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なぜ彼らは「国連救援」を拒否するのか

「つれづればな」というブログから転載。外国在住の60代の女性のブログらしい。
ソマリアという国は、いわば「無政府国家」に等しいと私は思っているのだが、その惨状を見れば、日本のような腐敗国家でさえ天国に見える。やはり、国家には政府が必要であり、官僚も必要ではある。大事なのは、「権力は腐敗する。絶対権力は絶対に腐敗する」というテーゼを我々が常に意識し、政府や国家システムを監視する方法を構築していくことだろう。
それにしても、ソマリアへの仕打ちを見れば、国連やユネスコの正体が欧米の利権擁護組織でしかないのは明らかだろう。世界中の善意の寄付は、こうしてソマリアを苦しめることに使われてきたのである。


(以下引用)


この三年で一滴の雨もふらない、そんなひどいことが日本人の思い浮かぼうか。



「ソマリア」「飢餓」で検索すればソマリアの惨状の写真がご覧いただける。やせ細って衰弱した子供の写真などは子を持つ身にしてみれば胸の潰れる思いがする。

ただ、アフリカの草原の民が飢えに苦しむ写真や映像は、とても悪い言い方をすれば「見慣れて」しまっている。視覚情報の氾濫がもたらす弊害とも考えることができるが、いま骨と皮だけになった子供たちの写真を見せられても多少こころが痛みこそすれ「アフリカだから仕方ない」、「何とかするのは国連の仕事」というせりふがすぐに我々の口をついて出る。

なにかがおかしくはないだろうか。

本稿はソマリア飢餓への寄付を募ることを目的としているわけではない。
援助を必要とする人々は日本のなかにも溢れており、善意の行動は各自の良心ある判断によってなされるべきである。
ただ、日本では知り得ないいくつかの事をぜひ書きとめておきたい。

西欧諸国からの救援物資が避難民に届かない―――その原因は欧米からテロ組織と指定されている「アル・シャバブ」の妨害によるものだという。
アル・シャバブはイスラム過激派組織の一つに数えられているが、アルカイダのようなアメリカ製のインチキ組織とは異なり、ソマリアというイスラム社会の内部から興ったものである。ではその敬虔なイスラム教徒のアル・シャハブがなぜ苦しむ同胞たちに差し伸べられた手を払いのけるような真似をするのか?

以前から、WFP(国連世界食糧計画)によってソマリア国民に対して食料の援助が行われていた。2006年、あろうことかWFPはソマリアの農民がその年の穀物を市場に出荷するのと時を同じくして一年分の穀類を援助し配布した。当然市場は凍りつき農民は大打撃を受けた。激しく抗議する農民に対しWFPはその非を認め、必要な調査を行い二度と同じ事態を招かぬことを約束した。だが2007年の出荷時、WFPは前の年と同様に一年分の穀類の分配を行った。ただ、エチオピアの軍隊を護衛に配備していたことが唯一の違いだった。

アル・シャバブはこの時点で彼らの活動拠点であるソマリア南部からWFPを追い出し一切の援助を拒否する方針を固めた。が、食糧難が深刻化した二年前からふたたび救援を受け入れるようにはなっていた。しかしその後、WFPから配布された食料から健康障害を引き起こす物質が検出されたという理由から、非イスラム国家および団体からの救援を強硬手段を用いて遮断するようになった。

近年世界を騒がせたソマリア海賊、その所以となった核廃棄物投棄事件を思い出していただきたい。
海賊の正体は窮地に立たされたソマリアの漁民であった。1991年、内戦によりソマリア政府が崩壊し国家としての機能しなくなった隙をねらい西欧アジア諸国の船がこぞって核廃棄物をソマリア海に投棄した。それだけではない。豊かな漁礁に目をつけた諸国は乱獲を重ね、禁漁の季節は無視され、魚介類は激減し、ソマリアは漁業という重要な収入源をも剥奪された。そして放射能による汚染は刻一刻と進み人々は被爆という悪夢に晒され今もそれは続いている。
国連は彼らを救済するどころか調査にもやって来ない。

不特定多数国家の船をソマリア海から駆逐する目的ではじまった自衛行動はその後海賊行為へと変容した。いったいどちらが海賊か考えてみて欲しい。皮肉なことに、この事態は西欧諸国の海軍に海賊を取り締まるという名目でアラビア海からソマリア海をうろつきまわる権限を与えてしまうことになる。ちなみにアル・シャバブは海賊行為はイスラム法に反する、海賊に組してはならない、と漁民たちに説いている。

国連をはじめユネスコなどの団体は飢餓写真を公表し飢餓救済キャンペーンを催してはパタリとやめてしまう。そしてそれを何年かごとに定期的に繰り返す。なぜか?自ら「飢え」を加速させ、自ら「救世主」を名乗り手を差し伸べる。その手をはたくイスラム教徒を「告発」し、西欧の理念をより崇高なものと世界に見せ付ける。
我々といえば、今にも折れそうな子供たちの脚を見てももはや驚かなくなっている。戦争映画の虐殺場面と同じ頻度でそれを見慣れて(見慣れさせられて)いるからだ。ソマリアが、あるいは他の国が飢えに苦しむ事実は理解できても心が動かない。

人を愚鈍にさせる術はよく研究されている。

弱者に対し悪事を働いた者たちはいずれ神に罰せれれよう。しかし、この悪事に「無知」という形で加担した我々は、果たして同じ罰をうけることになるのだろうか。

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山にいる人は仙人、谷にいる人は俗人

私はブログのプロフィールに「職業:仙人」と書いているが、それはもちろん、精神的には、ということで、現実にはただのサラリーマンだ。しかし、世の中には仙人らしい仙人もいる。「がま仙人」という人だ。
もとはIT技術者で、社長か何かだった人で、合気道か何かの武道の達人で、現在は仙人らしい。まあ、いろいろと世の中を経験した後で仙人になる、というのは、私などのように華々しい現実と渡り合うことなくのんべんだらりと老年を迎えた人間からは少々羨ましい。
その「がま仙人のブログ」の一部を紹介する。最近の仙人はアニメも見るし、ピアノも弾く、その合間に百姓をして自分で作った玄米を食べて健康的に生きているのである。
私のように、世の中の政治や経済に悲憤慷慨している人間は仙人には程遠いようだ。
今回のブログタイトルは、もちろん、漢字の絵解きである。私も、精神的には山から下界を見下ろしてはいるつもりなのである。


(以下引用)



うさぎドロップが終わってしまった
リンちゃんの乳歯がごそって抜けて
スキッ歯でにっこり笑って終わってくれた
実にほっとした
育児放棄したお母さんが
リンちゃんを取り返しにくるなんていう
ありきたりなドロドロにならずにすんでよかったと思う
うん、あの終わり方でよい
リンちゃん、ほんと可愛いい
名作だった

あ、ちなみに
「うさぎドロップ」って深夜枠のアニメです
死んだ祖父の隠し子を
30代独身の男が引き取って
育てるという物語



ただそれだけの物語なんだが
仕事と育児との両立の難しさとか
小学校に上がるときの男の
あわってっぷりとか
髪の毛をどうやって決めてあげるとか
縄跳びを教えるとか
風邪ひいたときの看病の大変さとか
いろいろ
子育ての戸惑いを丁寧に描いてる
みんなワシも経験したことなので
毎週見るのが楽しみで
画面に向かって
そうじゃないだろ、こうだろ
とか先輩ぶって一人つっこみしてた
まあ、そういう男手一つの育児の物語なわけで
すごく共感できたのである

 俺がリンを育ててるのか
 俺がリンに育てられてるのか
 ちょいちょいわからなくなる

そういうことです
子育てってさ
実際には子供に育ててもらってるんだよね
このへんを勘違いしてる親がほとんどです
このアニメでそのへんを
考えてみるといいでしょう

ところで、これって実写の映画もあるんだね
松ケンと、なんとかマナとかいう子役が出る映画だけど
ワシ、映画のほうは興味ないな
どうでもいいや
まあ、見ないでしょ

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ヒトラーと「ユダヤプロトコル」

iguchi kazumotoブログから転載。前にも引用したかもしれないが、ヒトラーの「我が闘争」再出版論争に関連して、ヒトラー再研究がブームになりそうな気がするので、掲載する。
なにしろ、ヒトラーは「ユダヤプロトコル」の実践者であり、本人もユダヤ人であるという疑いがありながら、ユダヤ人粛清をもやったという奇妙な存在である。しかしこれを奇妙に感じるのは、我々がユダヤ人という場合に「金持ちユダヤ人」と「ユダヤ民族」を混同していることから来るもので、金持ちユダヤ人がユダヤ民族を迫害するのに加担してもおかしいことはない。旧ソ連でユダヤ人迫害を行ったスターリンもロス茶の子供だとも言う。ユダヤ人はユダヤ人によって迫害されてきたわけだ。そして、その迫害の歴史が「金持ちユダヤ人」に利用されて、彼らへの批判の防波堤になってきたのである。
ヒトラーの大衆支配の方式は、「ユダヤプロトコル」そのままであり、それが米国によって日本でも用いられてきたのは言うまでもない。
我々はその支配から脱するために、まず「ユダヤプロトコル」をあらゆる人々に伝え、一般常識にすることから始めねばならないだろう。


(以下引用)


そして、いよいよその筋では非常に有名らしい「ヒトラーの山荘予言」の話につながる。この「山荘予言」は例のヘキサゴン・インリのサイトの詳しいので、ここでは「1999年以後」の「今もあてはまるヒトラーの法則」というセクションにある「ヒトラーの悪魔の法則」というものをまずメモしておこう。

これは俗に「ウソは大きいほどいい」とか、「小さなウソならばれるが、大きなウソならばれない」とかいう言葉で知られたヒトラーの言葉のもっとも核心部分であったらしい。選挙で勝つにはどうするか?大衆を動かすにはどうすれば良いか?というようなことに対する、ヒトラーの考え方である。

ヒトラーは次のようなことを述べたという。


どうだ、わたしの言ったとおりだろう。選挙の極意とはこういうものだ。つまり大衆は限りなく愚かだ。大衆は女のように感情だけで動く。だから女をモノにするときのように、優しくしたり威圧したりすれば、大衆も政権も簡単にモノにできるのだ。

青少年も同様に愚かだ。彼らには車とオートバイと美しいスターと、音楽と流行と競争だけを与えてやればいいのだ。
 それでシャンペンの空気を抜くように、かれらの頭から”考える力”を抜き取る。あとは車とスターと流行と音楽の力を借りて、ワッとけしかければ、彼らは武器を抱いて地獄の底へでも突っ込んで行くよ。

そのためにも、大衆や青少年には、真に必要なことを何も教えるな。必要がないバカのようなことだけを毎日毎日教えろ。それで競争させろ。笑わせろ。ものを考えられなくさせろ。真に必要なことは、大衆と青少年を操るものだけが知っていればいい。

そしてあとは、”国家のため!”と何千回も呼びかけて、戦わせ殺し合わせるのだ。1人の人間を殺せば殺人犯だが、戦争で100万人を1度に殺せば、その男は必ず国家から最高の勲章をもらえるぞ。

このヒトラーの政策上の言葉が「ヒトラーの法則」あるいは「ヒトラー地獄の法則」と呼ばれたようである。

いやはや、この「ヒトラーの法則」は、今まさに世界中の国々、それも先進国で行われていることである。「どうでもいい、バカなこと」に「アニメ」や「映画」や「CG」や「マンガ」や「カラオケ」などが加わっただけのことである。

日本の在日電通、アメリカのハリウッド、こういう場所でやっていることがすべて「ヒトラーの法則」である。

はたしてこのアイデアもまた「あいつ」が教えたのだろうか? あるいは、ヒトラーを裏からコントロールさせたというイギリスのロスチャイルドの手による一種のマインドコントロールのせいなのだろうか?

おそらく、これについては、後者だろうと私は見ている。これはユダヤ人の「シオン議定書」とか「ロスチャイルドの行動計画プロトコル」とか、ジョン・コールマン博士の見つけたユダヤ人の「人類牧場化計画」とか、そういった数々のものにある基本的な考え方と同一だからである。ヒトラー自身がロスチャイルドの子孫だったという説もあるほどだから、特に驚くことはないだろう。

しかしながら、日本では、小泉純一郎時代になって、あからさまに「ヒトラーの法則」と同じような方法で選挙戦略を練ってきたのだからこれには恐れ入る。いわゆる「B層戦略」というものである。民主党の鳩山/小沢政権、そして今の菅直人政権もまったく同様である。そしてアメリカの「3S戦略」も同じである。「セックス、スクリーン、スポーツ」だけを国民に与えて、アメリカ人を馬鹿者の豚野郎にしてしまったというユダヤ戦略である。

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ワクチンを打った。さあ安全だ

「thinker blog」から転載。
久し振りに子宮頸がんワクチンの話だが、まだ性行為などしてはいけない年齢の少女たちに、性行為を前提とするワクチン接種を義務付けることにも疑問があるし、そもそもそのワクチンは子宮頸がん対策に有効であるどころか体にとっては明らかに有害である。だが、その話はネットで調べればいくらでも出てくるから、今さらここでは言わない。今考えるべきことは、このワクチン接種の義務化・強制化からいかにして国民が逃れるか、ということである。
今の時代、アメリカのどの地方自治体も財政的に余裕のあるところなど無い。にも関わらず、ワクチンの「無料接種」を行う、というのは要するに税金から支払うということだ。こういう不要不急の題目に、乏しい財政から優先的に支出する意味がどこにあるのか。まあ、誰でも分かるように、これは企業と政治の癒着による金儲けに住民の税金が使われるということだ。しかも、その結果、住民に健康被害が出ても、企業が責任を問われることはない。そのように法律が作られているのである。
下記記事はアメリカの話だが、ワクチンの「半強制接種」は日本のあちこちですでに行われている。馬鹿な母親たちは、お上の言いつけだからと、まだ子供でしかない自分の娘たちにいそいそと「性交前提のワクチン」を接種させているのである。そうですか、ワクチンを接種したからもう大丈夫、どんどん性交しなさい、と言うわけですな。しかし、ワクチンでは性病は防げません。梅毒、淋病、エイズ、妊娠、の危険性のほうが、「子宮頸がん」よりははるかに起こる確率は高いのです。


(以下引用)

NVIC(ナショナル・ワクチン・インフォメーション・センター)の代表バーバラ・
フィッシャーさんは、NVICのHPでこう警告しています。

「すべての母親の子に対する思いは、どの国の法律や価値観や信条よりも深く、
本能に刻み込まれたものです。

ワクチンとワクチン政策は、実際に国民全体や個人を健康に保つような安全で
効果的なものなのでしょうか。21世紀のワクチンに関する議論は、純粋に科学
に基づいたものではありません。

医療製薬業界のロビイスト達によって、カリフォルニア州では親の承諾なしに子
供たちにワクチンを接種できる法律の制定が裏で急速に進められています。

もし、この法律が制定されれば、ガーダシルとB型肝炎ワクチン、また将来に開
発される性感染症ワクチンが、保護者への説明と同意を得ることなく12歳以上
の児童に接種されることになります。これらの接種にかかる費用はカリフォルニ
ア州政府の負担となり、その利益の大半は、ガーダシルを製造するメルク社など
の大手製薬企業の手に渡ります。その上、彼らはワクチンの副反応の責任を負う
こともありません。

これは、全米の親への警鐘です。カリフォルリニア州で起きていることは、他の
州でも起こり得ることです。ワクチンについての説明を受ける権利、接種を選択
する権利のために立ち上がってください。」

ワクチンがある程度、危険でも実際に効果があるのであればそれなりの正当性も
あります。

しかし、そもそも子宮頸がん予防ワクチンが予防するとされているのは子宮頸がん
になる前の前駆病変。

精神科医の遠山高史氏の著書『医者が薦める不養生』の中にこうあります。

「癌の中で取り扱いが容易とされる子宮頸癌は早期の癌と診断されると、通常はことごとく手術となってしまう。取ってなくなってしまうので、早期の癌に自然消滅があるなどと確かめられない。集団検診によって、子宮頸部の上皮内癌(早期の癌)と診断されながら、治療を受けなかった女性を、20年間追跡したニュージーランドの疫学調査がある。このような女性750人のうち、子宮頸癌となった者は、10人(1.3%)しかいなかった。しかも、検診で見つけられた上皮内癌から本当の癌に進展したと認められたのは2例しかなく、他は、当初の上皮内癌とは関係なく起こったものと考えられたという。むろん、ニュージーランドの疫学調査を100%うのみにはできないにしても、日本の癌学者がこの論文を否定しうる根拠を示し得ないことは確かなのである。従って、日本の癌医学は定量的に未来の予測をなし得ておらず、科学とはまだいえる段階に達していない」
 
ワクチンが予防するとされる前駆病変(早期の子宮頸がん)が実際に子宮頸がん
に進行するという科学的証拠がないにもかかわらず、「子宮頸がん予防ワクチン」
と称した商品を公費助成で児童に接種することについて、我々は疑問を持った方が
よいでしょう。

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嫉妬や憎悪という負のエネルギー

神秘思想家KAYさんのブログから転載。
一部の人間の貯めこんだ金の負のエネルギーが日本にさまざまな災厄を及ぼしている、というか、一部の人間の独占のために金を得られない人々の恨みや苦しみが日本を暗黒にしている、という感じである。
金などというものは使わないと意味のないものであり、また、金は社会の血液であるから、一か所に滞留させてはならないものなのである。
日銀が紙幣大増刷を行って、それを政府が日本の貧困家庭にどんと与えれば、日本全体がすぐにも明るくなるのだが、「他人にただで金をやる」ということがどうしてもいやだという人間もまた多い。

嫉妬や憎悪という負のエネルギーは誰の心にもあるもので、他人が自分より幸せになると誰しも不愉快な気分になるものだ。その一方で、いやな他人の不幸は、これほど気分のよいものはない。これが普通の人間の心である。自分が幸せになれなくてもいいから、他人が不幸になるのを見ていたい、とすら思うほどだ。それほどに嫉妬という感情は強烈だ。
特に分不相応な利益を得ている人間は他人の憎悪を集めやすい。東電の清水社長なども、ああいう事故がなければ普通の「偉い人」で一生を終えることができただろう。
東電や原子力関係者は、今は誰もが安心して悪口が言える相手になっているが、それは彼らのこれまでの「分不相応な利益」に対する世間の憎悪のせいである。言いかえれば、嫉妬によるものだ。そういう他人の憎悪を一身に浴びて生きるという点では、社会の上のクラスに生きることは、精神衛生的にはあまり良いことでもない。他人の憎悪を受けないためには、その仕事や活動が他人のためになっている、ということが必要なのである。


(以下引用)


歌手の桑田佳祐さんが、食道癌の手術後、テレビで、「僕の何が間違っていたのかなあと思った」と言っていたのが印象的だった。
思い出すのは、何年も前だが、彼が、歌手活動を引退し、資産管理をするとかいう話が報道されたことだ。芸能関連の報道など信じるべきところは全くないが、何十年も成功し続けて、膨大な資産を作ったのは確かだろうし、資産管理も大変だろう。
金持ちというのは、まるで、その溜め込んだ金を使わされるように、大病になったり、大きなトラブルに巻き込まれるもののように思う。お金というのは、一種のエネルギーだと言う人はよくいる。そして、エネルギーは循環すべきもので、溜め込まれて死蔵されると、開放されようとして、持ち主に作用するらしい。それが病気や、金のかかるトラブルであるように感じられるのだ。
誰だったか忘れたが、有名雑誌でインタビューを受けていたのだから有名な人なのだろうし、役者か何かだと思うが、彼が、「僕は、金持ってるように思われるが、50歳にもなって、貯金は百万もないですよ」とあっけらかんと語っていたのをよく憶えている。しかし、彼は別に不足しているようでもなく、見栄を張っているのでもないのに金持ちに見え、健康で活躍しているのである。要は、彼の生き方が良いので、そういったインタビューを受けていたのだろう。

アメリカのユニティ教会の創始者であるチャールズ・フィルモアの思想を、谷口雅治さんが説いた『無限供給の鍵』という本で、「人は、今日必要なもの以外は一切いらない」と強調されていた。そして、金を溜め込んで死蔵させることは非常に悪いことであるという。なぜなら、常に必要を満たしてくれる創造主を信頼していないことの表れだからである。
昔、沢村忠という超人的なキックボクサーがいたが、野球の王、長嶋や、大相撲の大鵬らと肩を並べるスターで、実際、三冠王だった王貞治を差し置き、プロスポーツ大賞を取ったりしていた。この沢村が、宵越しの金を持たない人で、仲間と楽しく過ごすのに使ってしまう人だったらしい。しかし、ホテルや旅館で、当然ながら良い部屋を用意されるのだが、そんなものは誰かと換わってしまい、若い人達と大部屋で過ごすといったように、自分個人のためには金を使わない人でもあった。彼は、引退してからは、キックボクシング界と一切関わりを持たなかったので、現役時代のダメージで廃人になっただのというデマが流れたが、一から自動車整備工の修行をして、油まみれになって働く傍ら、武道家としての修行は続け、いつまでも現役選手のような身体を保っていた。

日本は千兆円近い負債を抱え、破産状態の国である。一方、国民は資産を溜め込み、国民総資産は3千兆とも4千兆とも言われ、金融資産だけでも1千兆をはるかに超えると言われる。この死蔵されたエネルギーが日本を揺さぶっているのが、いろいろな形で現れてきているようにも感じられるのである。

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F1はカーレースだけでいい

料理研究家若杉友子さんのインタビューから転載。74歳の元気なおばあちゃんらしい。日の丸弁当こそ健康にいい、という主張もしていて、明治以来の食生活の欧米化が日本人を不健康にしてきた、と述べている。
下記インタビューに書かれているF1種の野菜の件は、日本の食糧安保の面でその危険性が語られることが多かったが、栄養面での危険性についての発言は初めて聞いた。まあ、ただの直観的発言だろうが、たしかに、一株から在来種の何十倍もの実が取れるなら、その栄養分も何十分の一になっていると考えるのは自然だ。
また、塩分の採り過ぎも気にすることはない、というのは、高血圧でありながら塩辛い物が好きな私としては大いに喜ばしい発言だ。そもそも、高血圧の原因など、実は医者でも本当は分かっていないのではないか、と私は疑っている。また、どれくらいからが高血圧で、どれくらいまでなら許容範囲か、ということも年齢相応の変動があるだろう。
私は、常識というものをほとんど信じない人間だが、事が自分自身に関係してくると、つい常識的発言に気弱に従ってしまいそうになる。
もちろん、若杉さんの言葉を信じるかどうかは個々人の自己責任である。しかし私は、専門家の言葉だから信じるとか、素人の意見だから馬鹿にする、という人間のほうが馬鹿だと思っている。専門家の大半は、「専門的常識」を詰め込んだだけの馬鹿であり、その常識なるものは愚民支配や商売の都合のために仕組まれた常識も無数にあるのである。


(以下「JBプレス」より引用)

「また、明治時代の人で食養の元祖と言われる石塚左玄という人がいます。明治維新で日本の食文化が大きく崩れ、日本人の健康が害されることを懸念して『食物養生法』という食物と人間の体の関係を深く研究した人です」
 「その石塚左玄によると食養には次の5原則があります」
食養の5原則とは
(1)食物が健康と幸福の基礎である
(2)ナトリウムとカリウム、陰と陽の2つの拮抗が基本的要素
(3)穀物が人間の一番正しい主食である
(4)一物全体(食物を丸ごといただくの意)の完全な調和のあるものでなければならない
(5)身土不二、三里四方に採れるものがよい
 「石塚左玄は『食育』という言葉を最初に使った人でもあります。また、『食養道歌』というものをつくっています。その中に、春苦味、夏酢の物、秋カラミ、冬は油と合点して食えというのがあります」
 「夏の暑いときは陽性の臓器である肝臓がますます強くなる。だから陰性の食物である酢の物を食べて調和を取りなさいという教えです。このように食べ物の陰と陽は常に意識していないと体に良いと思っていたのに、全く逆ということもあるんです」
若林さんはお塩の効用についても強調されています。しかし、日本ではお医者さんの指導で高血圧予防のためにお塩をできるだけ控えるように指導されています。お塩を取って大丈夫なのですか。
体に十分な塩分がないと病気になりやすい
 「塩梅(あんばい)という言葉があるでしょう。人の体を気遣うときに使いますね。お体の塩梅はどうですか、と。人間にとって塩気のバランスがとても大事なことを言っています。最近、日本人で腑抜けの人が増えているでしょう。みんな塩気が足りないんですよ」
 「お塩をちゃんと取らないと体温が上がらないんです。だから最近の若い人たちには冷え性や貧血、便秘症が増えているんです。そして気持ちも暗くなって覇気がなくなってしまうんですよ」
 「昔の人は1日に30グラムほどお塩をとっていました。陰陽で言えば、塩気を持っている陽性の魚にも陽性であるお塩を振って、それを陽性の火で焼いて陽性の醤油をかけて食べていた。みんな陽性だから、それを食べている人は元気だったんですよ」
 「貧乏人の子沢山という言葉もあるでしょう。たとえ貧乏でもみんな明るく元気で、今の男性のように精子が少ないなんていうことがなかったから元気な子供がいっぱい生まれた。人間の元気の源がお塩であることを再認識すべきだと思いますよ」
 でも、そんなにお塩をとったらやっぱり高血圧が心配でしょう。
高血圧は塩分ではなく肉食に起因する
『体温を上げる料理教室』(致知出版、若杉友子著)
 「高血圧になるのは、お肉を食べ過ぎるからなのよ。お肉をいっぱい食べるとその副作用として甘いものが欲しくなる。これがいけないんですよ」
 「お塩をたっぷり使った味噌や醤油、梅干には体温を上げ、新陳代謝を活発にする作用があります。また造血作用もあるから人間を元気にするんです。高血圧が塩分のせいというのは間違いなのよ」
 「それからこれは大切なんだけど、日本で作られている野菜など多くの食物はその種がF1と呼ばれるもので、1代限りの種になっています。こういう種からは非常にたくさんの野菜や果物が取れます」
 「例えばピーマンなんか1本の苗から300~400個も採れるの。しかし、日本の在来種のピーマンの種から作った苗からはせいぜい数十個しか採れません。工業化された野菜を食べるのは体に良いわけがありません」

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ITのもたらす雇用減少を防ぐには

IT革命が雇用を減少させたということを理解している人も増えてきたが、では、どうすればITが社会全体にとって有益なものになるかについて論じた人はほとんどいない。それをこれから考えてみよう。
ITは確かに業務の効率化に役立つ。しかし、効率化とは、たとえばこれまで五人でやっていたことが二人でできる、というようなことだ。それが効率化の意味である。具体的に言えば、これまで事務員や秘書がやっていた仕事を、パソコンを使って事務員や秘書以外の人がやるというようなことだ。そうすれば、大体の企業では事務員や秘書を首にするだろう。そして残った人間の仕事は増える。それが効率化なのだから、効率化とは、いわば個々の被雇用者に対する労働強化がなされ、経営者や企業幹部の得る分の金が増えることである。つまり、IT革命は被雇用者の平均所得を減少させているわけだ。ITはもっと良い方向に使えないものなのかどうか、それを考察してみよう。
下記記事では、中小企業同士の連携、というアイデアを打ち出しているが、はたしてどの程度の可能性があるだろうか。また、それはITを前提とすることが条件なのだろうか。
いったん、下記記事を読んでもらった後で、ITによって社会を良い方向に変える道を模索してみたい。


(以下「JBプレス」から引用)

その場合、どのように内需を拡大させるかの戦略が正否のカギを握る。需要を減退させている原因は、団塊世代の引退というような人口動態による要因もあるが、IT革命が浸透する中で構造的に需要が失われていることにも着目する必要がある。
 IT化の波に抗うことはできない。だとすれば、その構造を逆手に取ってITを最大限に利用しながら需要を拡大させなければならない。
 実はITには面白い性質がある。大企業のようなピラミッド組織でIT化が進むと、効率がどんどん良くなって非雇用圧力が高まる。しかし、中小企業同士が連携するようなケースを考えると、それまでなかった発想が生まれ新しいニーズを生み出す。
 進みすぎた東京一極集中から脱し豊かで特色のある地方を作るという日本が抱えている大きな課題に異論を唱える人は少ないと思う。中央集権的な日本の構造を地方分権に変えた時、IT化は需要創造という意味で強い武器となる。自立分散型のシステムと相性が良いのである。

 消費地と産地が結びついて、消費者の声が産地にきめ細かく届くことで今までの農業の形が大きく変わるかもしれない。北海道と九州の中小企業が連携して新しいビジネスが始まるかもしれない。

(引用終わり)

実際、上の記事で書いてある「消費地と産地を結びつける」ことに近いビジネスは始まっている。その仕事を総括的に言えば、「オンデマンド・ビジネス」である。つまり、これまでのように店舗に商品を並べて、客が買うのを待つのではなく、客の注文に即座に応えるビジネスだ。デスクトップ・パブリッシングなどもその一つである。たとえば、絶版になった過去の漫画作品を、注文に応じて、即座に製本する、というような事は可能である。もちろん、美しい製本はできないにしても、その作品本体だけが欲しい、もっと言えば、その作品を読むという経験だけが欲しいという人間にとっては、それで十分なのである。
まだビジネス化されていないが、音楽などでもそれは可能だろう。たとえば、CD化されていない演奏を試聴して、気に入れば、それをその場でCD化するという商売だ。著作権の対象外であるクラシックの楽曲ならば、それも容易だろう。ただし、演奏家の著作権という問題もあるが。
別の形態のITビジネスを考えてみよう。
たとえば、前記記事に書いてある中小企業同士の連携や、産地と消費地の連携である。もちろん、連携することは簡単だし、それをビジネス化しようとして動いている向きもあるだろう。しかし、それによってどのような結実が得られるかというと、これはまだはっきりしない。多くの新興産業の例にもれず、期待感ばかりが先走って、ブームが終わった後は死屍累々という結果にならないとも限らない。つまり、連携すればいい結果が出る、というのはただの希望的観測でしかないのである。
上記記事では、消費者の希望が生産者に届くことで、生産内容が変わる可能性がある、と言っているが、消費者の意向を考えない生産者はほとんど存在しないだろう。なのに消費者の声を生産者が無視するのは、その声がナンセンスであるか生産者にとってマイナスになるからである。
たとえば、農薬を使わない農作物が欲しい、と言うので無農薬野菜を作る。すると、虫に食われた跡のある野菜は買わない、ということになって、作った農家は大損をするわけだ。消費者の声など、そんなものだろう。
では、中小企業同士の連携はどうか。
これには、IT云々は別として、或る可能性がある、と思う。たとえば、トヨタ傘下の下請け企業がトヨタと手を切り、新しい会社を立ち上げるわけだ。トヨタはもともと生産のほとんどを下請けに依存していたのだから、下請け会社連合がトヨタ本社と無関係に自動車を作ることはできるはずだ。そうすれば、これまでトヨタ本社に利益の大半を吸い上げられていた下請け会社連合は、利益のほとんどを自分たちの手に入れることができる。まあ、そういうことができないように契約関係や法律で雁字搦めになっているのだろうが、原理としては可能である。
これはあらゆる分野で言えることで、生産的存在と寄生的存在のうち寄生的存在が利益の大半を収奪しているというのが現代社会の特質である。ソニーのストリンガー会長など存在しなくてもソニーという会社にはまったく影響はないだろう。しかし、彼に10億円近い年俸が支払われているのである。東電幹部や原発関連の天下り団体への膨大な出費は、多くの人が知るところだ。そういう「社会全体の合理化」は必要だろうが、それはITとは無関係な話である。
話が逸れたので、もう一度、ITを社会発展に生かす方法を考えてみる。
ITの持つ特性は、膨大なデータを一瞬で処理できることである。ただし、その処理を指示するのはやはり人間であり、その人間のIT操作能力の有能性に応じてITの利用可能性は天地ほどの開きが出てくる。
データ処理が業務の主要部分である仕事においては、ITは今後飛躍的な活用が見込める。たとえば、裁判や医療である。法律知識や医療知識をいくら覚えても、記憶量と記憶の正確さではコンピュータにはかなうはずがない。したがって、覚える部分はパソコンに任せ、現実問題とのコネクトだけを人間が行うことにこれからはなるだろう。いや、現実に、一部ではすでにそうなっているのではないか? 
最近の裁判官は裁判にパソコンを持ち込み、裁判の間、ずっとパソコンを打ち、パソコンを見ているらしい。それは、法律条文や判例を現実の事件と照合しているのだろう。つまり、司法試験に合格した後では、自分の頭の中に法律知識を残す必要もあまりないわけだ。データの記憶に関しては、パソコンが頭脳の代わりをしてくれるのだから。
もっと極端に言えば、素人でも、必要情報範囲を知っていれば、後はパソコンにその情報を打ち込んで、答えを得ることができるようになるだろう。
医療を例に取れば、症例確認フォーマットに従って、幾つかの病症をパソコンに打ち込めば、それらの病症が発現する可能性のある病名が検索される。そこで、さらに精細なデータを打ち込んで、病名を確定する。その上で、病院とコネクトし、医者がそのデータと結論を確認してOKとなれば、治療が開始されるわけである。
つまり、患者が自分の状況を完全に把握した医療が行われることになる。
もちろん、そんな面倒なことはいやだ、というのなら、これまで通りに医者にすべてをお任せの医療を受ければいいだけのことである。
インターネットを通じて膨大な情報倉庫にアクセスできるのであるから、現代の人間は中学までの教育を終えれば、後は自己教育で何の勉強でもできる。これまでのように、知識の独占や権威付けによって専門家が飯を食うと言う時代ではなくなる。全員がアマチュアで全員が専門家という時代になる。ある意味では近代以前に逆戻りである。

法律なども、その主な仕事は検索である。つまり、現実の事件を法律と判例に照合する、というのが主な仕事内容だ。これこそ、まさしくロボット的仕事であり、「裁判などはコンピュータに任せておけ」と言いたいくらいである。そのほうが冤罪も捻じ曲げも国策裁判もなくなるだろうし、裁判処理期間は圧倒的に短くなるはずだ。私が被告の立場なら、人間の裁判官よりもコンピュータの裁判官に任せたい。

もう少し庶民生活に密着したIT利用を考えてみる。
ITの特長は「文書化」にある、というのが私の考えである。もちろん、文書には絵図やグラフなども含める。つまり、テレビやラジオのような一方通行のメディアや、電話のような音声だけの情報機器とは異なり、ITは文書や絵図が即座にでき、かつ双方向性の伝達対象になったというのが画期的なところである。
「文書化」が容易になったというだけでも、革命的な進歩である。文書が簡単に書ける、その恩恵は計り知れない。子供がワープロ打ちを学べば、パソコンで文書を書くことで、膨大な語彙を覚える道が開ける。書いた言葉が即座に漢字に変換されるのだから、それを見て漢字を覚えていくし、あやふやな知識は即座に辞書機能を使って確認できる。また国語辞典に載らない言葉でもインターネットで調べることができる。毒男はブスな男ではなく独身男だとか、鬼女は鬼のような女性ではなく、既婚女性だとかは、国語辞典では調べられない。
つまり、パソコンが一台あれば、その気になれば、自分自身の頭脳のデータバンクをどこまでも拡大できるのである。
そういう「教育手段としてのパソコン」が、ITの利点の第一点である。
次に、「娯楽手段としてのパソコン」が第二点。これは説明不要だろう。
では、「生産手段としてのパソコン」あるいは「経済発展手段としてのパソコン」はどうか。
パソコンが生産手段になるのは、芸術創造の分野に限定されるのではないか、と私は思っている。そして「経済発展手段としてのパソコン(IT)」に関しては、むしろその使用による合理化や効率化は雇用減少と経済縮小につながることが多い、というのが前半で私が述べたことだ。
もちろん、創造性というものは芸術分野だけには限定されない。商業芸術というものもある。また、学術研究でパソコンが活躍することは可能だし、その結果が実業に反映されることもあるだろう。
これまではITが企業合理化にのみ用いられ、それが雇用減少と経済縮小の一大原因になってきた。その合理化が限界に来たら、今度はITが企業活動でも創造的に使われる段階が来るのではないだろうか。
しかし、具体的には? となると、残念ながら、私はその答えは持ち合わせていない。現実生活で我々が必要としているもの、いわゆる「衣食住」は、ITとはほとんど無関係なのである。特に農業や水産業などの第一次産業では、ITはお役所などが装飾的に使用するだけだろう。ITとは人間で言えば頭脳や神経組織である。頭脳や神経だけが発達した人間というものは、あまり健全なものではない。ITはあくまで頭脳補助、神経補助の道具である、という姿勢が社会全体を健全に保つのではないかと思われる。

こう考えてくると、ITが社会を(精神面は別として)豊かにするということにはなりそうもない。なぜなら、ITは効率化を推進するものであり、効率化=人件費削減という等式が根本に動かしがたくあるからだ。しかし、見方を変えると、それは労働がどんどん不要になる、ということでもある。つまり、「働かなくてもいい」のだ。たとえば、これまで8時間労働だったものを、6時間労働にすればいいわけだ。これからの社会は6時間労働を原則とするようにすればいい。もちろん、それで同じ賃金を払うことは雇用者側が拒否するだろう。会社側は6時間労働に対しては、6時間分を払えばいい。労働者個々の所得は減少するが、雇用は守られる。何なら、4時間労働にしてもいいだろう。
まあ、今述べたのは現段階では机上の空論であるが、未来社会においては4時間労働が当たり前になっている、と私は想像している。つまり、機械化やIT化によって、生産に必要な労働はどんどん少なくなっていくからである。問題は、今の社会システムでは、機械化やIT化の進展が失業につながっていることなのだ。
しかし、合理化=必要労働減少ととらえれば、そこで「不要人員解雇」とせず、むしろ「労働時間短縮」と「人員増加」でまかなう方法もあるのだ。要するに、8時間労働の人間3人は6時間労働の人間4人に等しいし、4時間労働の人間6人に等しい。合理化と共に失業者を増やすのではなく、むしろ雇用を促進することも可能なのである。こうして雇用を促進した企業には税制上の恩恵を与えることで、国全体の失業率を下げていけるだろう。失業者数が減れば、政府が失業手当に出す金も減り、企業に与えた税制上の優遇分の金はすぐにカバーされる。
問題は、利益追求が至上命題である企業は、5人でやっていた仕事が4人でできるなら、当然、1人を首にする、という方向でしか動かないことである。これが先進国における失業率激増の根本理由だ。
このベクトルを変えるには、企業に対し、雇用促進のインセンティブを与えねばならない。それが国家のやるべきことなのである。それはプラスのインセンティブ(賞)でも、マイナスのインセンティブ(罰)でも、どちらでもいい。それができるのは、国家なのである。新自由主義経済の「レッセ・フェール(自由放任)」のままでは、ほとんどすべての労働者は過酷な労働と低賃金への道を進んでいくしかないのである。

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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
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