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家族愛と隣人愛(承前)


(考察)引用文のフォーマットの中に書き込んでしまったようで、右側が隠れそうだが、直し方が分からないのでそのまま載せる。



(考察)

ここに書かれた「道徳」は、その根底に「天皇主義」とでも言うような要素があることを除外すれば、まさ
に「天皇の子孫も臣民(国民)もともに守り従うべきところであり、これを現在と過去を通して誤謬はなく、これを国の内外に適用しても間違いはない」と私は思うのだが、引用1のコメントの言うような「オレが白と言ったら、黒であっても白とおもえという、人間性と真逆のゴロツキの教条、経典」であるのだろうか。そして教育勅語の「家族主義、家族と伝統を大事にすること」(私は「教育勅語」に書かれた道徳は単に家族だけを大事にしたり伝統だけを強調するものではないと思うが)は「悪」なのだろうか。コメント筆者の言う「人間愛(隣人愛)」から「家族愛」は除外されるのだろうか。
実は、自分と無関係な他人を愛するより家族を愛するほうが難しいのである。その証拠が、あらゆる他者への危害の中で、暴力や暴行、傷害事件はまったくの他人にではなく、家族への危害が圧倒的なのである。それは、家族というのは四六時中顔を合わせていて、その欠点や醜さを熟知しているからである。そして常に自分の行動に制約を加えるウザい存在だ。自分と無関係な他人への愛というのは、それに比べたら、野良猫を見て可愛いと思うようなものだ。つまり、いつでも切って捨てられるものなのだ。家族が、自分の好きなアイドルの悪口を言ったり、自分の収集物を捨てたりしたら、下手をしたら刃傷沙汰である。つまり、家族への愛情や道徳はすべての他者への愛情と道徳の出発点であり、厳しく自戒しないといつでも崩壊しかねないものなのである。




























































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家族愛と隣人愛

西田昌司が改憲論議の場で言った言葉が「阿修羅」で問題視されていて、私は西田昌司も改憲論も大嫌いだが、「阿修羅」での批判は「教育勅語」そのものに対するものが多く、そのほとんどは教育勅語を読んだことも無さそうなので、少し考察してみる。
なお、結論を先に言えば、私は「教育勅語」は時代的制約、つまり明治政府による天皇神格化という基本方針に沿って作られたものだという時代的制約があり、現代の視点では容認しがたい部分もあるとは思うが、それが「国民の道徳性」にひとつの指針を与え、教化したという「時代的長所」をこそ評価すべきだと思っている。下のコメントは、「教育勅語」を読んでおらず、頭から否定する姿勢で書かれたものと私には感じられる。
ふたつの引用の後で考察する。

(引用1「阿修羅」より)


14. 人間になりたい[1672] kGyK1ILJgsiC6IK9gqI 2022年3月30日 00:45:33 : AwxU2zxs6c US8xQlRtRXZ5WjY=[344]  報告

>日本の文化で一番大事なのは教育勅語に書いてある家族主義、家族と伝統を大事にすることだ。

自民党や低脳ネトウヨには、こういうことを言うバカが多く散見される。
だが、なぜ大事なのかを説明する人を見たことも聞いたこともない。
丸川珠代は、夫婦別姓選択制は家族の絆、一体感を強めるので、
地方議会に不当な圧力を加えてまで賛同した。
しかし、家族の絆、一体感が強いこと自体が、人間社会において良いことなのではない。
愛知県の住民投票で不正を働いた、維新の候補者は、家族ぐるみで犯罪に加担した。
これほど家族の絆、一体感の強い家族はいない。
人間社会において、正邪、善悪、公序良俗の基準は人間性である。
「家族主義」「愛国心」「嘘」「命の選別」などは、そのこと自体に良し悪しはない。
その行為が、人間性に裏打ちされていることによって、善きものになるのだ。
人間性とは、隣人愛であり、隣人愛とは、他者をおもいやり、公共に配慮すること。
社会的行動規範として隣人愛を受け入れ、行動する人のことを人間という。


教育勅語は、オレが白と言ったら、黒のものでも白とおもえという、
人間性と真逆のゴロツキの教条、経典である。
「家族主義、家族と伝統を大事にすること」自体に良し悪しはないが、
教育勅語の「家族主義、家族と伝統を大事にすること」は悪なのである。

(引用2)

原文 (漢字は常用漢字にあらため、現代かな遣いによるルビと句読点を付している。)

ちんおもフニうにこう皇宗こうそうくにはじムルコトむること宏遠こうえんとくツルコトつること深厚しんこうナリなり臣民しんみん克クよくちゅうニ克クによくこうおくちょうこころいつニシテにして世世厥ノ美ヲ済セルハよよそのびをなせるは此レ我カこれわが国体こくたいせい華ニシテかにしてきょういく淵源亦実えんげんまたじつここそんなんじ臣民しんみん父母ニふぼにこう兄弟けいていゆう夫婦ふうふあい和シわし朋友ほうゆうあいしんきょう倹己けんおのレヲ持シれをじし博愛はくあいしゅうおよホシぼしがくおさぎょうならもっテ智てちのう啓発けいはつとっ器ヲきをじょうじゅすすん公益こうえきひろせい務ヲむをひらつね国憲こっけんおもん国法こくほうしたが一旦緩いったんかんきゅうアレハ義あればぎ勇公ゆうこうほうもってんじょうきゅう皇運こううんヲ扶をふよくスヘシすべしかくごとキハきはひとちん忠良ちゅうりょう臣民しんみんタルノミナラスたるのみならず又以またもっなんじせんノ遺のいふうけんしょうスルニ足ランするにたらん
斯ノこのみちじつニ我カにわがこう皇宗こうそうノ遺のいくんニシテにして孫臣民そんしんみんともじゅんしゅスヘキすべきところこれヲ古をここんつうシテじてあやまラスらずこれちゅうがいほどこシテしてもとラスらずちんなんじ臣民しんみんとも拳拳服膺けんけんふくようシテして咸其徳みなそのとくいつニセンコトヲにせんことを庶幾こいねが
明治二十三年十月三十日
御名御璽

現代語訳(高橋陽一)
 天皇である私が思うのは、私の祖先である神々や歴代天皇が、この国を始めたのは広く遠いことであり、道徳を樹立したのは深く厚いことである。我が臣民は、よく忠であり、よく孝であり、皆が心を一つにして、代々その美風をつくりあげてきたことは、これは我が国体の華々しいところであり、教育の根源もまた実にここにあるのだ。汝ら臣民は、父母に孝行をつくし、兄弟姉妹は仲良く、夫婦は仲むつまじく、友人は互いに信じあい、恭しく己を保ち、博愛をみんなに施し、学問を修め実業を習い、そうして知能を発達させ道徳性を完成させ、更に進んでは公共の利益を広めて世の中の事業を興し、常に国の憲法を尊重して国の法律に従い、非常事態のときには大義に勇気をふるって国家につくし、そうして天と地とともに無限に続く皇室の運命を翼賛すべきである。こうしたことは、ただ天皇である私の忠実で順良な臣民であるだけではなく、またそうして汝らの祖先の遺した美風を顕彰することにもなるであろう。
 ここに示した道徳は、実に私の祖先である神々や歴代天皇の遺した教訓であり、天皇の子孫も臣民もともに守り従うべきところであり、これを現在と過去を通して誤謬はなく、これを国の内外に適用しても間違いはない。天皇である私は、汝ら臣民とともにしっかりと体得して、みんなでその道徳を一つにすることを期待するものである。



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いつか聴いた歌

私はハリー・ジェームズオーケストラとヘレン・フォレストの歌が至高だと思っているので、他のヴァージョンは聞くこともしていない。この歌の持つノスタルジーは私を自分が経験してすらいない時の彼方に連れていく。

I've Heard That Song Before (Remastered Version)

I've Heard That Song Before

Sung by Frank Sinatra in the movie "Youth on Parade"
Charted at # 1 for 13 weeks in 1943

It seems to me I've heard that song before
It's from an old familiar score
I know it well, that melody
It's funny how a theme recalls a favorite dream
A dream that brought you so close to me

I know each word because I've heard that song before
Forever more's a memory
Please have them play it again
And I'll remember just when
I heard that lovely song before



Credits
Writer(s): Jule Styne, Sammy Cahn

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Deep purple

ロック・グループの話ではなく、古いジャズソングである。
ニノ・テンポとエイプリル・スチーブンス兄妹のデユエットで歌われたヴァージョンが私は好きである。邦題では「夢のディープ・パープル」となっているようだが、これは「紫色の夢」と訳すべきだろう。原題はただ「Deep purple」である。
through the mist of a memory you wander back to me」のフレーズが一番好きだ。「mist of a memory」が特にいい。


When the deep purple falls over sleepy garden walls
And the stars begin to flicker in the sky
Through the mist of a memory you wander back to me
Breathing my name with a sigh
In the still of the night once again I hold you tight
Though you're gone, your love lives on when moonlight beams
And as long as my heart will beat, lover we'll always meet
Here in my deep purple dreams
Here in my deep purple dreams

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藤村操のこと

参考までに、藤村操についてのウィキペディア記事を載せておく。
明治という時代のひとつの時代精神の象徴でもあったと思う。つまり、真剣そのもの、ということだ。今のように物事を斜めに見る時代とは空気が違う。

余の視るところにては、かの青年は美の一字のために、捨つべからざる命を捨てたるものと思う[29]

という漱石の言葉は正解だと思う。ただし、ここで言う「美」は「行動の美」「生き方の美」である。と同時に、漱石の「生は人生の第一義である」という言葉も正しい。我々は生きるために生まれてきたのである。死は生の目的ではなく、単なる終止である。

(以下引用)前半省略

藤村操

華厳滝の自殺[編集]

木に彫られた巌頭之感
最期の地(華厳滝
「藤村操君絶命辞」の碑。青山霊園

1903年(明治36年)5月21日、制服制帽のまま失踪[6]。この日は栃木県上都賀郡日光町(現・日光市)の旅館に宿泊。翌22日華厳滝において、傍らの木に「巌頭之感」(がんとうのかん)を書き残して投身自殺した。同日、旅館で書いた手紙が東京の藤村家に届き、翌日の始発電車で叔父の那珂通世らが日光に向かい、捜索したところ遺書(巌頭之感)や遺品を見つけた。一高生の自殺は遺書の内容とともに5月27日付の各紙で報道され[7]、大きな反響を呼んだ。遺体は約40日後の7月3日に発見された[8]


厭世観によるエリート学生の死は「立身出世」を美徳としてきた当時の社会に大きな影響を与え、後を追う者が続出した。警戒中の警察官に保護され未遂に終わった者が多かったものの、藤村の死後4年間で同所で自殺を図った者は185名に上った(内既遂が40名)。操の死によって華厳滝は自殺の名所として知られるようになった[9]


墓所は東京都港区青山霊園


藤村がミズナラの木に記した遺書は、まもなく警察により削り取られたという(後に木も伐採)。それを撮影した写真があり、現在でも[いつ?]華厳滝でお土産として販売されている。[要出典]

遺書「巌頭之感」[編集]

藤村が遺書として残した「巌頭之感」の全文は以下の通り。

巌頭之感
悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て
此大をはからむとす。ホレーショの哲學竟に何等の
オーソリチィーを價するものぞ。萬有の
眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。
我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。
既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の
不安あるなし。始めて知る、大なる悲觀は
大なる樂觀に一致するを。

ホレーショとはシェイクスピアハムレット』の登場人物を指すとみられる(後述)。


「終に死を決するに至る」の箇所を「終に死を決す」としている資料もみられるが、写真のとおり誤りである。

自殺の原因[編集]

自殺直後から藤村の自殺については様々に論じられ、そのほとんどは、藤村の自殺を国家にとっての損失という視点から扱ったものだった[10]。 自殺の原因としては、遺書「巌頭之感」にあるように哲学的な悩みによるものとする説、自殺前に藤村が失恋していたことによるもの[11]とする説に大別される。 藤村の恋愛の相手として4人の女性の名が挙がった。菊池大麓の娘である松子とその姉の多美(民)、馬島あい子とその姉の千代であるが、死後80年以上経って、藤村が自殺の直前に手紙とともに渡した本という物的証拠が出てきたため、恋の相手は馬島千代ということで落着している[12]朝日新聞(1986年7月1日)[13]によれば、5月22日の自殺直前、藤村は突然、馬島家を訪ね、千代に手紙と高山樗牛の『滝口入道』を手渡した。手紙には「傍線を惹いた箇所をよく読んで下さい」と書いてあり、本には藤村の書き込みがあった。千代に縁談があったので、藤村が千代を訪ねたことは秘密とされた。手紙と本も焼却されたと考えられていたが、千代が1982年に97歳で亡くなった後、子息の崎川範行(東京工業大学名誉教授)が遺品の中から『滝口入道』と手紙を見つけ、日本近代文学館に寄贈することになった[14]。 なお、「失恋説」については、友人の南木性海は藤村の11通の手紙を公表し、否定している。南木に限らず、藤村をよく知る友人らはみな一様にこの「失恋説」を否定している[15]

ホレーショの哲学[編集]

遺書にある「ホレーショの哲学」のホレーショは、シェイクスピアハムレット』の登場人物であろう(藤村は『ハムレット』を原文で読んでいた)。同作中でホレーショが哲学を語るわけではないが、ホレーショにハムレットが次のように語るシーンがある(第1幕、第5場、166-167行):There are more things in heaven and earth, Horatio, Than are dreamt of in your philosophy[16].(坪内逍遙訳:「此天地の間にはな、所謂哲学の思も及ばぬ大事があるわい」[17]。)。遺書5行目の「不可解」に通じる不可知論的内容を含むセリフである。"your philosophy"の"your"を二人称と解釈し、「ホレーショの哲学」という一節になったのであろう。しかし、この"your"は、話し手本人も含まれる「一般人称」(general person)で、「世にいわゆる」の意味である[18](先に引用した逍遙訳もそのように訳している)。遺書のこの箇所を捉えて藤村による「誤訳」をあげつらう向きもある[19]が、これより以前に徳富蘆花[20]黒岩涙香[21]も同様(yourを二人称)に訳しているし、それらの訳を藤村が参照した可能性もある[22]。なお、西洋古典学者の逸身喜一郎は、「ホレーショ」はローマ詩人ホラティウス(英文表記:Horace)ではないかと指摘している[23]。当時のエリート青年たちに流行していた悲観主義的厭世観はショーペンハウアーを受容し、この遺書に漂う人生への懐疑と煩悶は、時代の雰囲気をありありと反映したものであった[24]

自殺の波紋[編集]

彼の死は、一高で彼のクラスの英語を担当していた夏目漱石や学生たちに大きな影響を与えた[25]。在学中の岩波茂雄はこの事件が人生の転機になった。漱石は自殺直前の授業中、藤村に「君の英文学の考え方は間違っている」と叱っていた。この事件は漱石が後年、神経衰弱となった一因ともいわれる[26]


当時のメディアでも、『萬朝報』の主催者であった黒岩涙香が「藤村操の死に就て」と題した講演筆記[27]や叔父那珂道世の痛哭文を載せた後、新聞・雑誌が「煩悶青年」の自殺として多くこの事件を取り挙げた結果、姉崎正治ら当時の知識人の間でも藤村の死に対する評価を巡って議論が交わされるなど、「煩悶青年」とその自殺は社会問題となった[28]

言及の例[編集]

打ちゃって置くと巌頭の吟でも書いて華厳滝から飛び込むかも知れない。
  • 夏目漱石『草枕』より
余の視るところにては、かの青年は美の一字のために、捨つべからざる命を捨てたるものと思う[29]
「趣味の何物たるをも心得ぬ下司下郎の、わが卑しき心根に比較して他を賤しむに至っては許しがたい」「ただその死を促すの動機に至っては解しがたい。去れども死その物の壮烈をだに体し得ざるものが、如何にして藤村子の所業を嗤い得べき。かれらは壮烈の最後を遂ぐるの情趣を味い得ざるが故に、たとい正当の事情のもとにも、到底壮烈の最後を遂げ得べからざる制限ある点において藤村子よりは人格として劣等であるから、嗤う権利がないものと余は主張する。」[30]

漱石はこれ以外にも『文学論』第2編3章や寺田寅彦あて書簡(1904年2月9日)に記した「水底の感」で藤村に言及している。


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存在と非存在

「ハムレット」の中の有名な「to be or not to be, that is the question」という独白のことを考えているのだが、これを「生きるべきか死すべきか、それが問題だ」と訳したのは名訳だとは思うが、案外誤訳なのではないか、という気もする。つまり、この「to」に「~べき」という意味が含まれているのかどうか、ということだ。そして「be」も「生きる」という訳で本当にいいのかどうか。
もしも「生きるべきか死すべきか」とシェークスピアが書きたかったなら、なぜ「to live or to die」としなかったのか、ということである。まあ、それでも「to」に「~べき」の意味が入るかどうかは問題であるわけだが。「shall I live,or shall I die?that is the question」なら問題は無いという気がするが、シェークスピアはそう書かなかった。
とすれば、これは「生きる」とか「死ぬ」と訳すべきセリフではなかった、という判断も可能なのではないだろうか。beは言うまでもなく「存在する」である。ならば、「to be or not to be,that is the question」は直訳的には「存在すること、存在しないこと、それが問題だ」となり、昔の訳にあったという「在るか、在らぬか、それが問題じゃ」が一番正しい訳ではないか、と思われる。
ただ、その場合に問題になるのは「在る」「在らぬ」の主体は何か、ということだ。
私が「ハムレット」を読んだのは中学生くらいのことなので、この有名な独白の前に何の話をしていたのか覚えていない。
仮に、この「在る」「在らぬ」がハムレット自身の存在についての言及ならば、それを「生きる」「死ぬ」と表現しなかったというのは、「自分はこの世に存在すべきか、すべきでないか」という、自分自身を神の視点で眺めた言い方になりそうだ。「悪霊」のキリーロフの思考にも似た、非常に近代的な思考だと思える。「俺という存在は、この人生という芝居の登場人物として必要か、不要か」という感じだ。藤村操の「巌頭の感」にも似ている。その中に出て来る「ホレーショ」は確か「ハムレット」の中の登場人物だったと思う。藤村操は学者たちより「ハムレット」を深く理解していたようだ。

(以下引用)

資料2 藤村操の「巌頭之感」


       明治36年(1903年)5月、一人の18歳(満16歳10か月)の
       旧制一高生の死が、若者たちをはじめ社会の人々に大き
       な衝撃を与えた。彼の名は、藤村操(ふじむらみさお)。
       巌頭の大きなミズナラの樹肌を削って書き残した文言が、
       次の「巌頭之感」である。



             
巌 頭 之 感



 


悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て
此大をはからむとす。ホレーショの哲學竟に何等の
オーソリチィーを價するものぞ。萬有の
眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。
我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。
既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の
不安あるなし。始めて知る、大なる悲觀は
大なる樂觀に一致するを。

               
(明治36年5月22日)    


       

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美が美である時と美でなくなる時

小林秀雄と江藤淳の対談の中で江藤淳が語ったエピソードだが、或る大学教授が美術館の青磁か何かが陳列されている部屋に入ると、かけらばかりがしばらく並んでいて、そのどれも非常に美しく感じた。ところが最後に、完全な形の壺があり、その完璧さを見るといやな感じがあり、かけらを見ている時の自由さがなくなった。そして振り返ってかけらを見ると、かけらは醜かった、という話である。
これは「美」というものについての示唆的なエピソードだと思う。
私がこれを読んで即座に想起したのは、「サモトラケのニケ」と「ミロのヴィーナス」である。ニケは、頭も両腕も無い(と記憶している。)胴体と下肢と背中の翼だけだったはずだ。ミロのヴィーナスはご存じの通り、両腕が無い。では。これらの彫刻に欠けている頭や腕があったら、もっと美しかっただろうか。いや、そうは思わない。特にニケは、あの姿こそが完璧な姿だと思う。頭や両腕が無いからこそ、見る者はそこに何とも言えない「美しいもの」を心の中、頭の中で漠然と補完するのである。ヴィーナスも同じだ。だが、無理に想像で補完しなくても、我々は、目の前のヴィーナスの「両腕の無い姿」をひとつの完璧なフォルムとして嘆賞するのである。その顔や胴体の美しさは、両腕という「余計なもの」が無いために、余計に我々の目に迫ってくるのである。
つまり、美というものは対象物の中にだけあるのではない。それは対象物と見る者との共同作業だ、ということが、最初のエピソードやこのふたつの彫像から分かるのだ。
前に書いたショーペンハウエルの認識論と通底する話である。
冒頭の話に戻る。なぜ、「美しかったかけら」は、完璧な姿の壺を見た後に「醜いもの」となったのか。それは、かけらだけを見ていた時に見る人が自分の心の中で「創造した(想像というほど明白なものではないが、ある種の「後光」を「創造」したのである。)」姿が、「完璧な姿の壺」の案外な醜さの印象によって、その後光が消滅したのである。

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酔生夢人
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男性
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趣味:
考えること
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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