(以下引用)
実際、その直後のプレイヤー同士のレース、「レオ杯」では初めて他のプレイヤーをさんざんに打ち破った。お、おれの育てたウマ娘がAリーグで優勝したぞ! 脳汁が出た。手がぷるぷると震えた。これで勝つると思った。
ところが8月のお盆明けに再び環境が変わり、"人権"カードとしての「玉座」はわずか一か月半の寿命を終えて、「便座」と呼ばれるようになった。インターネットの都大路に流れる、玉座、便座、玉座、便座といった言葉に私の心は千々に乱れた。短い栄光の時間は終わった。今は心を入れ替えて、ウマ娘たちのために、それと重課金プレイヤーや利口なプレイヤーのために再び養分をやるという決意を新たにしている。
「かわいいから、推しだから養分をやる」というマインドと資本主義の摂理
こうして私は、かわいいウマ娘たちのために、それと自分のソーシャルゲーム音痴のために、ウマ娘プリティーダービーでもっぱら養分をやっている。こうした、レースに勝てない状況に自覚的に養分をやるというゲーム体験は初めてで、『FGO』の時も『アズールレーン』の時も意識していなかった。これは、ウマ娘プリティーダービーがレースを中心につくられているからだろう。でもってそれなり悔しい。
じゃあ、いったいなぜ私は、レース場をジュエルで敷き詰める養分の一匹をわざわざ続けているのだろう?
それは単純に、キャラクターの魅力のためだと思う。
ウマ娘のデザイン、特にゲーム版のデザインは私の好みのストライクゾーンを撃ち抜いている。ライブ映像などは、どれだけ眺めていても飽きない。3Dみがちょっと残っているので、苦手な人には苦手なデザインだろうけれども、私の場合、この適度に残った3Dみがかえって良くて、見た目だけでいえば、自分史上、いちばん好みだと思う。
そのウマ娘が走って、笑って、駆け抜けるのが見たくて今もウマ娘プリティーダービーにかじりついている。本来それは、ゲーム愛好家・アニメ愛好家のありかたとして好ましいものだったはずだ。
けれども上掲ツイートで言われているように、「好きなキャラクターを推す」という感情や活動は、とっくの昔に資本主義のロジックに組み込まれている。たとえばウマ娘プリティーダービーも、それを作ったサイゲームズにしてみれば成功した集金スキームってことになるのだろう。そのような集金スキームがなければ、あの綺麗なライブ映像も誕生しなかったのかもしれない。
いやしかし、一歩身を引いて考えると、私はその集金スキームが生んだ集金装置に群がった蛾の一匹でしかなく、正しく資本主義の養分をやっていると考えざるを得ない。
人生は短く、なすべきことは多い。
二十代の頃なら「これも人生の彩り」などと言ってしまえただろうが、中年のみぎり、こうしてディスプレイの向こう側のかしましさに囚われて本当に良かったのか、考え込まずにはいられなくなる。今のところ、このハマったぬかるみから抜け出す目途は立っていない。