
引用元:太平洋戦争最大の戦犯って誰だと思う?
関東軍が暴走した時点で終わりや
御前会議で山本五十六がやんごとなき言い回しをせず
陛下にはっきり実情を説明すれば良かった…
近代化→軍隊の近代化だけ
徴税率→重税
こんなもんやで
国民党政府を対手とせず発言だけで
人類の戦犯になった男
報道を軍部が弾圧しまくった結果や
なお満洲事変
気の赴くままにつれづれと。
引用元:太平洋戦争最大の戦犯って誰だと思う?
28: 名無し募集中。。。 2022/11/21(月) 23:24:58.14 0
帯状疱疹
ヘルペス
不正出血
梅毒
ここ1~2年で何か国民の免疫が一気に下がるような出来事ありましたっけ?
31: 名無し募集中。。。 2022/11/21(月) 23:26:03.80 0
>>28
ないない!だから馬鹿な高学歴高収入のワク信はワクチン打て
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今更、中国と米国がまともな「戦い」なんかにはなりませんよ。 中国・ロシア・イランを軸に、世界人口の85%が、西側諸国全体を、エネルギー資源で締め上げて、圧殺する。これ以外の結果にはならないでしょう。 あとは、中国が大規模に米国債を売り叩きはじめるか。そのタイミング待ちですね。それを牽制するための米中首脳会談だったのでしょうけど、恐らく成果はゼロでしょう。習近平に鼻であしらわれて終りです。 さすがに、今の段階で、中国が保有する米国債を「敵性資産」として強制的に没収する事は、いくら反共主義者達が狂った馬鹿揃いでも、出来ないでしょうねぇ。 仮にウクライナ戦争が米国にとっての「準備運動」だというのなら、ボケた老人がフルチンで寒空の下でラジオ体操をやっているようなモンですよ。心臓麻痺を起こしてブっ倒れるでしょう。ロシア製の北風はさぞ冷たいでしょうよ。 | ||
○そのとおりであろう。 投稿記事は情報として古い感じがする。「準備運動」など余裕がないのがアメリカになっている。 最近のニュースでは、ポーランドへのミサイル発射はウクライナ最後の悪あがきだが、アメリカはウクライナをもうヘルプできないと言っている。 | ||
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その第一陣を切ったと歴史に記される事を目指してほしい |
https://i.imgur.com/cUhF9bG.jpg
うまそう
なお潰される模様
24個以上あるやん…
(35)定期
24個以上あるやんけ
35個あるな
カキって果物なの?野菜なの?
どっちにしろうまくないが
柿を風呂に……?
風呂上がりの柿の写真も貼れ
杮!?
干し柿の甘味の数値に勝てる果物って少ないんよな
それくらい甘い
サラダに柿入れるやつ許さない
柿って英語でなんて言うの?
でも実際お見舞いのフルーツ盛りに柿混じってたら場違い感すごいやろ
ぷかぷかで草
日本の種子島に鉄砲をもたらしたのは、知ってのとおりポルトガル人だが、そのポルトガル人が柿の味に感嘆し、柿の苗と種を故国に持ち帰ったのだとか。
その後、ポルトガル領だったブラジルへと、『KAKI』という名とともに、広まっていったのだ。
リチャード3世(英語: Richard III, 1452年10月2日 - 1485年8月22日[1])は、ヨーク朝最後のイングランド王(在位:1483年 - 1485年)。薔薇戦争の最後を飾る王である。
エドワード3世の曾孫であるヨーク公リチャード・プランタジネットとセシリー・ネヴィルの八男で、エドワード4世とラトランド伯エドムンド、クラレンス公ジョージの弟。即位前はグロスター公に叙されていた(在位:1461年 - 1483年)。護国卿でもあった(在位:1483年)。
戦死した最後のイングランド王であるが、他に戦死した王は1066年にヘイスティングズの戦いで敗死したハロルド2世と、1199年に矢傷がもとで死亡したリチャード1世がいるのみである。1484年1月に王直属の機関として紋章院を創設したことでも知られる。旗印は白い猪、銘は“Loyaulté Me Lie”(ロワイオテ・ム・リ)で、意味は古フランス語で「忠誠がわれを縛る」。
幼くして父を失ったリチャードは、兄エドワードや母方の従兄にあたる実力者ウォリック伯リチャード・ネヴィルの庇護をうけて成長した。ウォリック伯の元で少年期を過ごし、騎士としての修業を積み、1461年に兄がエドワード4世としてイングランド王に即位するとグロスター公に叙位された。
政権内の争いから、1470年にエドワード4世がランカスター派に寝返ったウォリック伯によって追放されたとき、ウォリック伯の誘いを拒否して一貫してエドワード4世に忠誠を誓い、翌1471年の兄王の復位に貢献した。1472年、ヘンリー6世の継嗣エドワード・オブ・ウェストミンスターの寡婦であったウォリック伯の娘アン・ネヴィルと結婚した。アンの姉イザベル・ネヴィルの寡夫であったリチャードの兄クラレンス公ジョージが1478年に処刑されると、リチャードは広大なウォリック伯領を独占相続して、名実ともに実力者としての地位を確立した。
その後、王妃エリザベス・ウッドヴィル一族が政権内で勢力を伸ばすと、これと対立するようになる。1483年にエドワード4世が病死するとその息子(リチャード自身にとっては甥)であるエドワード5世の摂政(護国卿)に就任。まもなくリヴァーズ伯アンソニー・ウッドヴィルらの王妃一派を捕らえて粛清し、協力者のヘイスティングス男爵ウィリアム・ヘイスティングスも処刑、さらにエドワード5世とその弟リチャード・オブ・シュルーズベリーをロンドン塔に幽閉した。2人はそのまま消息不明になり、殺されたとみられる。3ヵ月後の同年6月26日、エドワード5世の正統性を否定した議会に推挙されて(エドワード4世とエリザベス・ウッドヴィルの結婚は無効、2人の間の子供は庶子とされた)、イングランド王リチャード3世として即位した。同年、支持者の一人ジョン・ハワードにノーフォーク公位(ロンドン塔に幽閉された甥リチャードから剥奪された)を与える。
1483年10月、リチャード3世政権の樹立に貢献のあったバッキンガム公ヘンリー・スタッフォードが反乱を起こすとこれを鎮圧したが、反乱の噂は絶えず、政情は不安定なままに置かれた。1484年4月には一人息子のエドワード・オブ・ミドルハムが夭折し、1485年3月には王妃アン・ネヴィルも病死する。唯一の子供であったエドワードの死後、リチャード3世は一時、自身と王妃の甥であるクラレンス公の幼い遺児ウォリック伯エドワードを王位継承者に指名したが、王妃の死後にそれを取り消し、代わって別の甥(姉エリザベス・オブ・ヨーク (en) の息子)であるリンカーン伯ジョン・ド・ラ・ポールを王位継承者に指名した。
1485年8月、ランカスター派のリッチモンド伯ヘンリー・テューダー(後のヘンリー7世)がフランスから侵入し、ボズワースの戦いで国王自ら軍を率いて決戦する。この戦いでリチャード3世は味方の裏切りに遭い、自ら斧を振るって奮戦したが戦死した。遺体は、当時の習慣に従って、丸裸にされ晒された。
リチャード3世はウィリアム・シェイクスピアによって、ヨーク朝に変わって新たに興ったテューダー朝の敵役として稀代の奸物に描かれ、その人物像が後世に広く伝わった。
一方で、リチャード3世の悪名はテューダー朝によって着せられたものであるとして、汚名を雪ぎ「名誉回復」を図ろうとする「リカーディアン (Ricardian) 」と呼ばれる歴史愛好家たちもおり、欧米には彼らの交流団体も存在する。リチャード3世を兄(エドワード4世)思いで甥殺しなどしない正義感の強い人物として描くベストセラー小説も、ジョセフィン・テイ『時の娘』(1951年)をはじめとして数多くある。1980年代以降には以下のような作品がある。
ただし、デヴィッド・スターキーのように著名な歴史家が「甥殺しのあの悪人」と書くなど、評価はいまだ分かれている。2002年、BBCが発表した「100名の最も偉大な英国人」では82位に選出された。