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ガザで盲いて

「福音の史的展開」というサイトから転載。
パウロ(サウロ)が「ガザで盲(めし)いた」状況である。
で、私は、これはパウロの作り話で、パウロは自らキリスト教の内部に入って、それを変質させようとした「思想スパイ」だったと思っている。
その後のパウロが土台を作ったカソリック教会の「キリスト教」が本来のイエスの教えとはかけ離れた、「人民支配の道具」になっていくのは誰でも知っているだろう。
さて、ガザはカソリックにとって聖地だと思うのだが、今のガザでの「ユダヤによる他民族虐殺」について、ローマ法王やカソリック関係者、あるいはキリスト教関係者は何か発言しているだろうか。



(以下引用)

  第二節  パウロの回心とアンティオキア共同体の成立


はじめに

 前節で、エルサレムに成立したユダヤ人たちのキリスト信仰の共同体が、使用言語の違いからアラム語系ユダヤ人の共同体とギリシア語系ユダヤ人の共同体に別れたことを見ました。エルサレム共同体はもともと、ガリラヤでイエスの弟子であった「十二人」の使徒たちの福音告知によって成立した共同体であり、「十二人」が代表するアラム語を用いるパレスチナ・ユダヤ人の信仰共同体でした。その共同体にエルサレム在住のギリシア語系ユダヤ人が加わったことによって、エルサレム共同体の福音活動に重大な変化が生じます。ギリシア語系ユダヤ人のグループは、「十二人」の承認の下に「七人」の代表者を立て、周囲のギリシア語系ユダヤ人の間で活発な福音告知の活動を始めます。そのとき、彼らのディアスポラ・ユダヤ人としての体質から、神殿での祭儀や伝統的な律法順守に対して批判的な言動がなされ、それに反発する周囲の律法熱心なギリシア語系ユダヤ人との間に激しい論争が起こり、彼らの代表者であるステファノが石打で殺されるという事件が起こります。今回は、この事件から引き起こされた結果をたどることになります。


  Ⅰ パウロの回心

迫害者サウロ

 ギリシア語系ユダヤ人の間に起こった激しい論争で、ステファノグループを迫害する側の先頭に立ったのは、同じくギリシア語系ユダヤ人の会堂で指導的な立場にいた年若い新進気鋭のファリサイ派律法学者サウロでした。サウロは、ステファノが会堂の衆議所に引き立てられたとき、彼の石打の処刑に賛成し(八・一)、石打が行われたときには、最初に石を投げる証人の上着を預かるなど立会人を務め、積極的にステファノの石打に参加しています(七・五八)。それだけでなく、彼はその後もイエスをメシアと言い表す信者を探索し、見つけ出せば会堂の衆議所に送り、審問にかけるという活動を続けます。ルカは彼の弾圧活動を、「サウロは家から家へと押し入って《エクレーシア》を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた」と記述しています(八・三)。


 この迫害の急先鋒となったサウロこそ、後にイエスの僕となり、イエスをキリストとして世界の諸民族に告げ知らせる偉大な使徒となったパウロに他なりません。どうしてこのようなことが起こったのか、それは何を意味するのかを理解するために、ここで迫害者として現れたサウロとはどういう人物であったのかを見ておきましょう。


 サウロは、キリキア州の州都タルソス出身のディアスポラ・ユダヤ人です。サウロの両親は、タルソス在住の敬虔なユダヤ教徒であり、サウロが生まれたとき、八日目に割礼を施し、自分たちが所属するベニヤミン族の英雄サウル王にちなんで「サウロ」と名付けました(フィリピ三・五)。ヘレニズム都市に住むディアスポラ・ユダヤ人の通例として、「サウロ」というユダヤ名の他に、「パウロ」というギリシア語の名前も用いていました。このように二つの名前を持ち、ギリシア文化の中でギリシア語を母語として育ちながら、ユダヤ教の伝統に従って教育を受けるという二重性が、後のパウロを形成することになります。


 サウロの父親は、キリキア特産の天幕布織りを職業としていました。父親はサウロをラビ(ユダヤ教の教師、律法学者)にしようと願ったのでしょう、幼いときからその職業を教え込みました。当時ラビは、無報酬で教えることができるために手仕事を習得することが求められていました。後にこの技術がパウロの独立伝道活動を支えることになります(一八・三)。


 サウロが生まれ育ったタルソスは、当時のヘレニズム世界で有数の文化都市であり、ギリシア文化の学芸が盛んな都市でした。ギリシア語を母語として育ち、ギリシア語を用いる初等の学校で教育を受けたサウロは、当時のギリシア思想文化を深く身に染みこませていたと考えられます。しかし、厳格なユダヤ教徒の家庭に育ったからでしょうか、ギリシア哲学とか文学・演劇などに深入りした形跡はないようです。


 サウロは青年期にエルサレムに行って、そこで律法を学びます。何歳の時にエルサレムに渡ったのかは確認できません。パウロは後に自分がファリサイ派であることを明言していますが(フィリピ三・五)、当時のエルサレムで指導的なファリサイ派のラビはガマリエルでしたから、自分はガマリエルの門下で律法の研鑽に励んだという、ルカが伝えるパウロの証言(二二・三)は十分信頼できます。七〇年以前のユダヤ教で、ファリサイ派ラビの律法教育がエルサレム以外の地で行われることはありませんでした。ガマリエルはヒレルの弟子で、二〇年から五〇年の頃活躍したファリサイ派を代表するラビです。従って、三三年頃に舞台に登場するサウロが、それまでガマリエル門下で学んでいたことは十分ありうることです。


 ガマリエルの下で律法(ユダヤ教)の研鑽に励み、その実践に精進した時代のことを、後にパウロは「わたしは先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年頃の多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました」と語っています(ガラテヤ一・一四)。このガマリエル門下での律法の研鑽によって、聖書の言語であるヘブライ語を十分に習得し、また、長年のエルサレム在住によりその日常語であるアラム語も使えるようになっていたことは、十分に推察できます。


 しかし、ギリシア語を母語とするギリシア語系ユダヤ人として、ギリシア語系ユダヤ人の会堂に所属し、そこで律法(聖書)の教師として働き、聖都に巡礼したり在住するようになったディアスポラ・ユダヤ人に聖書を教え、また、ユダヤ教にひかれて聖書を学ぼうとする異邦人に律法(ユダヤ教)を講じ、彼らが割礼を受けてユダヤ教に改宗するように導く働きをしたと考えられます。後にパウロはこの活動を「割礼を宣べ伝える」と表現しています(ガラテヤ五・一一)。


 このようにギリシア語系ユダヤ人会堂で責任ある立場にいたサウロは、イエスをメシアと言い表すギリシア語系ユダヤ人たちが、モーセ律法や神殿祭儀に批判的な言動をするのを見過ごすことはできませんでした。サウロは、イエスと同時代のエルサレム在住のユダヤ人として、イエスがエルサレムの最高法院で裁判を受け、ローマ総督に引き渡されて十字架刑により処刑された事実はよく知っていたはずです。それを目撃したり、その過程にかかわった可能性も十分あります。その後、数人のガリラヤ人によりイエスをメシアと宣べ伝える運動が始まったとき、それがユダヤ教の枠内で行われている限りは、師のガマリエルと同じく、ことの成り行きに委ねることができました。しかし、一部のギリシア語系ユダヤ人がその信仰のゆえに律法(ユダヤ教)そのものをないがしろにするような言動を示したとき、黙って見過ごすことはできませんでした。先にステファノの殉教のところで見たように、サウロは迫害者として舞台に登場します。

  •   迫害者として舞台に登場するまでのサウロと彼の迫害活動について詳しくは、拙著『パウロによるキリストの福音Ⅰ』43頁以下の「ユダヤ教時代のパウロ」と「迫害者パウロ」の両節を参照してください。なお、そこでステファノの殉教を「リンチ事件」としていることは訂正しなければなりません。先に見たように、ステファノの石打は、民衆の激高によるリンチ事件としての様相も見せていますが、やはり(最高法院ではありませんが)会堂の衆議所の審問と判決を経た処刑と見なければなりません。

 

復活者イエスとの遭遇

 さらにルカは、「さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった」と報告しています(九・一~二)。サウロは、エルサレムだけでなくダマスコの諸会堂にも探索の手を伸ばします。ダマスコにも「この道に従う者」、すなわちイエスをメシアと言い表すユダヤ教徒がいることが報告されてきたからです。この時ダマスコにいたエスを信じる者たちとは、エルサレムでの迫害を逃れてダマスコに行った人たちを指すのか、その時までにダマスコにも信じる者たちの共同体が成立していたのか、確認は困難です。しかし、サウロを迎え入れた後のアナニアを中心とする彼らの活動を見ますと、この時までにかなりの規模の信者の共同体が存在していたと見る方が順当でしょう。


 そうすると、ダマスコの共同体《エクレーシア》はどのような経過で成立したのかが問題になります。まだエルサレムのギリシア語系ユダヤ人の福音活動はダマスコには及んでいません。エルサレムの会堂との密接な交流によって、メシア・イエスの信仰が伝えられたのか、地理的に近いガリラヤからの伝道活動で信じる者の共同体が形成されたのか、詳しいことは分かりません。ガリラヤからの影響の可能性が高いと考えられますが、ガリラヤでの信仰運動の実態が分からないので、確定的なことは言えません。


 とにかく、ダマスコの諸会堂がこの新しい信仰によって動揺することを恐れたエルサレムのギリシア語系の諸会堂は、迫害の先鋒を担うサウロをダマスコに派遣します。サウロは大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての添書を求めます。他の地域の諸会堂で逮捕連行のような検察官の任務を行うのですから、ユダヤ教の最高機関の承認と任命によることを示す必要があります。おそらく、逮捕連行するための神殿警察隊も同行したと考えられます。ルカは、サウロの迫害行為が大祭司や祭司長たちの承認による行動であることを、繰り返し強調しています(九・一四、二二・五、二六・一〇と一二)。こうして、エルサレムのギリシア語系ユダヤ人の会堂で始まった迫害は、最高法院の権限による広い地域での迫害に拡大します。
 「ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らし」ます(九・三)。それは真昼ごろであり、その昼の光よりも強い光が天から一行を照らします(二二・六参照)。この光は神の栄光の光であり、真昼の太陽の光をもしのぐ強烈な明るさで一行を(照らすというより)打ちます。


 「サウロは地に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と呼びかける声を聞」きます(九・四)。その光は自然の光ではなく、人格から発する光であることが、その光がサウロの名を呼んで語りかけることから分かります。この語りかけは、「サウロ」というヘブライ名を使っていることから、ヘブライ語(またはアラム語)でなされたことが分かります(二六・一四参照)。

  •  新共同訳はこの呼びかけを「サウル」としています。これはギリシア語で、《サウロス》(日本語表記ではサウロ)という人に呼びかけるときの形(呼格)が《サウル》だからです。呼格がない日本語への訳では、「サウロ」のままでよいのではないかと考えられます。

 サウロはこの光に打たれて地に倒れたとき、自分の前に一人の人格が迫っていることを感じます。しかし、それが誰であるか分かりません。サウロに強烈な光として現れた人格は、「なぜ、わたしを迫害するのか」と迫り、サウロがまさに迫害してきた相手であることを告げます。サウロは思わず、「主よ、あなたはどなたですか」と訊ねます。すると答えが来ます、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」。(九・五)
 この強烈な光として現れた人格は、復活されたイエスだったのです。復活者イエスが、神の栄光の強烈な輝きをまとってサウロに現れたのです。復活されたイエスが弟子たちに現れるとき、生前のイエスをよく知っている弟子たちでも、それが誰であるか分からないのが普通です。現れた人格が、地上の人間の容相とは違うからです。現れた方が言葉をかけることによってはじめて、それがイエスであることが分かります。この場合も、復活者イエスが顕現されるときの典型的な様相を示しています。


 サウロの場合この体験は、探し求めていた方についにめぐり会ったとか、たまたま出会ったというような性質のものではありません。突然敵将に遭遇したのです。今の今まで敵対し攻撃していた敵軍の将が、突如思いもかけないときに、その強烈な力をもってサウロの前に現れたのです。サウロはその力と威厳に圧倒されて、地に倒れ伏します。


 「主よ、あなたはどなたですか」と訊ねたサウロに、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」という答えが響きます。サウロは地上のイエスを知りません。直接イエスを迫害したことはありません。サウロが迫害したのは、イエスを信じるユダヤ人です。しかし、実は彼らの中にいますイエスを迫害していたのです。復活者イエスは、イエスを信じる者とご自分を一体として、彼らを迫害することは自分を迫害することだとされるのです。
 このようにご自身が誰であるかを示された後、「起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」と、降参して倒れ伏しているサウロに、これからなすべきことを指示されます(九・六)。


 「同行していた人たち」とは、ダマスコのイエスの信者を逮捕してエルサレムに連行するために、サウロに同行していた神殿警察の一隊でしょう。彼らも光に照らされ、サウロが発する声は聞こえたのですが、だれの姿も見えないので、あまりの驚きにものも言えず立ちつくしていました。「あなたはどなたですか」という問いに対する答えは、サウロの内面だけに響いた言葉であり、ここで復活者イエスを見たのはサウロだけで、同行者はだれも見ず、イエスの言葉も聞かなかったと考えられます(九・七)。


 「サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった」。サウロの目は、あまりにも強烈な光を見たために、見えなくなっていました。それで、「(同行の)人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行」きます(九・八)。

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老人として成長する日々

「伸びしろを感じる」という言葉が、まさにギャグの達人である。
私も、これからが伸び盛りかwww
ちなみに、これは12月8日のツィートだが、去年の12月8日だ。1941年の12月8日ではない。

(以下引用)
TORI MIKI/とり・みき
@videobird
老人力とはまさによく言ったものでトイレに入って出てくると次に何をするつもりだったかきれいに忘れている。昔は努力してもそんなことは出来なかった。伸びしろを感じる。

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東海アマ氏の「カルマ思想」

「東海アマ」ブログ記事の抜粋で、私の目からは思想的に支離滅裂に見えるが、自分自身の人生を正直に語っているところはいい。だが、それを「カルマ」という言葉で片づけているのは私には気に入らない。その「カルマ」が、「自業自得」にとどまらず、自分の前世やそのはるか昔の人生の影響だとするなら、いったい東海アマ氏は前世や前々世でどんな悪行を積んできたのかwww
で、今の世で悪行を積み重ねている上級国民は今の人生でどんな善行をし、その前世や前々世でどんな凄い善行をしてきたのか。馬鹿を言うのもほどほどにしろ、と言いたくなる。

自業自得とは、勉強をして学力をつければ、いい大学に入れ、いい企業に就職でき、裕福な後半生を送れる、という程度のものだ。あるいは、自分を肉体的に鍛え上げれば、スポーツの世界で成功できる可能性が高い、という程度のものだ。そんなのは「善行」とは何の関係もない。品性下劣な成功した商売人や芸能人やスポーツ選手は無数にいる。
東海アマ氏の今の生活は、若いころから氏が選んできた人生の生き方の結果であり、まさに自業自得ではあるが、それは先祖代々(と言うより輪廻的継続性のある幾つもの前世)の悪行の結果ではあるまい。実に情けない、「責任転嫁」思想である。しかも、氏が自分の若いころにした「悪行」が、現在の貧困生活とどう関係しているというのか。悪の限りを尽くして、裕福で幸福な一生を送った悪党は無数にいる。氏が批判し続けてきた原子力村の住人もその一種だろう。
(ただし、私は悪党などの物質的裕福さを「幸福」だとは思わない。それは道徳的退廃による精神毀損を代償としているからだ。人間の本当の生活は脳の中、思考と精神の中にこそある、というのが私の思想だ。他者に為した悪行は、その悪人の精神を毀損しているのだ。ただし、殺人だから悪行というような単純な考えでもない。殺人も、暴君暗殺などのように、時には道徳的行為だが、ただし、それが誤った情報による愚行の場合もある。)
氏が社会の悪(特に原子力村)と戦ってきたことを、私は非常に高く評価し、尊敬しているだけに、氏のこのような情けない発言を私はあえて批判するのである。
東海アマ氏は、勝海舟流に言えば「気が飢えている」、つまり気力が沮喪しているのだろう。まあ、国会議員や大臣、原発企業役員とまでは言わないが、せめて、あの悪質な隣人老人を〇してみたらどうか。  もっとも、返り討ちに遭う可能性のほうが高そうだwww その計画を考えるだけでも、楽しいと思うが。今こそ氏は失うものの無い「無敵の人」ではないか。世の中の害虫的存在をひとつ消すだけでも立派な社会貢献である。

(以下引用)

 「カルマ」とは、自分が行った行動・態度は自分に帰ってくるという意味である。一般的に、「カルマ」という言葉は悪い行いのみが影響を及ぼすという意味にとらえがちだが、実は善悪を問わないニュートラルな言葉である。
 さらに、「カルマ」は現在進行形で、常にそれぞれの人に積み上げられているものだ。つまり、善行を重ねれば明るく良い結果が生まれ、悪事を繰り返せば同様の壊滅的結果が生じるという意味がある。

 ちなみに、「カルマ」は必ずしも人の行動・態度から生じるのではなく、思考や欲望、性癖も関係している。それは、行動の根幹は精神と直結し、心の内は行動に現れるためだ。

 「カルマ」は、スピリチュアルの世界、いわゆる魂の世界を解釈する際にも使われる。スピリチュアルの世界でのカルマは、自分自身の行動・態度・思考が自分に帰って来るだけではなく、前世の悪事・善行も今世に影響を与えるという考えだ。
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 一部引用以上

 なんでカルマを引用しているかというと、私のように世間的な富や名誉の人生から落ちこぼれた貧乏老人は、自分自身の人生を振り返って、若い頃なした悪行が、今の自分に反映している現実を非常にリアルに理解できるのだ。
 毎日考えることは、「ああ、あのとき、あんな悪いことをしたから、今の自分の苦しみがあるのだ……」という因果応報の経路ばかりなのだ。

 これが、名誉や財産や地位や、たくさんの家族に恵まれている人には、なかなか理解できないだろう。また、自分の人生の汚点を、他人を見下すことによって覆い隠そうとしている人にも理解できないだろう。
 これは、誰からも見放された、何も守るもののない落ちこぼれ老人の特権なのである。
 だから、私は、どんなカルマが、自分の人生を演出してきたのか、普通の人よりも、はっきり理解できていると思っている。
 そしてカルマについて、考えることも多く、その深い真実に気づかされるのである。

 もう人生の出口、終着駅がはっきりと見え始めている私にとって、他人に対して優しくできなかった偏狭な自尊心が、どれだけ私の人生を窮屈で悲惨なものにしてきたのか後悔しかない。
 もっと他人の笑顔のために生きれば良かった……利他主義に生きれば良かった……そうしていれば、温かい思い出に浸りながら次の人生に迎えただろうと、後悔しながら物質的肉体の終焉を待つばかりだ。

 まあ、70年も生きていると、あらゆる物質的な満足が虚構にすぎないことを思い知らされる。高級車も豪邸も美人妻もイケメン夫も、他人を見下す地位も、貯め込んだ財産も、まるで過ぎ去る雲のように不確実で、一瞬の夢幻にすぎない。自分にとって何の価値もない。
 秀吉が死ぬ間際に「浪速のことは夢のまた夢」と辞世を述べたのと同じだ。

 そんな物質的虚構なんかより、人生で接点のあった他人との関わりで、相手のひとときの笑顔が心を癒やしてくれたことこそが、人生でもっとも価値の高い実存であり、果実なのだと思えるようになる。
 財産という物質的虚構と、「他人に親切にできた」という精神的果実(自己満足)の比較評価ができるようになる。それが70年という人生体験である。
 
 ただし、財産や地位に執着のある人には無理だ。真実を見抜くことができる資格は、守るべき価値への執着のない人生である。それは、人生の本当の喜びは、他人の小さな笑顔を見て刹那の満足を得ることでしかないと知ることだ。

 人生とは何か? 釈迦は「無記」としたが、何の物質的価値も持たない貧乏老人にとっては、真実を知るための虚構のプロセスであり、真実のように思い込まされている茶番劇であることが、はっきりと理解できる。
 我々の肉体、我々の人生は、生まれる前から定まっている。それを定める正体は「前世のカルマ」である。

 人はカルマのために肉体を持ち、カルマを解消するための人生経験を重ねる。その人生で克服できなかったカルマは、さらに次の人生に持ち込まれる。
 こうして、数百、数千の輪廻転生を繰り返しながら、少しずつカルマの少ない人生に向かってゆく。完全にカルマから脱却できれば、それは双六の上がりのようなもので、もう物質的肉体を得る必要もなくなる。
 これがヘーゲルの指摘した「イデー=絶対精神」である。

 こう考えれば、カルマの全体像が朧気に見えてくる。我々の物質的人生は、カルマのための茶番劇なのだ。
 だから、突然人生の終焉を突きつけられても、心配する必要はない。すぐに次の肉体が待ち構えて、その人生で克服できなかったカルマの課題に向き合う人生が始まるからだ。

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推理小説における「観の目」と「見の目」

宮本武蔵の「五輪の書」に、「観の目と見の目」という思想が書かれていて、これは人生哲学として非常に重要な思想だと私は思っている。それは、「物事を大きく広く見る観の目と、物事の細部を詳しく見る見の目が剣術家(当時は芸者と言っていた。今は武芸者と言う)には必要だ」という思想である。
私は、「観の目」が優勢な人間で、「見の目」は開きめくらに近い。まあ、日本人では異端の血液型のせいだろう。小さなものを注視するのが苦手で、同じ物を十秒と続けて観察できない。A型の人間は「見の目」が優勢のようだが、日本人はA型が一番多いらしい。それは、造形芸術など、特に模写能力の高さとして現れる(ネットには素人の描いた見事な写実絵画が無数にある。)が、飛躍的な物事を苦手とする。だから、日本では優れたシュールレアリズム絵画は生まれなかった。そして、「不思議の国のアリス」のような小説も生まれなかった。まあ、漱石の「夢十夜」あたりが、いちばんそれに近いか。

さて、以上は話の枕であるが、本題にももちろん関係する。本題は、今読みかけの「見えないグリーン」のことで、残りページも少ないので、そろそろこの推理小説の出している問題の解答を考えてみようということだ。305ページ中の266ページまで読んだ時点である。つまり、残り2割弱か。ただし、私のそれは「論理的」解答ではない。というのは、この小説自体が「推理小説における『事実』や『論理』への嘲笑、パロディ」ではないか、というのが私の直感だからだ。
推理小説の読者は作中の「事実」や、主人公(多くは「探偵」である)の「論理的」推理を後追いして、小説の謎の解明や犯人が誰かに頭を悩ませる。だが、言うまでもないことだが、その「事実」は作者が提供したフィクションであり、「探偵」の推理も、作者が彼を「名探偵だ」と保証しているだけにすぎない。ヘボ探偵が主人公の推理小説は稀だろう。昔のドーヴァー警視(警部?)とか何とかいった主人公のように、とりあえず近くにいた人間を何の根拠もなく「お前が犯人だ!」と捕まえ、それがだいたいまぐれ当たりするという小説は稀だと思う。
で、私はそのドーヴァー方式で行くつもりだ。
この推理小説の根幹は、前に同じ小説に出て来る小話として私が紹介したパズルにあると思う。
つまり、「情報は、それ自体が誤解を生む」ということである。
で、第三の殺人事件の被害者である推理マニアの老婦人が、なぜ甥とその婚約者のパーティを欠席しながら、あのような「無意味」そうなパズルをわざわざ送ったか、というのが問題だ。
それは、「私には一連の殺人事件(前の2回)の犯人が分かった」あるいは「お前(甥)の身に危険が迫っている」というものだろう。前者の場合はそれを、パーティ参加者全員に知らせることに意味があったわけだ。だが、それで事態の急転を知った「犯人」は、急いでその老婦人を殺したわけである。
さて、あのパズルの意味、あるいは思想は何かと言えば、「物事は、そう見えることの反対であることがある」ということだ。男だと思っていたら女だった、というのがあのパズルだった。
そこで、この推理小説「見えないグリーン」が延々と書いてきたのは、素人推理愛好家7人組にまつわる話で、たいていの読者はその7人の中に犯人がいる、と思うわけだ。だが、殺された老婦人(女史と言っておく。頭脳明晰な女性だ)が言うように、「窃盗で裁判にかけられた男がいて、検察側は彼の犯行を見ていた四人の証人を召喚したの。すると被告は、彼が盗むところを見たことがないという証人を八人呼んだんだって!」ということで、「事実」をいくら集めても「真実」になるとは限らない。女史は、検察側の立場に立って(だと思うが)「反証が無いということは証拠にはならない」と言っているが、この話はむしろ「事実」というものの危うさを示していると思う。黒い烏を何万羽集めても、白い烏が存在しない証明にはならない。
で、この「見えないグリーン」が推理小説愛好家7人組の話を長々と積み上げてきたのは、実はそれが「重要でない」は言い過ぎにしても、「ミスリード」としての機能だった可能性が大きいと私は思うわけである。いわゆる「赤いニシン」である。
で、ほとんど根拠は無いが、ドーヴァー流に、手近な人間を「お前が犯人だ!」とするなら、私は殺害された老婦人の「善良そのものに見える」甥と、その共犯者として彼の善良そうな婚約者を挙げる。このふたりは、少なくとも「第二の殺人」では、犯行機会が一番ある人物で、ただ「犯行動機」が無いと見られて警察には嫌疑をかけられなかったのだろう。で、第一の殺人は三つの殺人事件ではもっとも不可解な「密室殺人」だが、これは密室の中で死亡者が病気で急死したとすれば、殺人事件でも何でもない。この第一の死が例の老婦人に第二の殺人を思いつかせ、甥を手先として第二の殺人事件をやらせた可能性もある。で、「殺人事件計画立案者」の女史が、甥に「例の事件が発覚する可能性がある」という警告の「パズル」を出したことで甥は逆に、「すべてを知っている」伯母を殺害したというわけだ。まあ、甥(あるいはその婚約者)がパーティ会場からどうして抜け出したかは分からないが、これはいくらでも作者が事情を説明する「小説内事実」を出してくれるだろう。
要するに、小説内の情報が多すぎることで、私はこれらの情報の大半はミスリードのための情報だ、と判断したのである。というより、私の記憶能力では、それらの情報を覚えていられないから、ドーヴァー方式を採用するしかないwww


(追記)一応、答え合わせを報告しておくと、私の答えは「半分正解」である。詳しくは言わない。ただし、第三の殺人(メインの殺人)の殺害方法はほとんどギャグである。ゴルフと関係はある(地面に置かれた少し大きいだけのボールをドライヴァーで打つのだから、ゴルフの素人には難しい。ただ、その「ボール」がなぜ動こうとしないのかが問題だ。)が、「ゴルフ場のグリーンとは無関係」と言っておく。第一の死亡事件も他殺で、これもギャグにしか見えない。ヒントは、マルクス兄弟の某映画である。森博嗣あたりが喜びそうな「物理的」手段だ。作者のスラデックは本来はSF小説書きらしい。




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「論理」の陥穽となる「先入観」

今、東の空に月が見える。月の出からまだ1時間くらいだろう。
と書いて、今が何時くらいの時刻か分かる人がいるだろうか。

答えは、午前4時少し前だ。というのは、今は旧暦で10月26日、月の出がかなり遅いからである。
最初の二文を読んで、「答えが分かるはずがない。月の出の時刻は毎日変わるのだから」と考えた人は、小学生程度の知識、あるいは常識がある人で、それ以外の人は実はその程度の知識もないわけだ。それで世界の政治を論じて悲憤慷慨したりするわけである。
まあ、月の出の時刻と世界政治は無関係だ、と思うのはもっともではあるが、私が言いたいのは、「情報の誤りには二種類ある」ということで、ひとつはもちろん情報自体の誤りだが、もうひとつは受け手の誤解である。この後者が実は非常に多いのではないか。

などと書いたのは、先ほどまで寝床で読んでいた、ジョン・スラデックの「見えないグリーン」という推理小説の中に出て来る小話に感心したからである。小話と言っても、「推理パズル」である。その話の前に脇道に逸れるが、この「見えないグリーン」とは、ゴルフかゴルフ場が話の中心だろう、と思った人は、「情報の受け手の誤解」を既に犯している。まあ、私もまだ半分くらいしか読んでいないので、この先にゴルフの話が中心になるかもしれないが。
ついでに言えば、この「見えないグリーン」は、確か、誰か高名な推理小説家の選んだ、「世界傑作推理小説」のベストファイブか何かに入っていたと思うが、あまり話題になることのない作品だと思う。作者のスラデック自身、他に有名作品は書いていないのではないか。

さて、本題だ。次のパズルを読んで、答えを考えてみてほしい。先に言っておけば、解答は完全に論理的である。逆に、「論理的思考」を標榜する人間ほど、混迷に陥る可能性もある。


「判事とモデルが、とある丘をのぼって、また降りてくる自転車の競争をすることになりました。何人かの胴元が優劣を話し合っているのを、ある賭け事師が立ち聞きしました。
『判事は登り坂でモデルよりも時速1マイルは早く走れる』
『そりゃそうだが、彼女は下り坂では彼よりも十パーセント早く走れるぞ』
『上り坂の距離も、二人の速度も誰にもわかってない』
『そんなことは問題じゃない。勝負ははっきりしている』
これを聞いて、胴元というのは常に情報通の正直な連中だと知っていたので、その賭け事師は、自分のお金をーーー誰に賭けたでしょう?」(真野明裕訳)*私なら「早い」は「速い」と書く。












ちなみに私は「判事」だと考えたが、その根拠は、判事とは英語でjudge、つまり「審判員」でもあり、勝負事で勝負の決定権(判定権)を持つジャッジが勝つのは当然だ、というアホな判断である。答えは、そんなものではなく、完全に論理的なものである。

解答は、行空きした、その後に書くが、少しは自分の頭で考えてほしい。





















さて、誰でも思うのが、なぜ「判事」と「モデル」の勝負なのか、ということで、しかし、そこから正解にまで至る人は少ないのではないか。
これは、「判事=男」「モデル=女」という固定観念を利用したトリックで、実は「判事は女で、モデルは男性モデルだった」という話なのである。
すると、上り坂では判事が勝ち、下り坂でも「彼女」つまり判事が勝つのだから、「勝負ははっきりしている」わけだ。
なまじ、数学的に考える「論理的な」人間は、「前提の与えられない情報は無意味である」ことをあまり意識していないのではないか。たとえば「1は100より大きい」というのは、1の単位が㎞で、100の単位がmなら、正しいわけだ。こうした「前提無しの数的情報は無意味」というのは、統計詐欺などで使われる。
この小話の副次的トリック、あるいは詐欺的部分は、実は「そりゃそうだが」という言葉にある。この言葉は、自動的に読者を、「前の言葉への反論」だと思い込ませ、判事と「彼女」は対立存在だと思い込ませるのである。この部分に関しては、少し悪質な「叙述トリック」だと言えるが、全体的にはフェアだと私は思う。



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今の日本は坂の上に「雲」は見えるか

別ブログに書いた記事だが、多くの人の目に触れさせたいのでこちらにも載せておく。

(以下引用)一部変更

階級社会は必然的に衰退滅亡する



「混沌堂主人雑記(旧題)」引用記事の末尾だが、考察ネタとして面白い。
日中韓三国の比較ではなく、なぜ江戸幕府は滅び、明治政府は成功したか、という問題に通じるのではないか。それは「国民に希望や夢があるか」というのが重要点だと思う。

江戸幕府という国体下の階級社会では一般国民には上昇の可能性がない。明治維新では「四民平等」が謳われ、それは「誰でも努力したら社会的上昇が可能だ」ということで、「末は博士か大臣か」と若者が努力した。それが日本近代化のエネルギーだったと思う。つまり「坂の上の雲」を誰もが見ていたのである。司馬遼太郎は正しい。
で、今や日本は階級社会で、下の人間は努力しても社会的上昇がほぼ不可能である。そんな社会で、誰が身を削って努力するだろうか。誰が、道徳を守るだろうか。仲人というお人好しもいないのに、誰が苦労してカネを使って相手を探して結婚し、ギャンブル的に子供を作ろうと思うだろうか。

(以下引用)
大場:逆に考えてみると、なぜ東アジアで日本だけが近代化に成功したのか。
 西洋、とくにアメリカからの影響を受け、それを国家としてうまく咀嚼し、統合する分厚い中間組織が日本にはあったんです。
 一方で、中国を見ると、孫文が言ったように「すべての中国人は砂のよう」、つまり個々がばらばらで、皇帝の専制支配下でも統合力がなかった。そして朝鮮も官僚と庶民の格差が激しすぎて、社会組織が末端まで整備されていなかった。そういった状況では西洋からの影響を受け入れ、それを基に近代国家を構築するという土壌が日本とはまったく違っていたんですよ。
 だから、日本の近代化の過程と、中国や朝鮮のそれぞれの社会・政治的な背景が、どう近代化の過程に影響を与えたのかを考えると、非常に興味深いと思います。

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儒教文化圏の「平和主義」的体質

「隠居爺の世迷言」記事後半(前半は省略)で、世迷言どころか非常な卓見である。「卓見」というのは、つまり私と同じ考えだからだwww
特に下の記事に付け加えることは何もないが、欧米人(白人)がなぜ闘争的なのか、と考えてみると、実は欧米人だけでなく、中東の人間も、あるいは昔の(今でも一部はそうだが)アフリカの人間も闘争的であり、アジア人、特に日本人が例外的に平和的だという印象だ。これは東海アマ氏などがいつも批判するのと逆に、「儒教文化圏」であることが大きいのではないか。
確かに、儒教社会にも身分差別があるが、それは世界のあらゆる地域、社会、国家で同じだったのである。中世の西洋の農奴というのは、まさに家畜同然の存在だったのであり、カソリックという「偽キリスト教」がその支配構造の一部(柱)となっていたのである。同じアジアの国でも、インドなど、儒教とかけ離れた社会でこそカースト制度という最悪の身分差別社会が牢固として抜きがたい体質になっているのは、儒教がべつに身分社会を作ったわけではないことのひとつの証拠だろう。
儒教の最大の特質は「徳治主義」であり、王道とは(覇道という武断主義と反対の)徳治、つまり為政者がその徳によって治める「仁政」のことなのである。

(追記)今読んだばかり(と言うより、まだ途中だが)の「混沌堂主人雑記(旧題)」に、「東洋経済オンライン」座談会記事があり、その中で古川という人が次のように述べている。これを読めば、東海アマ氏の儒教に対する僻見が明白だろう。また、平田オリザという馬鹿が中江兆民を「読めていない」ことも分かる。

 つまり、一般の人々も含めて、誰でも学んで身を修めれば君子になれるし、なるべきである。そして、そういう人々が集まって議論して、公論を形成していくのが、あるべき政治の姿である。こういう話になっていくわけです。
 だとすると、日本で民主主義を実現したいのだったら、まずもって儒教をベースに人々が学んで修養して「君子」になることを目指すということが大前提で、それが日本における民主主義の条件であるはずです。
そのあたりのことを、儒学の素養があった明治の知識人たちはよくわかっていて、たとえば中江兆民は「市民(シトワイヤン)」に「君子」や「士」の訳語を当てています。私が『大人の道徳』で「市民」は「士民」と書くべきだと言ったのも、そういうことです。
 にもかかわらず、戦後の日本は、儒教を封建思想だとみなして、民主主義の条件をむしろ意図的に破壊してきました。

(以下引用)

 ところで、 "愛(Love)" という言葉は日本人にとってはイメージをつかみにくい。愛などという概念を日本人は持っていないように思う。異文化の言葉だから、ピッタリ来ないのも無理はないのかもしれない。しかし、欧米人と来たら二言目には、「愛、愛、愛」とうるさいったらありゃしない。一体どういうことなのだろうか。

 そうそう、欧米人の口癖のもう一つに "Peace" があるように思う「平和」のことだよね。これが組み合わさって、「Love & Peace(愛と平和)」となると、英語を全く話せない私でも何となく耳タコのような気がする。どういうことかな。

 欧米人に対する理解がその程度に浅い私も、新型コロナ騒動が始まって以降、欧米の動向に目を向けざるを得なくなってチラ見しているうちに、彼らがなぜ「Love & Peace(愛と平和)」を繰り返し叫ぶのか、何となく肌感覚で分かるようになってきたように思う。

 分かってしまえば答えは簡単で、欧米には "Love" も "Peace" もないからなんだな。ないからしきりに「Love & Peace」を叫ぶ。そうやって、少しでも「Love & Peace」に近づきたいと思っている。

 「I love you」は欧米の男が女にささやく愛の言葉になるけれど、これは、「俺はおまえを殺すなどしない」という誓いの言葉なんだな。つまり、ぼやぼやしていると男が女を殺してしまうようなことが、欧米では実際にも起こりかねない。凶暴な野蛮人であるがゆえに、女はいつも「I love you」と男に言わせておかなければ危ないという背景事情がある。

 実際にアメリカという国のやっていることを見れば分かるよね。とにかく、仲間以外は殺しまくる。殺して、殺して、殺しまくる。あいつら好きなんだよ、殺すことが。殺せば殺すほど気分が良くなるのだと思うよ。

 地球の人口は多すぎて、将来的に人類は破綻するから削減する必要があるなんてビル・ゲイツなどは言うけれど、それは真っ赤な嘘。騙されてはいけない。彼らは純粋に人殺しが好きなだけ。つまり、快楽殺人。人間狩り。そんな世界に住んでいるからこそ、欧米人は "愛" を強調したくなる。

 日本の男は女に「I love you」なんて言ったりしないけれどそれも当然。そもそも殺してやろうなんて思っていないからね。日本の女だって、男が自分を殺しにかかるほど凶暴でないことを知っているから、「I love you」と言えとは要求しない。

 しかし、ここに来て、つまり、ワクチン接種が始まるようになって、日本政府も日本人をたくさん殺すようになった。岸田総理も、菅前総理も、デマ太郎も、パンチドランカー西村も、女だてらに暴徒知事も、自民党女性議員も。もっとも、日本人だけあってビル・ゲイツとは違い、そんなに楽しんでいるようには見えないかな。しょせんはパシリなのだろう。岸田総理はちょっと危ないような気もするけど。

 さて、殺しを楽しむ、これ以上ない残虐な人非人が欧米人、特にアメリカ人になるのだけれども、アメリカにはもう一つの軸があるように思う。それが "金(カネ)" になる。殺しも好きだけれど、 "金(カネ)" も大好きなのがアメリカ人。

 殺しはいつもしているわけにはいかない。さすがのアメリカ人も「Hello」と言ったあとにいきなり拳銃を出して「バーン」と撃ち殺すなんてことはしない、できない。そんなことを始めたら、自分たちもいつ殺されるか分からない社会になってしまうからね。

 でも、 "金(カネ)" は違う。アメリカ人は「Hello」と言った次の瞬間には、どうやってこいつを騙してカネを巻き上げようかと、その算段を始める。もちろん、金儲けの途中で殺しが入り込むことは大歓迎。何しろ殺すことが好きなんだから。

 結局のところ、アメリカには思想も哲学も宗教もないということになる。形式的にはあるかもしれないけれども、それがアメリカ人の心の中に根付いていない。正義も、愛も、思いやりも、哀れみも、情けも、仁も、情も、恩も、慈悲も、そんな感情や考えがアメリカ人の心の中には欠けている。

 それゆえ、直接見えるものばかり、あるいは直接感じられる強い刺激ばかりを追い求めようとする。その代表が金であり、殺しであり、それにもう一つ、権力ということになる。抽象的な善などという概念は、アメリカ人にとっては「それいくら?」「それおいしいの?」くらいの気持ちで眺めて、そんなものはいらないと捨ててしまう。

 これまでアメリカが国家としてやってきたことは、全部殺しと金と権力目当てだと思っていいのではないだろうか。一番は戦争だね。戦争はアメリカ人に殺す楽しみ、金儲けの楽しみ、権力を得る楽しみを全て与えてくれる。

 例えばロシア・ウクライナ紛争。アメリカ人はロシア人をたくさん殺せると大喜び。これ以上ないくらい武器が売れて大儲けで、大喜び。戦争に勝った暁には世界中に対して大威張りだと、とらぬ狸の皮算用。

 過去をたどれば、イラクに対しても、ヨルダンに対しても、アフガニスタンに対しても、リビアに対しても、イランに対しても、ロシアに対しても、日本に対しても、その他多くの国に対して、殺しと金と権力の3点セットである戦争を吹っかけてきた。人非人の国、それがアメリカ。

 戦争ばかりではない。新型コロナ騒動も同じ。アメリカ人はワクチンで世界中の人間を殺せると大喜び。ワクチンが飛ぶように売れて大儲けができて大喜び。ワクチンが欲しければ下僕になれと各国に命じて大威張り。殺しと金と権力の3点セットでウハウハ。そんな国がアメリカなんだな。

 それにしても、ソ連崩壊後のアメリカの手口の汚さは目を覆うばかり。見えも外聞もなく、騙して、殺して、巻き上げてを繰り返すようになった。その理由は、なんだかんだ言っても、アメリカという国が衰退してきているせいだろう。そこが本質。「貧すれば鈍する」の典型が1990年頃から現在に至るまでのアメリカなのだろうなあ。いいところが一つもない。

 この先、アメリカが回復というか、再生というか、勢いを盛り返すことがあるだろうか。将来の世界に何が起きるかを見通すことはできないけれども、今の流れで行けばアメリカは「世界にいくつかある大きな国の一つ」にまで落ちぶれることは間違いないだろう。世界の覇権国ではなくなる。

 ただし、落ちぶれてアメリカの立ち位置が決まるまでは悪あがきをして、手負いの熊のような危険な存在になるかもしれない。なにしろ、世界一大きな船が沈んでいくのだから、その時にできる渦も巨大だろう。巻き込まれないように、できるだけ離れているに限る。

 そのように考えたときに一番危ういのが日本かな。愚かなことに、沈みゆく船にピッタリ付いているのだから。そうではなくて、アメリカからいかにして少しずつ離れたらいいか、いかにして距離を置いたらいいかを考えることが、この先日本に一番必要とされることになる。

 中東やアフリカの国々が続々とBRICSに近寄っている。そういうことなんだと思うよ。「ネズミは沈む船を見捨てる」というが、人間だって同じこと。日本は大丈夫なのだろうか。沈没船と一緒に沈んでいくような馬鹿なネズミにはなりたくないなあ。

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酔生夢人
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男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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