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「39階段」のスポーツ感覚

ジョン・バカン「39階段」のスポーツ感覚

ジョン・バカンの冒険小説「39階段」は、冒険小説の本質であるスポーツ感覚に満ち溢れている。スポーツ感覚とは、つまり、障害や困難の克服と、それに伴う爽快感である。英国にすぐれた冒険小説の伝統があることと、英国人のスポーツ好きとは表裏一体の関係だろう。アメリカ人は、実は冒険小説を好まない。彼らはもともと農夫であり、居酒屋での政治談義は好むが、自らスポーツ的に冒険の世界に飛び込む気は、あまりないのである。したがって、ハリウッド製の映画でも、スポーツ感覚に溢れた冒険映画は、実はそれほど多くはなく、たいていはサスペンス映画である。例外的なのは、ジョン・スタージェスの「大脱走」くらいだろうが、あれもヨーロッパが舞台であり、原作は多分、英国人ではないかという気がする。アメリカ人の好むのは、ホラーとサスペンスであり、だからこそスティーブン・キングやディーン・クーンツなどがベストセラー作家になるのである。アリステア・マクリーンやイアン・フレミングのような冒険小説作家は、英国からしか出ないと言ってもいい。イアン・フレミングの「007」にしても、イギリスでテレンス・ヤングが監督した作品と、ハリウッドで作られるようになってからではかなり変質しており、ハリウッド版は肉体感覚を伴ったスポーツではなく、頭の中で組み立てられただけの、ただのゲームに化しているのである。この肉体感覚の無さが、ハリウッド映画の最大の欠点であり、彼らの考えでは、すべては頭脳の内部で決まるゲームなのである。ハリウッド映画にもしも人々が違和感を感じるなら、その原因はおそらくここにある。それは、近年のアメリカ文学にしてもそうなのである。つまり、「爽快感が無い」ということだ。「ダイ・ハード」を見て、爽快だったと言う人もいるだろう。確かに、難問の知的攻略を「体を張って」やる、という点では比較的スポーツ的ではあった。だが、「大脱走」や「ナバロンの要塞」のようなスポーツ感覚かというと、どうも違う気がする。一つには、あれが閉ざされたビルの内部の話である、という理由もあるだろう。
ジョン・バカンの「39階段」は、スパイ退治の冒険小説だが、「ピクニック小説」と言っていいくらいの野外感覚がある。それはスポーツの爽快さの重要要素なのである。つまり、「ダイ・ハード」での汗が、不快な冷や汗でしかないのに、「39階段」の汗は、かく側(そば)から涼風に吹き払われる気持ちのいい汗なのである。これが私の言う「39階段」の爽快さである。
「39階段」の作者は保守主義の政治家でもあり、英国の植民地主義を正当化するその愛国思想は、他国民から見ればいい気なものだと思うが、困難を笑って受け入れ、それと戦っていこうとするスポーツマン精神には感心せざるをえない。英国の階級制度に良い点があったとすれば、それは「ノブレス・オブリッジ」に見られる騎士道精神と、冒険精神にあったのだろう。それを私はフェア・プレイ精神に基づくスポーツ感覚と言っているのである。

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エネルギーと世界の未来

エネルギーと世界の未来

 あと数十年で化石燃料が枯渇するだろうが、その時世界はどうなるか。
 まず、産業と日常生活においては、原子力発電でしばらくはまかなうことになる。つまり、定住的に使用する電気は現在の石油の位置を原子力が負担することになる。日本のように水力に恵まれている国では、水力発電も一部復活し、潮汐発電なども一部では進められるだろう。
 だが、最大の問題は、自動車である。石油燃料の代わりにバイオ燃料を用いるなどという方法は、コストパフォーマンス面から言って、問題にもならない不合理な解決策であり、これは、穀物販売値段値上げの手段の一つにすぎない。つまり、石油に代わる代替燃料は、自動車に関しては存在しない。長い未来には太陽電池搭載の自動車もある程度の実用化がされるかもしれないが、それもコスト的に、庶民が利用するのは無理だろう。つまり、自動車はハイソサィエティ専用の乗り物となり、庶民は自転車、乗馬などを利用する時代がくる。たとえば、現在1リットル150円のガソリンが、1リットル1000円になった時代を想像すれば良い。職場に通勤するのに毎日数千円を出せるだろうか。
 化石燃料の枯渇は、生活スタイルの変化をも生む。燃料が貴重になった時代には、職住接近が原則となり、人々は再び、自分の生まれ育った土地で一生を送るようになるだろう。だが、その一方で、電気は前と同じくあるのだから、知識と情報の上ではインターネットで広い世界とつながることができる。
 化石燃料の枯渇は、二十世紀型の軍事をも変えることになる。高価な石油を湯水のように使う飛行機や軍艦は、演習さえもできなくなり、結局は使用不能になり、長距離ミサイルだけが現実的な大量破壊兵器となるだろう。それ以外では、生物兵器や毒ガスなどが大量破壊の手段となる。しかし、戦争の主体は小火器による個別的戦闘になる。つまり、第一次世界大戦型の戦争に戻る。もちろん、一発逆転の手段としての原爆の使用の可能性は残るが、相手国の首都に対して原爆を落とす勇気のある指導者はいるかどうかである。というのは、戦争とは庶民同士を戦わせ、殺し合わせるのが大原則であり、お互いの戦争指導者を直接に殺すという戦争は近代戦争の歴史には存在しないからである。
 石油は燃料以外の用途もあり、その枯渇によってプラスチックなどもなくなることになる。もちろん完全にはなくならず、電化製品の一部に使用されることは残るだろうが、その値段は高騰する。すると、人々の生活から電化製品は次第に少なくなっていき、テレビ、クーラー、自動車がまだ珍しかった、「三丁目の夕日」的な昭和20年代頃の生活が普通になるだろう。
 結論を言えば、化石燃料の枯渇によって、我々の周りに自然が戻り、我々の生活もまたより不便だが人間的な自然さを取り戻すということになるだろう。

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ブログ名称の変更について

旧名称「白楽天のブログ」は、まるで中華料理屋の宣伝ブログのようなので、名称を「酔生夢人のブログ」に変更しました。
〈酔生夢死〉は酒好きで妄想的人間である私の人生そのものです。「白楽天」とともに、「酔生夢人」の名前も今後使う予定です。
時には、「彗星無人」と書く場合もあるかもしれません。「夢」よりは「無」のほうが私の妄想にはふさわしい気もするので。

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メモ日記6 #14

#14   議論の作法

無知な人間が、知識のある人間と議論をすることは可能だろうか。正しいのはこちらだという確信を持ちながら、しかも相手を論破する知識や言葉を持たない場合、議論で勝つことはできるだろうか。実は、これがかつての学生運動の指導者たちが直面した問題だった。彼らがこのことを意識していたかどうかはわからないし、わかっていても認めないとは思うが、彼らはこの問題を無意識にでも感じていたはずである。なぜなら、彼らの多くは、多くの知識人や大人に比べれば、圧倒的に無知だったはずだから。
彼らの出した結論は、相手の言うことは一切聞き入れるな、一方的に自分の言いたいことだけを言え、というものだった。相手が何を言おうと、「ナンセーンス」の一言で葬り去れ、ということだ。なるほど、これなら議論に負けることはありえないし、自分の言いたいことを表明することだけは、少なくともできる。この方法が一般に知られると、我も我もとこの方法を使いだしたことからも、この戦法の有効さはわかる。この戦法を考えた人間は頭がいい。しかし、本質的には馬鹿である。
議論をする目的は、有益な結論を出すことであり、勝ち負けのためではない。学生運動の「ナンセーンス」戦法は、局地戦での勝利のために大局を見失い、一般大衆からあきれられてそっぽを向かれる結果を招いただけであった。要するに、自分の体面だけを考えた、このような愚かな指導者たちのために、学生運動は失敗したのである。

*メモ日記は一部不掲載のため、通し番号と掲載番号は一致しません。

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古典の花園23 第三章5


 磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど、
 見すべき君がありと言はなくに。 (「万葉集」大来皇女)

 花を手折って見せるという行為も、姉弟の間柄よりは恋人同士にふさわしいように思われます。そして、その見せるべき相手はこの世にもはやいないのです。時間的には、2の歌の前後でしょう。おそらく、少し後ではないかと思いますが、末尾の「言はなくに」は「言わないのに」の意味です。当時、死んだ人に逢ったと慰める風習があったようですが、罪を得て処刑された場合には、それをはばかったので、誰も死んだ大津皇子に逢ったと言わない、ということです。

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古典の花園22 第三章4

4 
 二人行けど行き過ぎがたき秋山を、
 いかにか君が一人越ゆらむ。 (「万葉集」大来皇女)

 ここでも、大伯皇女は、「二人」ということをまず思うのです。このような一体感は、大津皇子の歌には見られないように思われます。このような一体感があったからこそ、その喪失感の大きさが耐えがたいものだったのでしょう。「いかにか」は疑問詞「いかに」と疑問助詞「か」の複合で、「いかに~か」(どのように~か)の意味です。訳は「二人で行っても行き過ぎにくい秋山を、どのようにしてあなたは一人で越えるのだろうか」。

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古典の花園21 第三章3


 吾が背子を大和へやると小夜ふけて、
 暁(あかとき)露に吾が立ち濡れし。 (「万葉集」大来皇女)

 この歌は、時間的には1,2の歌よりも前の時期の歌でしょう。私が、この姉の心理に、姉弟の愛を超えた男女の愛を感じるのは、この歌のためです。まず、背子という言葉は兄弟にも使いますが、本来、愛する人の意味で使われたらしい言葉ですし、その弟を見送った後、露に濡れるまでその場に立ち尽くしている姿には、異常なまでの愛情が感じられます。それに対して弟の方は、他の女に贈った歌が数種万葉集に記載されており、姉ほどの愛情があったかどうかは疑問な気がします。それだけに、私には大伯皇女の心情が深く感じられます。「暁」は、夜明け前のまだ暗い時刻を言います。「小夜」は「夜」と同じですが、当時の感覚ではおそらく夜の9時くらいにはすっかり夜がふけた感じがしたでしょうから、それから暁までの長い時間、露がおりるころまで彼女は立っていたのです。これが芸術的誇張ならどうということはありませんが、私には、大伯皇女は本当にそういうことをやりそうな女性に思えます。

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プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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