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飯田哲也、Who?

山口県知事に立候補した飯田哲也については橋下のブレーンだったというだけでその正体はただの詐欺師だろう、としか思っていなかったので何の興味も無かった。NPO法人「環境エネルギー政策研究所」所長という肩書も胡散臭く思われたのだが、ウィキで調べてみると、まともな経歴のようだ。
しかし、橋下のブレーンになったというだけでも、人を見る目の無い人間であることは分かるし、政治家になるべき人物ではないだろう。まだしも今回当選した元官僚の方が、政治のプロではあるし、官僚同士のつながりで地元に利益誘導してくれるのは確かだろうから、山口県民の選択は、必ずしも間違いではないと思う。しかし、こうして官僚政治のネットワークが地方政治にまで張り巡らされると、日本が官僚政治から脱却するのはまだまだ先になりそうだ。
話は少し変わるが、マスコミによる小沢叩きの原因は小沢が「脱官僚政治」をずっと前から掲げているからだ。マスコミは官僚の指示に従っているにすぎない。小沢が「脱米政治」を目標にしているから叩かれている、というのは、考えすぎだろう。もちろん、「官僚=米国」と見做すこともできるが、米国にとっては日本などただの植民地であり、そこの政治にいちいち口出しなどしない。大体の方針さえ示してやれば、後は日本の買弁どもがよろしくご主人さまのために働いてくれる、というシステムである。
(引用2)は飯田哲也という人の人間性を知るために、橋下の「原発容認」について飯田がどんな弁明をしているか、その一連のツィッターを掲載した。要するに「官僚が悪い」論である。官僚が悪いのは当然であり、最初から分かっていたはずだ。敗戦の責任は相手にあるのではない。負けた自分の方にあるのではないか。
こういうレベルの言い訳をするような人物では、今後もまた「よんどころない事情で」いろいろな不都合を許容することにしかならないだろう。まあ、負けたのは橋下であって橋下の子分の自分には責任は無い、と言うのなら、学者の世界の処世術としては許されても政治の世界では許されないことだ。
そもそも、「環境エネルギー政策」というすぐれて政治的問題を扱う法人でありながらNPO(非政治的組織)を称するというところに、この男の頭の不明晰さは現われている。まあ、学者にはこういう馬鹿はけっこういるものだ。なまじそういう人間は「いい人」であることも多いから、他人に政治的に利用されているうちに舞い上がったりするのだろう。


(以下引用)


クローズアップ2012:山口知事選 保守王国に動揺
毎日新聞 2012年07月30日 東京朝刊

 29日投開票の山口県知事選は自民、公明両党の推薦を受けた元国土交通審議官の山本繁太郎(やまもとしげたろう)氏(63)がNPO法人「環境エネルギー政策研究所」所長の飯田哲也(いいだてつなり)氏(53)の追い上げを振り切る形で初当選を果たした。原発再稼働に反発する声が全国に広がる中、「脱原発」を掲げた飯田氏に無党派層の支持が集まり、既成政党批判が「保守王国」を揺るがした。不戦敗に終わった民主党内の衆院解散・総選挙に対する恐怖感も強まっている。
 ◇無党派票、半数飯田氏に
 飯田氏は29日夜、山口市で「保守王国の中で自公を追い詰める良い戦いができた。明日につながる足場はできた」と語った。
 選挙戦は自民、公明両党の推薦を受けた山本氏を、政党の支援を受けない飯田氏が追う展開となった。「大阪維新の会」を率いる橋下徹大阪市長のブレーンだった飯田氏は無党派層の支持を集め、山本氏を脅かした。投票率が45・32%にとどまり、組織票を固めた山本氏が選挙戦を制したが、飯田氏の善戦は原発政策などをめぐる既成政党批判が広がっていることを印象づけた。

(引用2)


まとめ
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【橋下市長の「事実上の容認」の背景と真相1】昨日5/31の橋下大阪市長の「事実上の容認」発言について、昨夜、MBSラジオ「たね捲きじゃーなる」に電話出演したが、「わかりにくい」ことは確かで、質問・問合せが相次いでいるため、ここに整理して私見を開陳します
iidatetsunari2012/06/01 12:48:59

【事実上の容認真相2】5/30に4大臣会合で大飯再稼働が事実上決まり、翌5/31に橋下市長が「事実上の容認」発言、「橋下市長がぶれた」と報道。この経緯は古賀茂明氏のメルマガ( http://t.co/4068y8JU )に整理。有料のため未読の方のためにポイントを反映
iidatetsunari2012/06/01 12:49:41

【事実上の容認真相3】大阪府市統合本部特別顧問かつエネルギー戦略会議座長代理である私としては、政権がなりふり構わず再稼働を強行する事態に対し、率直に自分の力不足を認め、原発無しでこの夏を乗り切ろうという皆さんの期待を裏切ることになったことをお詫びします。申し訳ありません。
iidatetsunari2012/06/01 12:49:50

【事実上の容認真相4】飯田の立場は、今でも不変。安全性無し、(電力需給上の)必要性無し、政治手続きの正当性無しの「3無し」の原発再稼働をすべきではない・してはならない。しかし橋下市長や嘉田知事らの考えと判断は理解できるため、今後も積極的に助言する所存(以下、説明)。
iidatetsunari2012/06/01 12:50:00

【事実上の容認真相5】橋下市長や嘉田知事らが「事実上の容認」をせざるを得なくなった背景①(明らかに経産官僚が用意したと思われる)原発礼賛論まで記された共同声明案が29夜に井戸兵庫県知事からメンバー首長に配布されたこと
iidatetsunari2012/06/01 12:50:11

【事実上の容認真相6】背景②関西電力(とおそらく経産省)は関西立地の大手企業に対して「計画停電脅し」を行い、大手企業から各首長を責め立てたこと。しかも計画停電を個別には回避する特例があることを伏せて「脅した」ことで、政治的に首長が持たなくなってきたこと
iidatetsunari2012/06/01 12:50:21

【事実上の容認真相7】背景③会議の途中で斉藤官房副長官から「もう決める時期」という最後通牒と当日夜に4大臣会合がセットという「再稼働強行」との観測。こうした「背景」で押された結果、「反対を貫いて手ぶら」か「抵抗ラインを下げて取るものを取る」かの判断を迫られた
iidatetsunari2012/06/01 12:50:33

【事実上の容認真相8】この先は、まさに橋下市長や嘉田知事らの「政治判断」。「反対を貫いて手ぶら」とは、政権がなりふり構わず再稼働を強行する中で、反対を貫くとその後の交渉力を失う恐れとの政治判断
iidatetsunari2012/06/01 12:50:49

【事実上の容認真相9】一方、「抵抗ラインを下げて取るものを取る」とはこちら(関西広域連合)が少し譲ることで、再稼働の「7~9月の時限」「大飯3・4号のみに限定」や「安全基準が暫定的であることを国に認めさせる」といったことでクギを指すとの判断
iidatetsunari2012/06/01 12:50:58

【事実上の容認真相10】結果として橋下市長や嘉田知事らは「後者の政治判断」をした。橋下市長は「ぶれた」のではなく、正直に「限定的とはいえ容認した事実」を伝えるとともに、「安全基準が暫定的であること前提とした時限・限定」は譲らず「次の闘い」が始まったことを宣言したもの
iidatetsunari2012/06/01 12:51:07

【事実上の容認真相11】なお現時点では、この「時限・限定」に西川福井県知事が難色を示していることが再稼働難航の要因となっているとのことで、まだ一山二山ありそう。さらにその先には原子力規制庁や新しい安全基準のあり方を巡る議論に移ってゆくので注目下さい
iidatetsunari2012/06/01 12:51:16

【事実上の容認真相12】今回の再稼働政局は脱原発という大きな目標の「緒戦」。敗戦というより痛み分け、むしろ得たものが大きい。政権のデタラメぶりが浮き彫り、電力不足のウソと対策も周知、デマンドレスポンスや広域連携など新しい電力市場のツールも導入
返信するRTするふぁぼる
iidatetsunari2012/06/01 12:51:26

【事実上の容認真相13】大阪府市エネルギー戦略会議としては、次回以降、引き続き節電や安定供給を議論しつつも、「第2ステージ」の闘いに備えて、中長期の脱原発・エネルギー政策の方向性の議論に着手しますので、引き続き注目ください


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白人のための祭典オリンピック

昨日はロンドンオリンピック開幕式について毒舌を書いたが、ああいう感じを受けたのは私だけではないようだ。下に引用する「マドモワゼル愛」さんも同様な印象を受けたようである。だいたい、オリンピック自体がただの金儲けイベントになっているのは多くの人が知っていることであり、後はただそれがどの程度の娯楽になるか、という問題でしかない。
で、私にとってはオリンピック競技で見て面白いという競技はほとんど無い。せいぜいがボクシングくらいだが、それもプロの方が面白いし、そのプロも八百長が半分だ。100メートル走は、わずか10秒で終わるところはいいが、競馬ほどの面白さは無い。マラソンも同様だ。
要するに、マスコミがスポーツ選手についてあれこれ書きたてて架空の「ドラマ」を貼りつけたおかげで人々はスポーツに興奮するのである。自分が現実には知らない人間が勝とうが負けようが、どうでもいいではないか。
などと言いながら、私もイチローが活躍すると嬉しいし、不振だとがっかりするのだが。
話は変わるが、開会式でスピーチしたセバスチャン・コーは映画「炎のランナー」のモデルのコーか? ならば、ユダヤ人だから映画のモデルにもなり、IOCのお偉方にもなれたという話か。スポーツの世界も背後は汚いもののようだ。(このあたりは記憶違いや勘違いがあるかもしれない。調べるのも面倒なので取り合えず書いておくだけだ。)
そう言えば、どの有色人種国の選手団にも必ずと言っていいほど、一人は役員に白人が混じっていたようだが、IOCとのパイプ役は白人に限定されているのだろう。
つまり、世界は白人とユダヤ人に支配されているのがオリンピックからも分かるということである。有色人種は、無料で使えるただの舞台役者にすぎない。


(以下引用)


しかし、今朝の開会式を見ていてなんだかとても疲れた。これでもか、というイルミネーションと大音響。

一昔前のジュリアナというダンススタジオと間違うような感じ。お立ち台みたいのもあるしで。

世紀の祭典のどこに、これからの人類の方向も、未来の創造のエネルギーもあるというのだろうか。

あんなものに沿ってこれからの人類は未来を築いていくというのだろうか。

あの程度のものに誰が乗ってくるのだろう。それとも私がおかしいだけで、見ている人は感動してのだろうか。

現場に居れば、臨場感から面白いというのはわかるし、中には感動する人もいるとは思うが、テレビ観戦ではどうなんだろう。私は気味が悪く感じただけだった。

こんなレベルで人類を規定し、この程度のもので未来を作ろうとし、それでみんなが本当についてくると思っているのか、不思議でならない。

少なくともオリンピックという世紀の祭典だから、そこの開会式には、これからの人類の方向性や歴史がよって立つエッセンスが盛り込まれているに決まっている。

それがこの程度というか、あまりにひどいレベル。しかしそれが実行されたということは、世の中、本当はやっぱりちっともよくなんてなっていないのか、、、と怖くなってしまう。

みせかけのイルミネーションとノイズと言っていい大音響。そこに繰り広げられるまったく浅い人生感や見せかけの愛情や人類愛。

魂の重さがもっとあった昔の人が見たら、きっと本当に窒息して死んでしまうのでは。

まあ、楽しく見られた方もいると思うので、あまり悪く言うわけではないが、あそこに何等かの精神性や愛情や確信、夢をもし、感じられる方がいたとしたら、申し訳ないが、完全にマインドコントロールの範疇にあるだろう。

やっぱり地球は乗っ取られているということが本当によくわかった開会式でした。

落ちていく太陽の演出などは、けっこう怖いものもあり、人類にはもう先がない、、、そういう運命を決定した、、、というようなアナロジーにも思える。

病院に入院している子供には、大体、親がいない。かなり思い切った設定であり、支配者が今後の地球と人類の方向をどうするつもりか、よくわかる。

ここまで思い切った演出をするのだから、相当な自信であり、もう地球人類を質に取ったような形だ。そうでなければあんなことはできないと思う。

これからの人類は見せかけの光、、、映像、、、そして見せかけの音、、ノイズ、、周波数によって、こうした未来を運命づけられていく、、、、ということであろう。

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雑談あれこれ

今日の記事は雑談だ。
先ほどまでロンドンオリンピックの開会式を見ていたが、半分はテロが起きるんじゃないかという好奇心からである。したがって、たいして興味無しに何か別の事をしながら横目でチラチラ見ていただけだが、いやはや、あちこちで話題になっているように「イルミナティの祭典」という感じである。
最初のあたりは見ていないのだが、中盤はワルプルギスの夜かと思ってしまったよ。サバトだね。ロック音楽とヒップホップダンス(と言うのかどうかよく知らないが、日本でも小学生から高校生まであちこちで踊っている奴だ)だらけの狂人の祭典である。ダニー・ボイルとかいう監督が演出したようだが、とにかく音楽とダンスは最悪であった。途中に出たロックバンドのドラマーなど、観客に向かって舌を出してはっきりと侮辱していたが、ああいうのはロックの正式作法なのかね。
しかし、世界中のトップアスリートたちを見ていて気付いたのは、黒人系美女が増えたことだ。おそらく混血の結果だろうと思うが、他の人種に黒人の血が入るとスペイン美女風になることが多いようである。そのはっきりした顔立ちに比べると純粋白人の顔が弱弱しくさえ見える。
もう一つは、英国から「独立」した植民地が今でも英国の実質的属国であることによって、英国は国連などでの議決の際の票数を一国で20近く持っているのではないか、ということだ。つまり、英国はかつての植民地をどんどん独立させ、それを陰で支配することで世界の実質的支配権を握っている、ということだ。カナダやオーストラリアなど、今でも英国との同君連合なのだから、本当は国連での投票権を持つ資格はないはずだ。
テロがこのまま起こらずにオリンピックが無事に終わるかどうかは、閉幕まで分からないが、競技についてはまったく興味がない。科学によってサイボーグ化した運動選手たちがどこまで記録を伸ばそうが、あるいは勝とうが負けようが、別の世界の話だ。大リーグの選手たちがステロイド注射によって怪物化し、怪物的記録を出すようになったために大リーグは実質的に終わったが、オリンピックも同様だ。水面下で似たようなことはやっているだろう。実質プロ選手だけのスポーツの祭典ならば、古代ローマで剣闘士を戦わせてその生死を賭けた戦いを面白半分で眺めていた観客と、現代の観客に違いはない。オリンピック競技で本当に娯楽的要素の高い競技など、何があるだろう。マスコミや観客が選手をだしにして自分勝手にドラマを作って楽しんでいるだけのことだ。
野球もソフトボールも無いオリンピックには、私は興味はない、ということである。
もう一つ、各国の選手紹介の中で「テコンドー」をやっている選手が世界中に数多くいるのに驚いたのだが、テコンドーはいつの間にか柔道や空手を抜いて世界的格闘技になっていたようだ。その理由について誰か識者に分析してもらいたいような気がする。

最後に、オリンピックとはまったく関係ないが、「梅ちゃん先生」は最悪の展開をたどっている。どうやら脚本家は私が心の底から大嫌いなノブと梅子をくっつけるつもりのようなのである。あの「人間のクズ」とだよ。こうなると見るのが苦痛になってきそうな予感がある。いろいろと幼い日の思い出とか、ノブの隠れたいいところとか小出しに出してきているが、これまでに蓄積されたノブの悪印象がそれで変わるはずはない。
私はあまりにもノブが嫌いなので「ゴールド先輩♡」のコマーシャルを見るのまで不愉快なほどだ。たぶん、あの俳優はノブとまったく同じ性格に決まっている。でなければあれほど不愉快な顔のはずはない、とまで思っているのである。

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最低給与が標準給与の指標となっていくシステム

今日二回目の投稿だが、前回記事は短いものだったし、これから引用する記事は非常に面白いので、忘れないうちに投稿することにする。
「内田樹の研究室」からの転載である。
日本の労働者の貧困化と日本の労働運動の衰退は、前者は後者の結果だというのが私の考えだが、なぜ労働運動が衰退したかというと、「労働運動をする人間はアカだ」「労働運動をする人間はクズだ」という社会的教育が不断に行われてきたからだと私は考えている。
実にこの「アカ」という言葉ほど破壊力の強い言葉は史上でも珍しいのではないか。こういう「レッテル用語」のもたらした影響について日本共産党は自分で分析しなければならないだろうが、自分たちでとくとくと「赤旗」などという新聞を出しているようでは、むしろ「アカ」と呼ばれることを誇りに思っているのだろう。それではアカではなくただのバカであり、つまり、永遠の負け犬になるしかない。少しは社会心理学でも学んだらどうか。いや、素人の私でよければいつでもアドバイザーになる。
話が飛躍した。下の記事は、日本の労働者が自分を首つりにする絞首台の縄を自分たちで嬉々として編んできた、という内容である。自分たちが悲惨な状況であるために、自分たちより「少し上の」生活の人間を憎悪し、嫉妬し、そのマイナスのエネルギーをうまく利用する勢力によって「少し上の」人間を引きずり下ろしたはいいが、それで「全員が地獄の池の中」という状況になっただけであったという笑い話だ。


(以下引用)



私の経験則は「『変なできごと』が『変』に見えるのは、それを語る適切な言葉を私たちがまだ持っていない場合がある」ということを教えている。「変な現象」の「変さ」がそこにかかわる人たちの愚鈍さや邪悪さで説明できるケースは私たちが想像しているよりずっと少ないのである。
その上で、橋下徹と大阪維新の会のムーブメントは「前代未聞のものだ」という仮説を採択することにする。
別にしなくてもいいのだが、したことによって失われるのは私の時間だけである(私の話に付き合わされる読者の方々も時間を失うわけだが、それはご本人の神聖なる自由に属するので、私がとやかくいう筋のことではない)。
では、どういう点が「前代未聞」なのかというと、これが「経済のグローバル化を推進して、国民国家を解体しようとしている政治運動が外形的には愛国主義的な衣装をまとっている」という点である。
維新の会の政治綱領が、「手垢のついた新自由主義」であることは誰でもが認めている。
けれども、新自由主義はそれでも「選択と集中」によるトリクルダウンという「言い訳」を用意していた。
私たちに資源を集中せよ。私たちがそれによって国際競争力を増し、ワールドマーケットで大金を儲ければ、一時的に「割を食っていた」貧乏人諸君もその余沢に浴することができる、というあれである。
だが、維新の会のグローバリズムはもう「余沢」についてはほとんど語らない。「とりすぎのやつから剥ぎ取る」という話だけである。「剥ぎ取った分」がどこに行くのかということに、有権者たちはもはや興味を持っていない。
市長が着任して最初にやったことの一つは、大阪市営バスの運転手の賃金が高すぎるので、これを民間並に引き下げるということであった。
この政策に市民のほとんどは喝采を送った。
労働者たちが、同じ労働者の労働条件の引き下げに「ざまあみろ」という喝采を送るというのは、日本労働史上でおそらくはじめてのことである。
労働者というのは労働条件の向上のために「連帯する」ものだと思っていたが、それはもう違ってしまったのである。
現に市長の組合攻撃はすさまじい。組合員というのは「非組織労働者」には与えられていない特権を享受している「ワルモノ」であるという物語に有権者もメディアも同意署名を与えた。
それが自分たちの死刑執行書に署名したことかもしれないということに誰も気づいていない。
市営バスのケースは「同一労働では、最低賃金が標準賃金である」という文字通り「前代未聞のルール」に有権者たちが同意を与えたということを意味している。
このルールに大阪の有権者たちが同意した以上、これから後、彼らはすべての賃金交渉において、「同じ労働をもっと低い賃金で引き受けるものがいる」事例を雇用者側が示し得た場合には、最低賃金を呑む他ないのである。
だって、自分で「それがフェアネスというものだ」と言ったわけだから。
このルールの導入によって最も喜んでいるのはビジネスマンたちである。
すでに、「日本の労働者は人件費が高すぎる」という理由で生産拠点を海外に移し、国内の雇用を空洞化してきたグローバル企業のふるまいを日本人の過半は「それももっとも」と同意してきた(現に、大飯原発の再稼働を決断したとき、野田首相は「電力コストが高ければ、日本を捨てて国外に出て行くのは、企業家としては当然のふるまいである」として、グローバル企業の利益の擁護は原発の安全性に不安を抱く国民感情に優先するという「常識的な」決断を下した)。
それは、国内の雇用においても、「同一の能力であれば、いちばん人件費の安いものを雇う」というルールが一般則として適用されるということである。
ご存じの通り、現在、どの組織でも、非正規雇用労働者が溢れかえっている。正社員の他に、嘱託社員、派遣社員、アルバイトと雇用形態は識別しがたいほどに複雑に複線化した。
そのときに何が起きたか。
仕事ぶりを外から見ていると、それが正社員かアルバイトか区別できないということが起きてきたのである。
場合によっては、正社員よりアルバイトの方が業務内容を熟知しており、適切な判断を下すというようなことさえ起き始めた。
そのときに何が起きたか。
正社員と同じくらいに働くなら、「アルバイトの雇用条件を正社員並にせよ」という要求がなされたのではない。
逆である。
アルバイトと同じくらいの働きしかないなら「正社員なんか要らないじゃないか」という台詞が出てきたのである。
出てきて当然である。
雇用形態の複線化は論理の必然として、「同一労働の場合、それを最低の賃金で達成するものを標準とする」という「同一労働・最低賃金の法則」を導くということに私は導入時点では気づかなかった。
でも、今はわかる。
職場に業務内容が似ており、雇用条件の違う労働者を「ばらけた」かたちに配備しておくと、最終的に雇用条件は最低限まで引き下げることができる。
だから、経営者たちは非正規雇用の拡大に固執したのである。
彼らのロジックは「日本のような高い人件費では、コスト削減の国際競争に勝てない」というものである。
日本の労働者の絶対的な貧困化はグローバル企業にとって「好ましいこと」なのである。
もちろん、貧しい労働者は消費活動がきわめて消極的なので、日本国民のほとんどが下層に固定化された段階で内需は壊滅するが、とりあえずそれまでの間は人件費削減で浮いた分は企業の収益にカウントされる。
先のことは考えない、というのが資本主義の作法であり、国民国家の将来のことなど配慮しないというのがグローバル企業の常識であるから、それでよいのである。
前に国民戦略会議の「大学統廃合」について書いたときも述べたが、日本の財界人が国際競争に勝つために採用している最優先事項は「人件費を限りなく切り下げること」である。
低学歴低学力労働者を大量に作り出せば、場合によっては中国の労働者程度の時給まで国内の賃金を下げられるかもしれない。
人件費問題さえクリアーされるなら、国内で操業する方がずっと利益が大きい。
労働者のモラルは高いし、社会的インフラは整備されているし、怪しげな党官僚が賄賂をせびることもないし、テロや内乱の不安もないし、中国の労働者の賃金が上がって、「もっと賃金のやすい国」めざしてプラントごと引っ越しをする移動コストも考えなくてよい。
実際に、「焼き畑農業的」に生産拠点を移してみたが、このやり方が予測したほどに安定的な利益をもたらさず、むしろコストとリスクを増やすことに資本家たちも気づいてきたのである。
できることなら、日本にいたい。
そこで、日本の経営者たちは「こんなに人件費が高くては生産拠点を国外に移すしかない」という言葉をことあるごとにメディアを通じて「国内向けに」アナウンスすることにした。
これは別に「そのうち移転しますので、みなさん心の準備をしていてくださいね」と事前に親切に告知しているわけではない。
そうではなくて、「国内にいてほしければ、人件費を下げろ」と言っているのである。
政治家も官僚もビジネスマンも大学人も、みんなそれを聴いて「わかりました」と頷いて、「どうやったら人件費が安くなるか?」という問いへの最適解を求めて知恵を絞り始めた。
とりあえずやってみて効果があったのは:
(1)学力が低い若者を大量に作り出し、「自分のような能力の人間には高い賃金は要求できない」という自己評価を植え込む。
(2)同一労働に雇用条件の違う労働者を配備して、「こんな安い給料で同じ仕事をしている人間がいる」という既成事実を作り出し、「同一労働なら最低賃金」のルールを受け入れさせる
(3)製造コストや人件費コストが上がりそうになると、「では国内の製造拠点を海外に移します。それで雇用が失われ、地域が『シャッター商店街』化し、法人税収入が失われても、それはコスト負担を企業におしつけたあなたたち日本国民の責任です」というロジックで脅しにかかる
やってみたら、全部成功した。
大阪維新の会はまさにこのグローバル企業と政官が国策的に推し進めている「国内労働者の絶対的窮乏化」路線そのものを政治綱領の前面に掲げたという点で「前代未聞の政治運動」なのである。
「これから『反撃のできないセクター』から順番に、国民の既得権を奪い、そのつどの最低賃金で働いてもらいます」という彼らの政策に国民自身が拍手を送った。
たしかに、この制度改革は「グレート・リセット」というのに相応しいであろう。
なにしろ18世紀の市民革命から以後の労働運動の成果そのものを否定しているからである。
維新の会が権力を掌握すれば、体制が「変わる」という点については、間違いなく変わる。それは私が保証してあげる。
ただ、その「変化」は労働者の絶対的窮乏化と「グローバル企業」の収益の増大と彼らのいわゆる「国際競争力」の向上に資するものであることは告げておかなければならない。
この労働者の組織的連帯を破壊してゆく過程で、「愛国主義」が功利的に利用されているのだが、なんだか書いているうちにぐったり疲れちゃったので、今日はここまで。

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官僚政治は打破できるが……

「増田俊男の時事直言」から一部転載。
「徽宗皇帝のブログ」で予告した「主権在官」を変える手段がこれである。アメリカで実際にやっているのだから、日本で同じようにできないはずはない。ではそれでアメリカの政治はうまく行っているかと言えば、もちろん違う。なぜなら、資本は「二大政党」の両方に資金提供を行って政治家を支配するからだ。したがって、「官僚政治」を打破してもそれだけでは何の改善にもならない。資本による政治支配を無効にする方策が考えられねばならないのである。それは官僚政治打破と同時に新しい政治システムとして導入されねばならないだろう。


(以下引用)


我々は行動する前に、日本を機能する国家体制に変えなくては総ての努力も試みも効果を発揮することが出来ません。アメリカは永田町(日本の政治)と霞ヶ関(官僚)の関係はホワイトハウス・議会(政治)とExecutive(エクゼクティブ=官僚)の関係と正反対であることを知っています。アメリカでは政治家が国家の実権を握っていて官僚は政治家の使用人でしかないのです。エクゼクティブとは「仕事屋」の意味です。政策はシンクタンク等「頭脳集団」がアドバイスし、決まった政策を官僚に実行させます。官僚は常に監視され問題によっては民間より重い刑事罰が適用されます。大臣は使い勝手のいい官僚が必要ですから大臣が変わると数百人の幹部官僚と役人が代わります。日本には総合的頭脳判断無しに官僚機構が勝手に動くので国益無視、省益優先になってしまいます。
日本の急務は公務員法を改正して刑事罰制度の導入や徹底した官僚統制でしょう。

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我執と「神」

我執と「神」

私のキリスト教への考えの中心は、まず、「神は存在しない。特にユダヤ・キリスト教の創造神はモーゼらによる創作である」しかし「キリストによる教えは、千古不易の偉大な教えである。その偉大さは『汝の敵を愛せ』という不可能な倫理を人類に示したことにある」という2点だ。後者はトルストイの示唆によって私が得たものだ。
自分を愛する者や自分に利益を与える者を愛するのは容易だ。しかし、それは「ギブ・アンド・テイク」の商取引にすぎない。何の見返りもなく、むしろ自分に危害さえも与える存在を愛することが、あなたにはできるか。
母親による育児放棄や児童虐待は、見返りの無い行為ができない現代人の時代精神の象徴だろう。子供がうるさい、邪魔だ、面倒だ、だから育児を放棄する、あるいは虐待する。これは自分にとって利益になる存在しか愛せない、ということだ。育児のために自分の好きなことができない、という不満も(子供)と(趣味)の価値比較をしているのだ。もちろん、自分にとっての価値であり、子供はそこではただのモノ(物体)だ。
我々は、援助の必要な無力な存在には本能的に援助を与えたくなるものだ。社会福祉とはその自然な本能を制度化したものにすぎない。もともと功利主義とは相反するものだ。したがって、功利主義と拝金主義に毒された現代社会では排斥の対象になるのである。その先頭に立つのが野田民主党や自民党、そして橋下のような連中だ。
社会的弱者への援助と母親の子供への援助は同根であり、どちらも「無償の愛」なのだから、その両者が同時に弱まっているのは当然だろう。

最初の段落の考えを補足する。キリストの教えは「人間はどう生きるべきか」という社会倫理がその大半を占め、その倫理の土台には神の存在がある。だから私のように神の存在を否定したら、ドストエフスキーの作中にある「神が存在しなければすべてが許される」という思想になる、というのが西欧的な考え方だ。だが、私はキリストの教えは神の存在と切り離しても有効だと考える。そういう意味では、私は「無神論的キリスト教徒」と自分を名乗ってもいいかと思う。
もちろん、「神」の定義次第では私も神を信じると言ってもいい。むしろ人間の心の中の善性を「神」と言うべきかと思う。「神」という漢字は「しめすへん」である。つまり、人間に正しい方向を示すのが神だ。人間はときどき自分自身が神になる、という考えなど面白いかもしれない。と言っても、新興宗教の話ではない。自分自身の中の善なるものに無心に従う時、その人は神のようなものだ、ということで、神というものはこのように日常的な、身近なものとしてもいいのではないか。
「汝の敵を愛せという不可能な倫理」とは、「倫理の極限」と言うほうがいいかもしれない。この「不可能」とは「不可能だが、それを目指して近づこうとするべきもの」であり、それに近づくほど人類は神的な存在になるのである。

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子供社会は大人社会のフラクタル図形

「長周新聞」から記事の一部を転載。
いじめは子供の欲求不満の現れであることは、まず確かだろう。その不満はただの甘ったれであることも多いだろうが、今の子供の「満たされない心」がいじめという現象の底にあることを、まず考えることが大事だ。もちろん、いじめとは言っても実際には犯罪そのものであることも多いのだから、それははっきりと法的処罰の対象とするべきである。学校の処理する範囲を超えている事柄は、ここでは論じない。
では、子供は何に不満を持っているのか、と言えば、それは簡単である。基本的には「やりたい事ができない」という、ただそれだけだ。「自分の置かれた状況が自分の望む状態ではない」、と言い換えてもいいだろう。
遊んで、菓子を食って、酒を飲んで、煙草を吸って、異性とセックスしたいのに、それが自由にできない。その一方、やりたくもない勉強は強制される。これで欲求不満にならない方が不思議だろう。
学校制度ができて以来、あらゆる生徒は、実は中学高校と欲求不満の時代を過ごしてきたのである。そうでないのは、いわゆる「不良」だけだ。本当は、真面目な生徒も、不良の生き方を羨望していたのである。だから、漫画などではたいてい不良はヒーロー視されて描かれているわけだ。
しかし、少しでも先を考える程度の頭があれば、そうした刹那的な生き方をすると一生浮かび上がれないことをみんな知っていた。「不良」の将来は、男ならせいぜいが暴力団の舎弟になるか、女なら水商売か売春婦になるしかないと分かっていたから、みんなやりたくもない勉強をいやいややっていたのである。つまり、「蟻とキリギリス」の蟻の生き方を選んで高校入試、大学入試を突破しようとしてきたわけである。言い換えれば「未来の成功の約束によって現在の欲求不満は抑制されていた」というのがこれまでの「普通の生徒の生き方」だったのだ。
ところが、いまやチンピラや暴走族はいつでも社会復帰できるどころか、逆にヒーロー扱いである。元ヤンキーの方が度胸があるから営業向きだし、口もうまいし恥知らずだし器用だから芸能界でも重宝される。女だって顔やスタイルさえ良ければモデルにもタレントにもなれる。顔が多少不細工でも整形すればいい。どちらも駄目でもお笑いタレントにはなれる。
一方、真面目に勉強して「いい高校」「いい大学」に入った人間は大学を出ても正社員にもなれないし、正社員になっても死ぬほどこき使われて過労死するか、40歳で定年とか言われて放り出されるという時代である。
つまり、真面目であることがまったく評価されない時代において、子供が真面目に勉強したり真面目な生活をする、ということが可能なのか、ということだ。社会の指導者がいくら嘘をついても、何の罰も受けず、やった者勝ちという社会で、正直に生きるという生き方を選ぶ子供がいるか、ということだ。他人を蹴落とすことが奨励される競争社会で、他人への優しさを持ち続ける子供がいるか、ということだ。
このような社会に生きなければならないことをうすうす感じている子供たちが無意識に欲求不満を募らせ、破壊や暴力の衝動に駆られるのは、当然の話である。昔なら真面目な生徒であった部類の子供までいじめに加担することが多いのは、そのためだろう。つまり、子供たちはみんな自分の未来に怯えているのである。
いじめを受ける方の子供が簡単に自殺するのも同じことだ。これ以上生きていてもロクな未来は無い、と子供が思っても不思議はない。家庭の問題などではない。社会全体が地獄化しているのである。
多くの教師はおそらくそれを無意識に感じているはずだ。自分たちの力ではどうにもならない、と。だからこそ彼らの多くは鬱病になるのである。もはや金八先生や夜回り先生レベルでどうにかなる話ではない。一部の生徒は救えても、社会全体の、子供の心の闇は救えない。
下記記事に書かれた内容を敷衍すれば、以上のようなことだ。
長くなるから、今は病状分析だけにし、処方箋は書かない。
補足として「引用2」に「2ちゃんねる」から大津いじめ自殺事件へのコメントの一部を転載する。日本の心の荒廃は今に始まったことではない。


(以下引用)


 過酷な差別・選別 教育制度の根がいじめ構造 教師縛り上げ

 A 学校のいじめが増えているが、それは第一に文科省が強権的に進めてきた教育改革そのものがいじめの構造となっている。「個性重視」「興味関心」といって子どもの好きなようにさせろと教師の指導性を否定し、教師が悪さをする子どもをしかったらマスコミをあげて「体罰禁止」「子どもの人権」と騒ぎ、教育をできないようにしてきた。そしてその結果子どもが好き勝手をして荒れ学校が崩壊すると、今度は「教育していない」といって教師をたたく。これは完全な教師いじめ、学校いじめだ。
 1980年代の中曽根臨教審で戦後教育の原則であった教育の機会均等主義を否定し、自由競争、差別、選別、ランク付けをひどいものにした。そして90年代には「個性重視」「興味と関心」だ。保育園は自由保育でまるでサルの子を好き放題に野放しするような状態にした。そして「勉強できないのも個性」などといって放置させた。九九も分数も漢字もわからないまま授業に出て、毎日拷問を受けているようなたくさんの子を生んだ。「勉強できないのも個性」というが、実際は点数での過酷な差別・選別だ。
 しかもできる子とできない子とのひどい格差は、塾に行けるか行けないかが別れ道で、経済的な貧富の差で決まるというものだ。
 点数をよくとるが自己中心で冷酷な子と、九九もわからなくて学校に出てくる意味もなく暴れている子ができている。暴れて殴る子がいじめなら、できない子をバカにする点数のいい子もまたいじめだ。どっちがどっちをいじめたとは簡単にはいえない。教育制度の根幹がいじめの構造になっているのだ。
 E また「プライバシー」といって、教師が家庭訪問しても親の職業を聞いてはいけないとされ、教師と親を切り離してきた。親の仕事や家庭生活がわからなければ子どもが理解できるわけがない。そういうなかで教師のなかに事なかれ主義も蔓延してきたし、子どもはそれを見抜いて、「山の田ナイフ事件」のように、子どもをしかる大人を子どもが警察に通報して「通り魔事件」といってマスコミがとりあげる。これは子どもの側からの警察を使った大人いじめだ。
 B ある生徒指導の教師が、男子グループが女子をいじめていたのを見とがめて、追いかけていってしかると、その後しかられた生徒が警察に通報して、「不審者に追いかけられた」というメールが市内中に流されたこともあった。「子どもの人権」といい「児童虐待」というなかで、子どものなかでは警察を利用するのが常識のようにもなっている。大津の事件でも、警察の強制捜査直前の8日間で、市教委に抗議の電話が3200件、抗議メールが5100件きたという。山口県でも県教委などへの通報はすごい数らしい。
 
 いじめ社会に根源 攻撃的ないじめを量産 搾取者の思想

 C ある教師は「今の世の中、いじめだらけ」だという。「日産のゴーン社長は何億円という給料をもらっているけど、それももうからなくなったら工場を閉鎖し、下請・孫請から一つの町をつぶしたうえに成り立っている。人の生活は知ったことではないというもので、それこそ最大のいじめではないか。そうした社会に出て行くのだから、それに負けない子どもに育てなくては」といってきた。
 A いじめの根源は、この社会そのものが自由競争のいじめの構造になっていることだ。子どもの親たちは工場が海外に移転してもうけるために簡単に首を切られ、一家が路頭に迷う。これだけ失業や倒産が多いのに消費税は上げ、法人税は下げて、高速道路や新幹線のゼネコン需要の公共投資を拡大する。福島事故の収束もないのに原発を再稼働して人人を命の危険にさらす。日本社会のどこを見てもアメリカ金融資本と財界を代弁する政府による庶民いじめ、労働者いじめ、年寄りいじめが蔓延している。いじめの親方は政府や財界であり、アメリカの金融機関だ。子どもたちはそういうのを毎日見ている。
 社会と学校を支配するいじめの構造が子どもたちの意識に反映して、全国のどこの学校でもいじめが広がっているのだ。つまりひどい搾取と抑圧のいじめのなかで、いじめる搾取者、抑圧者の思想が反映しているのだ。その根源を解決しなければ、いじめは広がるばかりだろう。イデオロギー上は戦後教育の基調となってきた享楽主義、退廃主義、拝金主義などであらわれるブルジョア的な個人主義思想が攻撃的ないじめになってあらわれている。アメリカの植民地的隷属下に置かれた戦後日本社会の根本的な構造そのものがいじめを量産しているのだ。


(引用2)


84 ハイイロネコ(関東地方). 2012/07/24(火) 22:04:48.53 ID:5v6ifv7xO
何人か助けようとしない周りの生徒も悪いとか言ってるけど本当想像力ないな
仮に庇ったとして13歳かそこらで自分が次のいじめの標的になる絶望感考えられないの?
それこそ死ぬ位の勇気持ってなきゃ助けたくても助けらんねぇよ、虐めた奴らはマジモンのキチガイだし
結局女がーとか言ってる奴ら1番最低な「傍観者」だな
95 アムールヤマネコ(チベット自治区) 2012/07/24(火) 22:12:50.21 ID:N3EMKFY/0
>>84
いじめっ子をぼこりまくって停学になったよ俺
いじめを止めるにはねそれ以上の暴力で制圧するしかないんだよ
またいじめたら次は殺しちゃうよ?って言ったらいじめなくなったよ
85 ジャガー(新疆ウイグル自治区). 2012/07/24(火) 22:05:13.02 ID:HhoAT6Fa0
本当に今回ばかりは格が違うな
鬼畜って言葉じゃ足りないくらいだ
事件と全く関係のない俺でもさすがに許せない。本当に心の底から軽蔑する。
89 ピューマ(群馬県) 2012/07/24(火) 22:07:37.35 ID:6G5qMPJ30
この空気感が日本全体を覆ってるなら
当然駅のホームから線路に落ちた人を助ける奴なんて、出てくるはずがないだろうし
混み合う横断歩道を救急車が横切ろうとしても誰も歩みを止めず道を開けないなんてことも
別に珍しい事じゃないと納得できる
つーか、実際そうなんだから、そうなってるんだろうな

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