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巨乳対貧乳という平和な戦争

これは視点が面白いので載せておく。
つまり、園子音問題は一部の特殊な場での話であるが、「たわわ」広告はすべての貧乳女性が被害者になる(巨乳でない女は価値が低いとされる)わけだ。まさに「自分の問題」だが、では巨乳女性が「たわわ」広告を擁護したらどうなるか。女性の4分の3くらいから総攻撃を受けるだろうと推測できる。
ちなみに、私は度を越した巨乳は奇形にしか見えない。たわわもその部類である。(広告の絵しか見たことはないし、原作漫画などまったく読む気はしない。)整形手術でシリコンか何かを入れた女性が老婆になった姿は想像しても恐怖である。まあ、その時はまた手術をしてもとに戻すのだろう。
例の宇崎ちゃん献血広告の絵もやはり巨乳を強調していた構図だったと思う。あの媚びと男挑発の表情も気持ち悪かった。男の描く巨乳女性はだいたい気持ち悪いようだ。やはりエロのための巨乳という精神があるからだろう。
昔の西洋絵画や彫刻には実は巨乳はほとんど無い。それを美と思う視点が無かったわけだ。日本画に至っては、巨乳はゼロである。オッパイなど、授乳期だけしか存在価値は認められていなかったのではないかwww 乳問題は、漫画による誇張表現と共に社会に浮上したと思う。

(以下引用)

2022-04-18

園子温より「たわわ」が盛り上がるのは「自分被害者から」でしょ

園子温セクハラ加害者被害者も知り合いでもなんでもない。だから他人ごと。


たわわの広告→見た人全員が被害者になれる。だから盛り上がる。


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言葉の意味と音感

言葉の音感と意味が良く合った言葉というのがあって、それには心理的なメカニズムがあるのかもしれない。たとえばA音やO音は広がった感じがあるし、I音やU音は屈折した感じがある。これはA音やO音は口を開けるだけだがI音やU音は口をある形にして発音する必要から来た心理ではないか。
まあ、音韻の話は別として、言葉の意味と音感が良く合っている言葉の例を幾つか挙げてみる。
たとえば「ノンシャラン」という言葉である。フランス語で、私は辞書で意味を調べたことは無いし、その意味を説明した文章も読んだ記憶は無いが、聞かなくても何となく意味が分かる気がする。たぶん「お気楽」という意味に近いのではないか。で、そういう印象がこの言葉にあるのは、おそらく日本人には「暢気(呑気)」という言葉と「洒脱、洒落」という言葉に音の響きからの連想が働くからだろう。
多分第二次大戦に中国戦線に出兵した日本兵があちらで覚えてきた言葉らしい「脳天壊了」(ノーテンファイラー)という言葉も意味と音が良く合っている。特に後半の「ファイラー」は本当に頭が馬鹿になった感じの音の響きだ。
沖縄の方言で食いしん坊のことを「ガチマヤー」と言うが、これは本土の人にはどういう印象の音の響きだろうか。何か、妖怪的な印象を受けたとしたら、その人は勘が鋭い。「マヤー」は沖縄方言で「猫」のことで、「ガチ」はおそらく「餓鬼」のことだと思う。「餓鬼」だけでも妖怪的だが、「餓鬼猫」と書くといっそう妖怪的ではないか。なぜ、食いしん坊を猫にたとえたのか知らないが、沖縄ではなぜか犬より猫のほうが生活に馴染んでいるようなのである。その証拠に、私は未だに犬のことを方言で何と言うのか知らない。そのまま「犬(発音はinuではなく inのような気がする)」なのではないか。ちなみにうちの近所には野良猫が10匹くらいいるが、野良犬はいない。

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「なろう系小説」とそのアニメ化

「はてな匿名ダイアリー」記事だが、高齢者が余生をどう過ごすか、という面でなかなか示唆的なものがありそうだ。
私自身田中芳樹の小説は大好きで、それと現在の「なろう小説」には共通点もありそうである。もちろん、作品の質という点ではおそらく「なろう小説」のほとんどはダメダメな物が多いのではないかと思うが、文章の下手さなどの欠点は、アニメ化されると目立たないだろう。ただしまた、アニメ化された中にも超愚作は毎度お目にかかる。
言えることは、見ていて不快感を感じるなら見る価値は無いということだ。たとえば、松本清張の小説は素晴らしい完成度と文学性と社会性を持っていると思うが、それをアニメ化して見る気になるかと言えば、おそらくならないだろう。当たり前である。それは「重い」からだ。「なろう小説」の軽さのほうがアニメ向きなのである。重さと「暗さ」は類縁のものだが同じではない。ホラーアニメなどというものもある。これは恐怖自体を楽しむという、不真面目な快楽なのである。他人の死など、ホラーアニメでは「軽い」のである。ホラーアニメではないが、「名探偵コナン」など、毎回のように小学生が殺人現場にいるしwww
私の意見だが、アニメの場合、基本的に、主人公の性格が善良だと視聴感が非常にいい。性格が悪いと視聴感が非常に悪いようだ。「無職転生」など、話作りは上手いと思うのだが、途中で主人公に飽きて、視聴を辞めた作品である。性格が悪いというよりあまり共感できない性格だったわけだ。そりゃあそうだ。引きこもりが異世界に転生しても性格は同じなのだから。


(以下引用)

高齢者父親がなろう系にハマった

うそろそろ古希になろうとする父親だが、ここ数年でなろう系にすっかりハマってしまった


元々、昔から銀英伝とかグイン・サーガアルスラーン戦記とかみたいなファンタジー小説スペースオペラが好きで読んでいた


アニメもそこそこ見ていて、探偵物とかSFアニメとかを見ていた


還暦を超えたあたりで、職場が変わり暇な時間も増え家でゴロゴロする事が多くなったので、ボケ防止に何となく適当ななろう系アニメをサブスクから勧めた


そしたらすっかりとハマってしまい、映画化が決まると初日舞台挨拶にまで行く始末


暇な時間が多いからか何周もアニメを視聴し考察をわざわざ話してくる


今ではすっかりなろう系の虜になり、小説家になろうとかのWebサイト毎日のように漁ってる


久しぶりに帰省すれば実家には書籍化したなろう系の本が山積み……


なろう系って高齢オタクにほどウケるんだな……


深く考えなくても読めるし楽でいいと父親は話してたけど

追記

かに水戸黄門暴れん坊将軍も好きだったから元々素質あったのかもな


どんな作品を読んでるかを書く(1部なろう系じゃないラノベあり)


親が読んでるの全部知ってる訳じゃないから本人が面白いと会った時に豪語してたやつね


転生したらスライムだった件


盾の勇者の成り上がり


乙女ゲーム破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…


魔法科高校の劣等生


とある魔術の禁書目録


本好きの下剋上


・月が導く異世界道中


無職転生 ~異世界行ったら本気だす~


他にも色々上げてたけど、アニメ化してない作品ばかりだから自分知らなくて覚えてない


基本、アニメ化してる奴は全部見てると思う


何故なら、なろう系にハマりだした頃からクールアニメは全部面白くなくても最後まで切らずに見てるらしいか


逆に面白くないと言ってた作品を上げる


・ソー〇アートオンライン


あんまりゲームとかしないかネトゲRPG世界観が分からいから没入出来ないらしい


本人がアニメを見た上で映画を見たいと言うので連れていったけど不発だった


何度か本人になろうに投稿したらと言ったけど、自分には文才無いから無理と言ってた











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「レーニンの笑い」の謎

「レーニンの笑い」についての中沢新一の解釈を「行き過ぎた解釈」だと私は書いたが、その確認をしておく。
その前に、私自身の「笑いの機序」についての所説を書いておく。

笑いとは、「驚き」と「安心」(場合により、それに続けて「自己反省」と「自己防御意識」)の連続が身体症状(表情や笑い声)となったものである。ベルグソンが言っているらしい「緊張と緩和」もそれに近いが「驚きと安心」の方が現実に近いと思う。驚きが現実の危機となると、それは「恐怖」になり、驚きが安全な種類のものだと分かると安心して笑いとなるわけだ。たとえば、道で転んだ人間を見ると我々は驚く。だが、その相手が安全だと分かるとその「転んで威厳を無くした相手」への「笑い」が生まれる。ところが、転んだ相手が動かないとなると、笑いどころではなくなるのである。


で、中沢新一の文章(紙谷氏による要約を含む)を再引用してみる。元の文章では二か所になっていたのを連続させて把握を容易にしておく。

(以下引用)

 レーニンは、ゴーリキーの仲介で、政敵と無理矢理ひきあわされ仲直りを強要されるという不本意な旅につきあわされる。
 そのとき、唯一レーニンが「笑い」をみせる瞬間があった。
 海釣りをしていたレーニンが手釣りをすすめられ、魚がかかった瞬間、「ドリン・ドリン」という引きがきたらすぐに引き上げろ、と指示されるのだ。最初のあたりがきて、レーニンは勢いよく釣り糸をひきあげ、熱狂的に叫ぶ。




 「ああ、ドリン・ドリン! これだ、これだ」




 これはトロツキーレーニン伝に出てくる一節である。
 中沢はこう記す。




レーニンという強力な思考機械は、たしかに思考の外にあるもののごく近くで、しばしばそれに直接的に触れながら、作動していたのだ。それは、物質の未知の領域に挿入された、科学的な実験装置のように、人間の言語や思考のなかにまだ組み入れられていない領域に、直接触れている」




 これぞ唯物論である。
 レーニンは物質を存在論的に規定せず「意識から独立した客観的実在」というふうにだけ規定する。中沢はそれを「画期的」と表現する。




 レーニンは、ぼくらの意識の外に、未知の、無限で、底のない、そしてとてつもなく豊かな、きわめつくすことのできぬ「物質」が広がっていたことを知っていた。それがまったく別種のものとしてぼくらの思考に侵入してくる瞬間、「笑い」をひきおこすのだ、と中沢はいう。




 しかし、レーニンはそれをカントのようにたんに「知りえぬもの」とは名付けない。
「それはカントの『物自体』のように、のっぺらぼうの抽象になってしまうからだ。……これにたいして、レーニン唯物論は、その『物自体』、その『知りえぬもの』の内部にわけいって、思考がその外にあるものに接触していく『実践』の運動の重要性を主張したのだ」(中沢)



「実践する人間の意識は、自分の外にむかって踏み出していく。なじみのない不気味な異和の感覚が、意識の尖端に接触し、そこをあらっていく。意識は意識ならざるものに触れながら、自分の形態を、たえず変化させていく。この実践は無限につづく。しかし、実践の波頭では、意識は客観に変容し、客観の中から、新しい意識の形態が、たえまなく発生している。そのとき、レーニンのあの笑いがよみがえってくるのだ。ドリン・ドリン!……だから、レーニン唯物論は、笑いとしての哲学なのだ。彼がマッハ主義を攻撃するのは、それが笑わないからだ。観念論は、子供の頭をなでることができない。それは、犬の腹をなでるとき、意識のなかに、絶対的自然が優しい侵入をはたしていることが、わからない。そのとき、レーニンの手のひらに触れているものを、経験の要素だと言うならば、彼のからだにあの笑いの波は、おこらない。ニーチェの言う『神的な笑い』を知ることができない。意識の外にある客観的実在だけが、人間を心の底から、笑わせることができる」(中沢)



(引用終わり)

最初の部分には(いや、中沢の文章の引用全体に)どこにも「レーニンの笑い」そのものの描写が無いのである。紙谷氏が省略したのか、中沢の本にその記述が無かったのかは不明である。だが、「ああ、ドリン、ドリン! これだ、これだ」がなぜ「レーニンの笑い」となるのかを書かないと、紙谷氏の文章全体が破綻するのではないか。

次の文章が中沢氏による「レーニンによる『笑い』の定義」かと思われるが、それが行き過ぎた解釈であるのは明白だろう。もし彼が言う通りなら、新しい事物に出会った人間は四六時中笑いっぱなしとなるのではないか? そんな人間(もしいたら多幸症というキチガイだろうが)などどこで誰が見たことがあるだろうか。

(以下引用)

 レーニンは、ぼくらの意識の外に、未知の、無限で、底のない、そしてとてつもなく豊かな、きわめつくすことのできぬ「物質」が広がっていたことを知っていた。それがまったく別種のものとしてぼくらの思考に侵入してくる瞬間、「笑い」をひきおこすのだ、と中沢はいう。

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「ふたつの唯物論」の考察

「ふたつの『唯物論』」というか、紙谷高雪氏の文章について、あるいはその文章で論じられている草草についての考察をするが、まあ、原文との細かい照合は面倒だし、私はここでは「印象」で論じるつもりなので、以下の文章に原文との不適合がある可能性は高いだろう。
最初に、「解釈」についてのS・ソンタグの言葉を引用する。と言うのは、紙谷氏の文章そのものが「レーニンについての中沢新一の解釈についての紙谷氏の解釈」であるからだ。とすると、それは「誰の思想」なのだろうか。それを「正確に論じる」ことがどれほどの意味を持つのか、ということになる。「レーニンの笑い」の意味(解釈)など、明らかに中沢新一の「度を越した解釈」だとしか私には思えない。

(以下引用)

「解釈とは世界に対する知性の復讐である。解釈するとは対象を貧困化させること、世界を萎縮させることである。そしてその目的は、さまざまな『意味』によって成り立つ影の世界を打ちたてることだ。世界そのものをこの世界に変ずることだ。(『この世界』だと! あたかもほかにも世界があるかのように。)」(ソンタグ『反解釈』)

(引用終わり)

まず、「ふたつの唯物論」の間の論争だが、驚かされるのは、こういう議論が初期ソ連の指導層内で大真面目で論争されていたことだ。それが革命や政治とどういう関係があるのか。どれだけの重要性があったのか。私には単に「どんな知的論争であれ相手に負けたくない」というインテリたちのプライドのぶつかり合いにしか見えない。つまり「哲学において相手より上だと証明できたら、それは自分のすべての知的優位を立証する」という思考が存在したのではないか。それは当然、政治的闘争でも「こちらのほうが知的に優れているのだからこちらの言い分に全員が従うべきだ」となるわけである。私はスターリンなどがこういう論争に積極的に参加したとは思わない。それだけの教養は彼には無かっただろう。しかし、政治力や実行力(テロを含む)では彼は他の指導者たちより勝っていたわけだ。
で、「ふたつの唯物論」については私はレーニンの考えに近いが、それが「共産主義」と関わるとはまったく思わない。紙谷氏とは正反対であるわけだ。共産主義化することで、人間はこの世界とより密接に関わり幸福になるとはまったく思わない。ソ連は「本物の共産主義」ではなかったとしても、それに近い政治体制だったことは事実だろう。で、人々はそこで幸福だったか? 世界とより関わり、その幸福さを芸術などに表現したか? まったく、ゼロである。
当たり前の話だ。たとえば小説などは「主に現実の不幸や矛盾を題材にする」ものだ。プロレタリア作家にとって「現実の幸福を描く」小説などブルジョワ芸術視され軽蔑されるだろう。では、プロレタリア小説家は、革命が成功したら何を描くのか。「共産主義体制下の不幸や矛盾」を描けるか。描けるはずがない。描いたら国家反逆罪で投獄されるだろう。現にソ連ではそうなった。では、共産主義政府の下での「幸福を描く」か? そんなのは見たことが無い。あっても、北朝鮮のマスゲームのような愚劣な仮装にしかならないだろう。
とりあえず、唯物主義社会は別に共産主義だけではない。むしろ資本主義社会こそ唯物主義の極致だろう。しかし、そこでは宗教もビジネス(生活の資)として堂々と存在できる。つまりビジネス最優先社会とは、下劣極まりないものもビジネスとして存在できるし、高尚なものも存在できるわけだ。それを「自由主義」と言ってもいい。もちろん、上級国民の自由は最大限で下級国民の自由は最小限であるが、共産主義国家よりはマシだろう。(ここで言う「共産主義国家」は理想としてのそれではなく、「現実に近い」共産主義国家である。)


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ふたつの「唯物論」(続き)


 ぼくは、S.ソンタグの次の一節を思い出さざるをえない。


「解釈とは世界に対する知性の復讐である。解釈するとは対象を貧困化させること、世界を萎縮させることである。そしてその目的は、さまざまな『意味』によって成り立つ影の世界を打ちたてることだ。世界そのものをこの世界に変ずることだ。(『この世界』だと! あたかもほかにも世界があるかのように。)」(ソンタグ『反解釈』)


 


 

反解釈 (ちくま学芸文庫)

反解釈 (ちくま学芸文庫)

 

 


 


 レーニンは、ヘーゲルを学びながら、このドイツ観念論哲学の泰斗が形式論理学をのりこえ、この客観世界の矛盾に満ちた、複雑で豊かな面白さを記述しようとしたことにびっくりした。「これは観念論なのか?」と。レーニンはノートにこう書きつける。


「客観的観念論は(そして絶対的唯物論はいっそうそうだが)まがりくねり(そしてとんぼがえりをうって)唯物論のすぐ近くへ近づき、部分的には唯物論に転化している」


 しかし、さらに「はじまりの哲学」であるギリシアの原初的な自然哲学を学んだレーニンは、ヘーゲルにすら「近代知」の小賢しさを見てしまう、と中沢は言う。このあたりは“中沢節”とでもいうべきものであるが、ヘラクレイトスが世界をみて、「永遠に生きる火」だと表現したことは、とりもなおさず、世界のこの豊かさ、底なしの深さを、ざっくりと表現したものだと中沢は見た。それをレーニンは感じ取ったというのである。


ヘラクレイトスにおいては、みずみずしい複雑な運動をはらんでいた『永遠に生きる火』が、ヘーゲル風には、たんなる『不断の生成』という、学校風の概念につくりかえられてしまう。古代哲学者の語る『火』には、闇の中から立ち現れるもの、存在(有)にむかって立ち上がってくるもの、というような新鮮な運動が感じられた。それが『有』とか『非有』という概念をもって語られてしまうと、その『立ち現れ』という言葉にこめられていた、深い意味が消失してしまっているように(レーニンには)思われた」(中沢)



「何かが見えなくなっているのだ。ヘラクレイトスには見えていたものが、近代の思考には見えなくなっている」(中沢)


 


 「闇」「永遠に生きる火」といった宗教学者・中沢らしい、神秘めいた言葉で彩られてはいるが、中沢自身がそこに意識とは独立した客観世界の底なしの豊かさを見るのである。
 神秘の観念がうまれるのは、客観的物質世界がどこまでいってもくみつくせないからである。
 ところが、近代知は、それを経験や感覚のなかにおしこめ「解釈可能」なものに変換してしまおうとする。その底なしの闇の不安から、一刻も早く逃れるために。その粗雑な不良品が主観的観念論である。


 しかし、ヘーゲルでさえ、その近代の思考慣習から逃れることはできなかった。
 ヘーゲルは、この豊かで複雑な弁証法を、学校勉強風の概念になんとかおさめようとし、「精緻」な体系をつくってしまった。この体系こそ、ヘーゲル哲学の全体性という大伽藍を構成しており、多くの人をそこに平伏させたのだが、同時に、多くの人がそこから反逆していくことになった。


「…ヘーゲル的『精神』には、底がある。はじまりの哲学におけるピュシス(自然)やゾーエー(生命)には、底がなかった。そのために、存在と生は、たえず不思議な暗さのなかに没していく衝動を潜在させていた。『精神』には、その暗さがない。そのかわり、構築の堅固さへの自信がある。ヘーゲルの場合、その堅固さの感覚は、ブルジョア世界に特有な、明るさと堅固さへの、『その日暮らしの根拠のない自信』(ハイデッガー)によって、ささえられているのだ」(中沢)


 


ブルジョア哲学は、西欧形而上学二千年の歴史を背景にしてつくりだされた、堅固なディスクールの体系をなしている。しかし、それは、存在の底、根拠についての、特有の臆病を特徴としている。そのために、それは、美しい牛の心臓に素手をつっこんで、個体の主観である生の形態を破壊して、その内部から立ち現れる、絶対的な客観であるゾーエーの力強い露呈に、身をさらそうとはしないのだ」(中沢)


 レーニンは、しかし、ヘーゲルを学ぶことによって、のちのソ連流の「弁証法唯物論」、意識が客観の単純な反映であるということに通じるような議論、すなわちフォトコピー論を拒否するのだ、と中沢は言う。


「実践する人間の意識は、自分の外にむかって踏み出していく。なじみのない不気味な異和の感覚が、意識の尖端に接触し、そこをあらっていく。意識は意識ならざるものに触れながら、自分の形態を、たえず変化させていく。この実践は無限につづく。しかし、実践の波頭では、意識は客観に変容し、客観の中から、新しい意識の形態が、たえまなく発生している。そのとき、レーニンのあの笑いがよみがえってくるのだ。ドリン・ドリン!……だから、レーニン唯物論は、笑いとしての哲学なのだ。彼がマッハ主義を攻撃するのは、それが笑わないからだ。観念論は、子供の頭をなでることができない。それは、犬の腹をなでるとき、意識のなかに、絶対的自然が優しい侵入をはたしていることが、わからない。そのとき、レーニンの手のひらに触れているものを、経験の要素だと言うならば、彼のからだにあの笑いの波は、おこらない。ニーチェの言う『神的な笑い』を知ることができない。意識の外にある客観的実在だけが、人間を心の底から、笑わせることができる」(中沢)


 ああ、まことそのとおりである!


 左翼であるぼくらは、方針文書や理論をなぞって現実におそるおそるふみだしてみる。
 その方針と理論とちがった、あまりにも豊かで複雑で、みずみずしい現実が、ぼくらの意識にやさしい侵入をはたしたとき、臆病な左翼はびっくりして引き返してしまう。
 しかし、真の左翼は、なにがおころうがそこから実践へ、客観的世界へとわけいっていく。
 そうやって、客観的世界にわけいったものだけが、「笑う」ことができる。
 そのとき、当初想定していた理論や方針を、まったくみずみずしい、思いもよらない新たな言葉でよみがえらせる場合もあるし、たんにその理論が貧しい抽象であったことを暴露する場合もある。しかし、いずれにせよその人たちは「笑う」だろう。それは本当に唯物論の立場に立って、現実にわけいったものだけが味わうことのできる「笑い」である。


 そのときはじめて左翼は――いや左翼にかぎらず、人は、世界を「美しい」と思うことができるのである。



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ふたつの「唯物論」

考察素材としての転載。長いので2回に分けるかもしれない。

(以下引用)

中沢新一『はじまりのレーニン』

 

 知り合いの左翼の女性に、「もし子どもが生まれたらどんな名前をつけたいか、あるいは、その名前にどんな人生の期待をこめるのか」と聞いたとき、彼女は「この世界が美しいと思ってくれる子になってほしい」と答えた。
 いい答えだ、と感心した。


 左翼や共産主義者というのはいつもこの世に不平を鳴らしているのだからさぞ世界は灰色にしか見えないだろうと多くの人はおもうだろう。
 さにあらず。
 世界が美しいと底なしに確信しているからこそ、それを抑圧するものへの厳しさは人一倍だといえる。 ピカソネルーダが共産主義者だったことには、それなりにワケがある。


 意識とは独立した客観世界は、まこと底なしで、深く、豊かで、それゆえに美しい。
 そのことを感じる力が唯物論である。


「こんなに世界は美しいのに
 こんなに世界は輝いているのに……」


 荒れ狂う王蟲の群れをぼんやりと見ながら、ナウシカは疲れたようにつぶやく。



 中沢新一『はじまりのレーニン』を単行本で読んだのは学生時代で、そのころはいまひとつよくわからないところがあったのだが、今回本屋で偶然にも同時代ライブラリーとなっているのを手にとって、持っているにもかかわらず、もう一度買って読み直してしまった。そうしたら、面白いことこのうえないではないか!  思わず線を引きまくるぼく。


 

新版 はじまりのレーニン (岩波現代文庫)

新版 はじまりのレーニン (岩波現代文庫)

 

 



 レーニンは、ゴーリキーの仲介で、政敵と無理矢理ひきあわされ仲直りを強要されるという不本意な旅につきあわされる。
 そのとき、唯一レーニンが「笑い」をみせる瞬間があった。
 海釣りをしていたレーニンが手釣りをすすめられ、魚がかかった瞬間、「ドリン・ドリン」という引きがきたらすぐに引き上げろ、と指示されるのだ。最初のあたりがきて、レーニンは勢いよく釣り糸をひきあげ、熱狂的に叫ぶ。


 「ああ、ドリン・ドリン! これだ、これだ」


 これはトロツキーレーニン伝に出てくる一節である。
 中沢はこう記す。


レーニンという強力な思考機械は、たしかに思考の外にあるもののごく近くで、しばしばそれに直接的に触れながら、作動していたのだ。それは、物質の未知の領域に挿入された、科学的な実験装置のように、人間の言語や思考のなかにまだ組み入れられていない領域に、直接触れている」


 これぞ唯物論である。
 レーニンは物質を存在論的に規定せず「意識から独立した客観的実在」というふうにだけ規定する。中沢はそれを「画期的」と表現する。


 レーニンは、ぼくらの意識の外に、未知の、無限で、底のない、そしてとてつもなく豊かな、きわめつくすことのできぬ「物質」が広がっていたことを知っていた。それがまったく別種のものとしてぼくらの思考に侵入してくる瞬間、「笑い」をひきおこすのだ、と中沢はいう。


 しかし、レーニンはそれをカントのようにたんに「知りえぬもの」とは名付けない。
「それはカントの『物自体』のように、のっぺらぼうの抽象になってしまうからだ。……これにたいして、レーニン唯物論は、その『物自体』、その『知りえぬもの』の内部にわけいって、思考がその外にあるものに接触していく『実践』の運動の重要性を主張したのだ」(中沢)


 中沢は、ここでレーニンボルシェヴィキ内部でおこなってきた哲学論争を紹介する。
 レーニンに対立する一派は、当時の自然科学者マッハの哲学の影響を深く受けていた。


「人間の外に、なにか『物質』と呼ばれるものが、客観的に実在しているわけではなく、それは感覚の複合がつくりあげる、思想上の記号なのだ、とマッハは語るのだ。……そういう実証科学では、カントの『物自体』について考える必要もないし、また人間の外部に実在する『物質』というものを、考える必要もない。もしも人間の外の『物自体』と経験のあいだに、なんらかの関係があるとしても…おたがいの間には、恣意的なつながりしかない。それにだいたい、経験の『要素』は、ニューロンを通過するパルスにすぎないのだ。重要なのは、それを経験に組織化する『形式』や『構造』をあきらかにすることであって、外の物質的実在について、うんぬんすることではない。マッハ主義はこのように主張する。その現代性はあきらかである」(中沢)


 レーニンに対立する一派は、そのような主観の組織化がどのように客観性を獲得するかといえば、それは集団の場で社会性を獲得するからだ、と主張する。つまり、最初は自分の経験の、感覚の束にすぎないのだが、「みんながそういうから」という理由で、それは「客観性」を獲得するのだというわけである。


記号論とは、なんとまあ、ブルジョワ教養小説のようなつくりをしているではないか、とレーニンはあざける。そうではない。客観は、人間の意識の絶対的な外部にあるのだ、とレーニンは考える。社会性がなくても、経験の組織化などがなくても、それは実在する」(中沢)



 まことにそのとおりである。
 中沢は、この本のなかで、マッハをはじめとする主観的観念論を「現代的」だと規定する。そうだ。現代的な哲学潮流の大勢はこの流れをくむものである。


 しかし、客観世界とは、そのように、ぼくらの経験や感覚にしばられた底の浅い、(ぼくらにとって)「整然」としたものであろうか? せいぜいぼくらの感覚で「組織化」できる程度のものであれば、世界とはなんと貧しいことか。
 世界とはそんな浅薄なものではない、もっと豊かで深い。



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