政治を行った人物の息子が、父親とは別人格とはいえ、新しい大統領に選ばれたのだから驚いた人も少なくなかっただろう。マルコス新大統領は選挙期間中、SNSを積極的に活用。父親の「暗黒時代」を「黄金時代」などと“真逆”のイメージを浸透させ、若い世代らの支持を集めたという。


 選挙結果が報じられると、日本国内のネットには、フィリピンの有権者に対して、<言葉だけの美辞麗句を信用とは…><独裁時代に逆戻りしてもいいのか>などと批判の声が並んでいたが、口先ばかりの政治家にコロッとダマされる有権者のオメデタさは、日本もフィリピンと大して変わらない。今だって、岸田政権の「やっているふり」にまんまと乗せられているからだ。


包む中身もないのに風呂敷を広げたペテン師


 11日の参院本会議で可決、成立した「経済安全保障推進法」。ロシアのウクライナ侵攻で安全保障環境が一段と緊迫化する中、戦略的に重要な物資や技術の確保を支え、基幹インフラを維持する体制を整備する──とし、岸田政権は同法について「看板政策」などと位置付けているのだが、ちょっと待て。


 つい8カ月余り前に行われた自民党総裁選で、岸田が「公約」として「看板政策」に掲げていたのは「令和版所得倍増」や「金融所得課税の強化」「分厚い中間層の復活」だったはずだ。


 岸田は昨年12月の臨時国会の所信表明演説でも、現在の経済環境を「(過度な市場依存によって)格差や貧困が拡大し、気候変動問題が深刻化した」と振り返った上で、「新しい資本主義」なるスローガンを打ち出し、「数世代に一度の歴史的挑戦」などと声を張り上げていたではないか。


 国権の最高機関である国会で、あれだけの大風呂敷を広げていたのだから、本来であればとっくに国民に具体策が示されているだろう。ところが、その中身はいまだに全く分からないどころか、格差貧困を助長する新自由主義の安倍路線にちゃっかり軌道修正。さらに、今に至っても、岸田は「6月までに新しい資本主義のビジョンと実行計画、骨太方針を取りまとめ、参院選後に総合的な方策を具体化する」なんて言っているから呆れる。


 ふつうの庶民の感覚であれば、誰が考えても、岸田が言う「新しい資本主義」は口先だけの思い付き。ロクに包む中身もないクセに大風呂敷を広げたペテン師と思うだろう。それなのに、NHKなどの報道では、岸田政権の支持率は政権発足以来、最高レベルの55%に上昇しているからワケが分からない。


 政治評論家の本澤二郎氏がこう言う。


「フィリピン大統領選で故・マルコス元大統領の息子が勝利した背景には、若者らが過去の歴史をよく知らなかったことがあります。今の日本も同じで、歴史や憲法をきちんと学んでこなかった有権者が多くなったことが岸田政権の高支持率の一因でしょう。とりわけ、第2次安倍政権以降は新聞、テレビなどの言論界が権力の広報マンとなり、岸田政権の実相をきちんと報じていないため、『やっているふり』にごまかされてしまうのでしょう」


独自戦略が何もない「付和雷同」政権


 口先政治家のゴマカシにだまされている有権者には分からないだろうが、これまでの岸田政権の姿勢を見て言えることは、一事が万事、その場しのぎの対応だということだ。


 4月下旬に政府が決定した総合緊急対策もそうだ。昨年来から断続的に続く日本経済のインフレ傾向は、ウクライナ戦争も重なって長期化が避けられなくなった。今後は原油などの資源に加え、生活必需品などの価格もますます上昇するとみられている。拡大する一方の日米の金利差で円安はどんどん進行。ほとんど賃金も上げられない中での「狂乱物価高」が現実味を帯びてきたワケだ。


 日本経済が「物価高」と「景気悪化」が重なる「スタグフレーション」という最悪の展開に陥らないためにはどういう政策を打てばいいのか。今こそ政府は長期的な展望に立ち、腰を据えた抜本策を国民に示す時なのは言うまでもない。


 ところが、国費6.2兆円を投じる緊急対策で打ち出された「目玉」といえば「ガソリン代偏重」とも言うべき小手先の対症療法。中小零細企業から悲鳴が上がる「円安」に対する対応策も示されなかった。


「場当たり対応」はロシア制裁でも同じ。岸田は先進7カ国(G7)首脳オンライン会議の合意を受け、ロシア産石油の輸入を段階的に禁止すると表明したが、記者から禁輸の時期を問われると、「時期は実態を踏まえ検討していく。時間をかけ、フェーズアウト(段階的禁輸)のステップを取っていく」などとゴニョゴニョ。仕方なく足並みをそろえました、というポーズがアリアリだった。


投資を呼び掛ける岸田の姿は悪徳証券マン


 岸田は1カ月前にもロシア産の石炭禁輸を明言していたが、フィンランドの研究機関によると、ロシアがウクライナに侵攻した2月24日以降のロシアと諸外国の化石燃料の取引額をみると、輸出先ではドイツが首位で、イタリア、中国と続き、日本は16位。つまり、「禁輸する」と言うばかりで、実際は止めていないのだ。そもそも岸田は「脱炭素の技術革新に大胆投資」「化石燃料の依存を減らす」などと言っていたのだから、これらの政策に本気で取り組む気があるなら、さっさとロシア産石炭の輸入を止めるべき。それこそ官民一体となって脱炭素の技術革新を進めれば、将来の成長産業の創出にもつながるはず。それなのに何もせず、ここでも「やっているふり」。こんな状況で、いつ石油、石炭を止めるというのか。


 見せかけのグダグダな対ロ制裁の姿勢に欧米諸国も唖然呆然だろうが、岸田本人は能天気そのもの。連休中、東南アジア・欧州5カ国を外遊し、ロンドンの金融街シティーで講演した際には「新しい資本主義」の取り組みをアピールしつつ、「インベスト・イン・キシダ(岸田に投資を)」などと呼び掛けていたが、「新しい資本主義」の骨組みすら決まっていない上、急激な円安と物価高に苦しむ今の日本経済に対して、積極的な投資を考えるバカはいないだろう。


 お年寄りの財産を狙う「口八丁手八丁」の悪徳証券マンの手口と同じで、無責任極まりない。それなのに外遊後の岸田は「確かな成果を得た」などと悦に入っていたというから開いた口が塞がらない。


 政治評論家の小林吉弥氏はこう言う。


「岸田政権はウクライナ問題では米国やEUと歩調を合わせているだけ。独自の展望、戦略がないから石油や石炭を禁輸というばかりで何もしないし、できないという状況になるわけです。岸田首相は外遊の成果を誇示したいようだが、諸外国から見れば『日本は独自に何かやったのか』と見ているのではないか」


 支持率が高いとは言っても、しょせんは何も中身がない「付和雷同政権」。国民はその正体にもっと敏感になった方がいい。
 




コメント






7. 2022年5月13日 06:00:18 : rx9vU7s0gU cTZNaC9CN3VzaUE=[116]  報告
岸田は、自分の地元の広島ガスの都市ガスの調達先がロシアだという事も知らないみたいだからなwww
広島ガスは、特にロシアへの依存度が高い事で有名なのに・・・これは、よそ者の俺でも知ってる事だ
下手に経済制裁なんかしたら、地元のガス使用者が風呂に入れなくなるぞwww
広島一区の有権者にとって、ロクに風呂に入れずに臭くて汚いのは岸田に入れた自分らの自業自得だなwww

8. 2022年5月13日 06:06:43 : 8PPRS5EDxk dmdMTHpuN0ZRcWs=[30]  報告
日刊ゲンダイ。

戦争記事ですっかりとち狂ってきた。


先進諸国中、自国エネルギー資源が最も乏しい日本が


なぜ、対露経済制裁で資源調達の手段を放棄しなくてはならないのか?


ロシアでの資源利権を放棄しなくてはならないのか?


ロシアを追い詰めているつもりで、


焦土作戦で日本国民が悲鳴を上げることになるのに、


嬉々としている日刊ゲンダイ。


誰がスポンサーなのかこの頃わかってきた。




9. 2022年5月13日 07:12:52 : 9a4XYJrnDY Q0QweC45UlAzb1E=[753]  報告
EU内の国でもロシアのガス輸入を続ける。
石油や石炭を止めろというのは日本の弱体化を目論む勢力

10. 2022年5月13日 07:22:11 : CjIGowLmSE allqdVJVVmtweUE=[2]  報告
ゲンダイも電通の下請けだからね。

なにせ電通批判記事や、電通の事件を取り上げた事が一度も無いんだし。

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フィクションでの死に涙を流すことの快感

「ティーン向けフィクションではなぜ必ず恋人と(「交尾と」とタイプミスするところが私であるww)死別するのか」という「hatena匿名ダイアリー」スレッド(正確には「なぜ毎度毎度(作者が主人公の)恋人を殺すのか」)コメントの一部だが、まあ、「お涙頂戴」は大衆娯楽の王道だし、悲劇と言えば、愛する人の死ほどの悲劇は人生には滅多に無いのは確かだ。だが、明らかに「狙って作った」それを見て泣くことで快感を得ている連中への嫌悪感は私にもある。私自身その大衆のひとりでもあるから、困ったものだ。
冷酷無比な殺人をする人間というのは、フィクションの中の死にもまったく心が動かないのだろうか。フィクションを読んで作中人物の死に涙を流しながら、現実生活では平気で人を殺す人間のほうが怖いか。
前にも書いたが、「赤毛のアン」の物語創作クラブの話で、ダイアナが登場人物の始末に困ってどんどん殺すという「ダイアナ式創作法」があって笑ったものだが、これはべつにダイアナが冷酷非情な人間であることは意味しない。
まあ、フィクションだから何を描いても許される、という思想にも問題はあり、そこにプラトンの「(理想国家からの)詩人追放論」も出て来るのだろう。感情があまりに昂じると理性は機能しなくなるのは自明のことだ。かと言って理性絶対上位主義にも私は与しない。理性と論理の混同も問題だと思っている。論理はただの道具だ。理性には直感というものもある。
理性と感情について、いずれもう少し考えてみたい。


(以下引用)


  • 青春映画にとって恋人とは主人公にとっての青春のアイコン、つまり青春そのものなので、 モラトリアムや少年時代の終わりの暗示として主人公の恋人は死んだり失踪したりしがちなの...



  • 戦闘モノでボスが強いほうが盛り上がるように、恋愛モノでは恋の障害が大きい方が小説が盛り上がるんだけど、人生経験が貧弱だと「別れ」の具体的なイメージが死別以外にないから...



  • 死にネタは感動してもらえる! っていう安易な厨二病のアレですね。


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詩人はなぜ追放すべきなのか

「せかいしそう」というWEBマガジンの記事だが、思考材料としてメモしておく。ざっと読んでいって同感するところも多かったが、トランプへの評価の部分で、やはり俗物思想家だな、と感じた。つまり、リベラル系マスメディアが伝える情報を無批判に受け入れているわけだ。

(以下引用)

古代の哲学者たちは、どのように書き、伝え、受容されたのか

第4回 プラトンの告発


SNSに動画と、様々な形態のメディアが我々を取り巻く昨今。これまでの連載では、知を取り巻く環境と知の関係について、古代ギリシャを例に取り上げてきましたが、それでは我々自身はどういう状況のなかにいるのでしょうか。最終回となる第4回では、古代ギリシャへの目線を通して、現在の問題が浮かび上がってきます。


第1回はこちら


第2回はこちら


第3回はこちら

現代はどういう文化的状況か?

 さて、今までは古代ギリシャにおける知的状況と環境のつながりを見てきたのですが、それが現代においてどういう意味をもっているのかということをちょっと考えてみましょう。


 現在の「知を巡る文化状況」というものをどう捉えるかは、人によってさまざまでしょう。ただきょうは、oralとliteralの文化、そしてそのなかでの哲学者の思考について話してきたので、それを踏まえて考えてみることもできると思います。


 そういう視点から見たとき、マスメディアなども含めて、書かれた文字よりビジュアルなものが重視され、とくにインターネットにおいては画像や動画などが強い影響力をもっている状況は否定できないと思います。文字情報ももちろん豊富ですが、それもSNSなどでは非常に短い形のものが支配的になっている。


 こうした状況を、これまで触れたoralとliteralというような区別の下で考えてみると、これはoralな文化とデジタルテクノロジーが連携したような形で、大きな影響力を持っているんじゃないか、と思います。


 先ほど話したように、oralな文化のなかでは、情報はただ口伝えだけで伝わるものではありませんでした。ホメロス以前から、詩の朗誦にはキタラの伴奏が伴ったり、劇では俳優の演技に加えてコロスというコーラス団がついて、彼らが歌に加え踊りも添えていました。その意味で視覚にも聴覚にも訴える一種の総合芸術に近い面もあった。そういったパフォーマンスとしてのoralな文化がいまや巨大な力をもっているように見える。そしてよく口にされるように、書物を中心としたliteralな文化は後退しているようにも見えます。


 かりにそうだとして、こうした状況が個人や社会にどのような影響を及ぼしているのかは、今後さまざまに分析されるべきことです。しかし、何かはっきりとしたことを言うには、実際の認知科学や社会学などさまざまな角度からの研究を俟たなければならないでしょう。

oralな文化と「詩人追放論」

 しかしともかく、こうした状況に対して、「古代の哲学者だったらどういう態度を取ったんだろうか?」というようなことを考えてみると、プラトンの詩人追放論というものを思い浮かべます。


 プラトンの詩人追放論というのは、『国家』という作品の最後の巻に出てくるものです。ここでプラトンは、彼が理想国として築き上げる国家から、「詩人というものを追放すべき」と言っています。この詩人というのは、前述したように韻律のある文章を書く全ての人たちです。とりわけプラトンが狙いを定めているのはホメロスや悲劇詩人ですが、広い意味でoralな文化の営みである、叙事詩・抒情詩・悲劇・喜劇というメディアとしての詩全体がターゲットになっています。


 「詩人追放」というのは一種の検閲です。ただし、名古屋のほうの展覧会の問題のようにろくに作品を見ないで非難を浴びせたり中止させようとしたりしているのではありません。むしろプラトンはこの講義の最初のほうで述べてきた、「ホメロスなどの詩がいかに古代ギリシャの文化と教育に深く根づいているのか」ということを強く実感し自覚した上で、こういう主張をしているわけです。もちろんその主張には必ずしも賛成できない部分も多いと思いますが、一応聞いてください。


 プラトンの分析は、これら広い意味の詩に対して、「魂はどういう反応をするのか」という分析から始まります。


 プラトンは、魂には詩に反応する2つの部分があると考えます。この2つは「ロゴスに従う部分」と「非理知的な部分」です。これはよく片方がロゴス(理性)で、片方はパトス(感情)だというふうに考えられるんですが、そういった単純な対立ではありません。


 ロゴスとか理知的部分を持っていたとしても、たとえば大切な人を亡くしたとき、悲しいといった感情をもつことを、プラトンはもちろん否定しません。彼が問題としているのは、そういった感情に対して、どういう態度を取るのかという点です。このような場合の心の動きを、プラトンは、劇を見たり、音楽を聴いたりするときに感じる場合と実生活において感じる場合とを重ねあわせて考えることで解明しようとしました。人生も演じられるドラーマ(ギリシャ語ではおこなうことも演ずることも意味します)なのです。


 彼によれば、われわれの魂あるいは心のある部分というのは、そういった悲しみにも耐えようとしている。あるいはそういった悲しみと戦おうとする。ところが、もう一方の魂の部分は、詩人たちによって満足を与えられてそれを喜ぶ。悲しみを与えられても、それに引きずられて、むしろその悲しみにふけろうとすると。劇を見ているときが典型的ですが、実生活においても、心ゆくまで泣いて満たされることを飢え求めるというふうに、強い感情を欲求するのがこの部分の本性である。──これがプラトンの診断です。

プラトンの告発

 そして劇をはじめとした「詩」としてのメディアは、この感情を欲する部分に訴えてくる。それによって感情というのがある種自己増殖的に、「もっと感情を動かしてほしい」と求め、そしてこのパトス的な部分を増強させる。詩は、パトスを求め、それに溺れようとする部分を、「呼び覚まし、育て、強力にする」。プラトンはこう主張します。


 たしかに、このように劇や朗誦のかたちで「詩」が演じられているとき、その間聴衆の魂は、言わば「我を忘れて」、つまりロゴス的なはたらきは封印され、詩作品の呼び起こす感情や心の動きに支配されます。しかも魂の一方のパトス的部分は、むしろそのことに喜びを見出す。さらに、そうした詩によって幼少から教育されていく人々は、知的な反省を経る以前に、その性格や基本的な態度、いわば人格の形成においてその影響を受けるでしょう。すでにみたように、それが暗誦や朗誦を求めるかたちでおこなわれるなら、とくにその影響は大きいでしょう。じっさいそれが、ホメロスら詩人と呼ばれる人びとが当時の教育や文化環境において果たしていた役割です。そしてその影響力は、それのもつoralな要素に負うところが大きいことは、容易にみてとれるでしょう。


 プラトンが告発し追放すべきだと主張したのは、このような性格をもつ詩であり、それを作る詩人たちでした。


 詩がこのようなかたちで聴衆とかかわるものであるとすれば、それはプラトンが対話篇というかたちでつくろうとした読者との関係と、対照的であると言えるのではないでしょうか。プラトンが読者に求めたのは、それを読む人がそれを読み、自分自身で考えるということだったからです。


 少し具体的に考えてみると、たとえば劇といった詩的パフォーマンスでは、演ずる側に聴衆に対するいわば支配権があります。演じられている間、聴衆の心はそれにわしづかみにされ、揺さぶられ、喚起される。そして、プラトンが言うように、それにふけろうとするのがわれわれの詩に対する態度です。だから、詩的パフォーマンスを途中で止めていったん反省してというようなことはあまりない。さらに詩が考え方に及ぼす影響は、長期にわたる教育によっていわば血肉化して、とくに反省することなく、それにもとづいてわれわれは自然と物事を考えるようになる。


 ひるがえって、そもそも読書というのは、その人の時間に従って、そしてその人の理解に応じて、読みすすめる行為です。もちろん没頭して読むということはありますが、理解と時間の基本的な支配権は読者の側にある。そしてとりわけプラトンは、語られることを読者自身が思考を働かせて読むように工夫しました。その意味で、プラトンが対話篇を通じて人々に伝え、実際に試みようとしたことは、彼が批判した意味での詩的パフォーマンスに対してある意味で対極にあったと言ってもよい。


 そしてこういったプラトン哲学に見られる哲学のあり方は、文化批判、さらに内在的な文化批判として考えることができるでしょう。プラトンは広い意味でのoralな文化の重要性と影響力を認めていましたし、たぶんプラトンほどこれを深く痛感している人はいなかったかもしれません。そして自身の作品も、そのようなoralな文化とかかわり、その要素を生かしてもいた。そのうえでなお、彼はその影響を分析し、批判を試みました。こうしたプラトン哲学は、いま述べている知的な環境においても、われわれを考えさせる視点をもっているのではないか。少なくとも、このような批判をしたプラトンが、より高度になったoralな文化を備えている現代に登場したら、現在の状況をどう診断し批判するのか、考えるに値するのではないでしょうか。


 そして最後に、反省と自戒の念をたっぷりこめてお話しするんですが、プラトンやアリストテレスの哲学のあり方は、いま哲学を学んだり研究したりする者に対して、より知的な環境そして伝える媒体に意識的であることを求めるものだと思います。哲学ないしはそうしたことを含めて考える営みなのだろう、あるいはそうあるべきであろうと。これが、きょうのお話の、とりあえずの自分自身に対する結論です。

付録 ポストトゥルースと「知的な悪徳」

 今日の話とも関連するので、いまの文化状況ないしは情報伝達について、一部の哲学者の間で最近話題になっていることをちょっとだけ紹介しておきます。


 現代は非常に情報が氾濫しています。そのなかでそれがどのように伝達され、受容されるのかがいろいろの角度から問題とされている。たとえば、情報の格差というものがあるということがよく口にされています。一方の人々はたくさん情報を持っていて物事に通じているが、他方の人はちょっとしか持っていない、あるいは渡されていないという状況ですね。


 こうした問題に対して、「人々が情報に対してどういう態度を取るのか」という切り口で考えることができます。政治の場面では、ポストトゥルース・ポリティクスと呼ばれるような状況、トランプみたいな人が出てきて、事実の確認(ファクト・チェック)とは関係ない形でどんどん発言していくというような状況があります。そこでは、一方の人がそうした発言を信じていて、他方の人はそれを信じていない。ワクチンの接種の問題にしても、いろんな情報が出回っていて、一方の人たちは一方の情報だけを信じ、他方の人はそれを信じていない。あるいは陰謀論と呼ばれるような、さまざまな現象の背後には実は密かな陰謀があるというようなことを、少なくない人が信じたりもしている。


 こうした状況に対して、それは知識量とか情報へのアクセスができるかどうかということよりも、むしろ「さまざまな情報がある状況に対して、どういう態度を取るのか」という「その人のあり方の問題」が非常に大きいのではないか、という議論が出てきます。そのなかでepistemic vices(知的な悪徳)という概念が、哲学が扱う認識論のなかで論じられるようになっています。


 知的な悪徳とは、偏見とか、心を開かない閉鎖性、特定のドグマへの固執といったような知に対する態度を言います。ある情報を根拠なく完全に無視するとか、細かな事実に対して注意を払わないという態度も含まれます。


 知というものは、アリストテレスやプラトンの場合は特にそうなんですが、単なる抽象的な命題の体系じゃなくて、その人の一つの徳というようなものとして考えられています。知識は、「その人が自分で理解し説明できる能力」だということですね。今日お話ししたプラトンの対話篇の特質も、そういう知に対する理解と連携しています。逆に言うと、ある情報をえただけでは「知っている」とはならない。こうした見方からすると、先に述べた情報の量や偏りという問題よりも、それを受けとめる人のあり方(それを徳や悪徳と言うわけですが)の問題としてこの知の問題を考えようというアイデアが出てきます。


 たとえば、「『消毒液を注射するとコロナウイルスを退治できる』という、トランプが言った理論をどのぐらい信じますか?」という質問に対する答え方と、各個人のもつさまざまな資質との間はどのような関係があるかを考える。そのときに信じるか信じないかを左右するのは、政治的な信条(右翼か左翼か)の違い、あるいは信仰する宗教の相違などよりも、上記の知的悪徳の有無といったことが大きく左右している、という調査結果もあります。このような議論は、「知的悪徳」を(循環論とならないように)どのように定義し、またどのように調べるのかといった問題も含めてまだまだ議論の余地が大きいと思いますが、提供される情報の量や偏りよりも、受け取る側のいわば知にかかわる人のあり方(「性格」などの比較的恒常的な態度)に目を向けるもので、古代的な視点を含んでもいることもあり、注目してよいのではないかと思っています。

素早く刺激的な情報が飛び交う時代だからこそ、本の持つ役割はより重要になるのではないでしょうか。出版に携わる者としても、大変興味深いお話でした。中畑先生、どうもありがとうございました。

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酔生夢人
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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