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競争という概念への疑問と批判

「谷間の百合」から抜粋転載。
まったく、私も同感である。
「競争」とは言うまでもなく「競い」「争う」ことだが、「争う」ことを上の人間が下の人間に強制したり、勧めたりする社会が良いものであるはずはない。他人と競いたくない、争いたくない、という平和的人間(まあ、周囲からは弱虫・無能力者と看做されがちだが)も沢山いるだろう。しかも、この国の総理はそれに加えて、隣国との「争い」を積極的に進めているわけだ。

「競争」の概念が良い意味で捉えられるようになったのは、スポーツのためではないだろうか。確かにスポーツは(「紳士のスポーツ」と言われた、昔のゴルフなどを除いて)、他者との競争がその本質である、と言っていい。他人との競争の結果、選手の能力も向上し、勝利の栄光も手に入るわけだ。だから、「競争は正しい」「競争は素晴らしい」というような思い込みが世界的に広がってきたのだろう。しかし、スポーツにおいて競争が肯定されるからと言って、他の分野でも競争が正当性を持つかどうか、ここらで立ち止まって考える必要があるのではないか。
そもそも、スポーツの世界では厳密なルールでスタート時点の公平性が担保されており、ルールを守って競技することが大前提だ。そして、たとえルール違反ではなくても汚いプレーは批判され、「フェアプレー」が賞賛されるものであるはずだ。(最近は、「フェアプレー」が馬鹿にされ、ずるいプレーが賞賛されるという傾向もあるのだが。)
では、他の分野でそういう「スタート時点の公平性」はあるか。ほとんど無いはずである。学歴競争だけは、だいたいそういう公平性のもとにある、とも言えるが、それ以外には思いつかない。また、ルールを守るという点、フェアプレーの点においても、実社会というものはスポーツの世界とは似ても似つかないものであるのは言うまでもない。
とすれば、実社会における「競争」は、人間性を堕落させ、勝者を傲慢にし(下記記事における女性管理職を見よ。)、敗者を負け犬にし、精神的にどん底に追い込むものではないか。
もちろん、実社会においても「良い競争」もあるだろうが、競争というものへのこうした批判精神、つまりブレーキを持つことが、今の社会には必要ではないだろうか。
なお、実社会における「競争」の対抗概念として、私は「職人意識」を挙げたい。つまり、他者と戦ったり、他人の足を引っ張って勝とうとするのではなく、自分の職業への誇り(あるいは自分自身へのプライド)から、誰に言われなくても常に最善の仕事をする、という精神だ。日本の多くの「現場仕事」では、こうした職人意識で仕事は行われているはずである。



(以下引用)



きのう、総理は成長戦略の第三弾?として「稼ぐ力」という努力目標を出してきましたが、ちょっと意味がわかりません。

ごまかさないようにハッキリ言ってもらわないと分からないのです。


「競争力」というキーワードが価値観を持ち市民権を得るようになったのは竹中、橋下両人の努力の賜物?ですが、この頃思うのが、ほんとうに競争しなければ国は没落していくのだろうかという疑問です。

総理はグローバル経済に勝ち抜くためと言いますが、グローバル経済とは多国籍企業を中心にして動く経済のことではありませんか。

その多国籍企業に勝つということですが、総理の推し進めている政策はすべて多国籍企業を利するものばかりです。

ウソなのです。

実際は、多国籍企業のために、日本人を奴隷にして相競わせて極限まで働かせるのが「稼ぐ力」ということではありませんか。

ほんとうに、人はなんのために働くのかという根本のところが分からなくなりました。




 




企業エゴの代弁者である経団連が、日本の政治を主導している感さえあります。

そこで働く人あっての企業です。

そこの製品や商品を買ってくれる人あっての企業です。

人びとに支えられているという原点を忘れ、危険な国家戦略に進んで協力し国民を苦しめている企業は早晩天罰がくだることになるのではないでしょうか。


競争力にそれほどの経済効果があるのなら、過酷な競争社会だといわれる韓国はもっと国力を付けて発展していなければならない道理です。

わたしは競争がむしろ国力を削いでいるのではないかと思っています。

働く喜びを奪い、競争だけを強いる社会が豊かになるとはとても思えません。




 




今年の上級公務員試験の合格者は女性が男性を上回ったというニュースがありました。

わたしがあまり喜ばしいことだと思えないのは、いままで遭遇した複数の管理職の女性の対応がトラウマになっているからかもしれません。

その横暴さは犯罪的でさえありました。

後日、上司の男性が訪ねてきて「恥ずかしいことですが、自分も何も言えないのです。あの人もちゃんと試験に受かって今の地位にあるのですから、、」とよくわからない言い訳をしました。

つまり、優秀な女性だと言わんとしたのでしょう。

子どものときから、勉強で競争してきた人はやはり違いますね。

(もちろん、男性だって横柄で威張り散らす人間はゴマンといます。)




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癌に保険金を支払わない「がん保険」とは

「東海アマ」ツィッターで知った記事である。
保険の契約書を全文、逐一読める人など、そうはいないだろう。「がん保険」ならば、癌にかかったら保険金が下りる、と思うのが当然だが、何と、その条文の中に、「早期がんは対象外」という一項があったと言う。なぜ、早期癌が対象外なのか意味不明だが、保険会社の判断で、大半の癌を「これは早期癌」ということにもできそうである。
まあ、癌保険の恩恵を受けた経験のある人もいるだろうから、癌保険そのものを否定はしないが、保険に入る際には条文を全部読んでからにしたほうが良い。しかし、フクシマのおかげで、保険会社は癌保険の支払いが急増して窮地に立っている、という話もあるようだ。かつては稀な病気であった白血病の異常な増加など、フクシマの影響は既に、明らかに出ているのである。




(以下引用)


Monday, June 23, 2014 迫りくる被曝の恐怖、生命保険不払いが追い打ち、『お客様のがんは、がん保険の対象外です。約款に記載されています』(6/23 現代ビジネス)
by 東京江戸川放射線 11:06 Comment : 0 Trackback : 0




なりたくてがんになったわけじゃない。だからこそ、「いざ」というときのために備えてきた。それなのに「保険金は支払えません」なんて、あまりに理不尽じゃないか—そんなトラブルが頻発している。

「お客様のがんは対象外です」

「先生からは、確かに『がん』だと告知されました。まだ初期だから心配ないと言われましたが、まさか自分ががんに罹るとは思ってもいなかったのでショックでした。不幸中の幸いだったのは、がん保険に入っているから治療費の心配はしなくていいということ。

ところが、保険会社に申請すると、『お客様のがんは、保険の対象外です』と突き返されたんです。がんだと診断されたのにがん保険が下りないなんて、どういうことですか?これまで20年以上、万が一のためにと思って、保険料を払い続けてきたんです。いざというときの備えだったのに、肝心なときにカネが出ないなんて、保険ではなく詐欺じゃないか」

東京都在住の68歳の男性は、こう憤る。昨年、健康診断で大腸に異常が見つかり、内視鏡手術で切除した。医師からは、「早期の大腸がんです」と告げられた。

男性は、45歳からがん保険に入っていた。会社の上司が肺がんを患い、長期入院の末、退職せざるを得なくなったことがきっかけだ。加入したのは、がんと診断されたら一時金として200万円、入院1日につき1万円がもらえる保険。月に8000円弱の出費となったが、「収入が無くなり、治療費で貯金が取り崩されることを考えれば必要経費。安心をカネで買ったようなもの」だった。

それから23年。ついに「その日」が訪れた—と思ったら、自分のがんは「対象外」と冷たく見放されたのである。がんを患ったという事実に加え、保険金が支払われないという二重の衝撃に、当初、絶望するしかなかったという。

「保険会社に抗議の電話をすると、『お客様のがんは、ごく早期のがんで、ご加入のがん保険では対象外となります』と取り付く島もない。約款にはきちんと書いてあるというんです。でも、そんなこと加入当初に説明された覚えはありません。これじゃ保険会社にこれまで支払い続けてきたカネは、ドブに捨てたも同然です」

早期がんには払いません

がん保険に入っていたのに、がんになってもカネは出ない。そんなこと、あり得ないと思うだろう。だが、この男性が経験したような事態は珍しくない。病気になっていざ保険金を請求したら、保険会社からさまざまな理由を並べたてられて支払いを拒否されるケースが、いま増加しているのだ。とくに顕著なのはがん保険。これまで知られていなかった問題が、徐々に表面化している。

昨年度、国民生活センターに寄せられた医療保険に関するトラブルは1035件にも上っている。

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/39551

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ゲスい言動が許されてる人間はゲスくなる法則

「fromdusktildawn」ツィッターから転載。

ゲスい言動が許されてる人間はゲスくなる法則

は言いえて妙。石原、橋下、麻生、安倍、etc。自民党や隠れ自民党(言うまでもなく、維新やみんな、ゆい等すべてそれ)政治家の主導的人間によく見られる法則だが、経営者というのも「小さな絶対権力者」だから、そうなるわけだ。(中小企業の中には、会社の女のほとんどをみな自分の女にしている社長もいるとか。以前に、そういう会社に勤めている女性から聞いた話だ。まあ、ヤクザ系の会社だ。)何しろ、「逆らえば、お前、首」なんだから経営者に下の者が逆らうことができるはずがない。そこで、経営者(組織の長)はどんどん夜郎自大の馬鹿になり、経営に失敗するわけだ。優れた経営者は、権力の座にあることのそういう危険性を知っているから、他者から謙虚に学ぼうとする。昔の中国では権力者には「諌言」をする剛直な側近が絶対に必要だ、と知っていたから、中国の古典的政治書にはそうした「諌臣」の話が膨大にある。しかし、大方の「長」は、馬鹿のままでトップに上ると、その馬鹿な部分をもっと拡大していくわけである。石原、橋下、麻生、安倍、etcね。
「黄昏から夜明けまで」氏は、経営者(組織の長)のそうしたゲスい人格が、組織の空気までゲスくする、という可能性も述べている。確かに、そういう傾向はありそうだ。
ところで、東京都議会の自民党のことを橋下が批判しているが、目クソ鼻クソを笑う、の最たるものである。



(以下引用)



fromdusktildawn @fromdusktildawn · 11 時間

「経営者はゲスい人間が多い」という主張は、けっこう本当のところもある。経営者はかなりゲスいことを言っても「正論」として通ってしまうので、歯止めが効かずに、どんどんゲスくなっていった経営者をけっこう知ってる。ゲスい言動が許されてる人間はゲスくなる法則みたいなのがある。












fromdusktildawn @fromdusktildawn · 11 時間

「自分が早く結婚すればいいじゃないか」というヤジと同じレベルの意見が正論としてまかり通っている職場で働いている日本人は数百万人ぐらいはいそうな気がする。企業という組織は、権力を持っている人間がかなりゲスいことを言っても「正論」として通ってしまう腐敗性みたいな性質を持ってる。




(付記)「msn(産経ニュース)」より。

「もうアウト。東京の自民は最低」 橋下大阪市長、セクハラやじをばっさり

2014.6.23 19:03 west政治

 東京都議会の塩村文夏都議の一般質問中に自民党の鈴木章浩都議がセクハラととれるヤジを飛ばした問題で、橋下徹大阪市長(日本維新の会共同代表)は23日、「もうアウト。本人も最低だが、(これまで)誰が言ったか分からない形にして、ごまかしていこうと思っていた東京都の自民党は最低」と批判した。市役所で記者団の質問に答えた。


 橋下市長は今回の騒動について「政治家の感覚が世間の非常識だということが露呈した」と指摘。議場でのやじ全般についても「一般社会では普通の会議でやじを飛ばしたら社会人失格。『やじが良き文化』ということ自体が時代遅れだ」と述べた。


 橋下市長は5月中旬の市議会本会議で、共産党市議の一般質問中、「共産にはにらんできたり、ブツブツ言ったりする若造議員がいる。僕も非礼な態度に変える」と宣言し、普段とは違う短い答弁を連発。野党会派が問題視して本会議が1時間半ほどストップした。







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なぜ無垢な命が失われねばならないのか

「wantonのブログ」に載っていた写真である。
戦争とは何か、ということを知るには、この一枚の写真を熟視すればよい。
この子供の右足を見て、背筋が凍らないだろうか。この子供の蒼白な死に顔を見て、戦争を正当化する理由があり得ると思えるだろうか。







 

wantonのブログ

http://human-rights.jp/war/war3.html




















(追記)「阿修羅」投稿記事から転載。 好戦的言論家に見られるのが、「戦争になれば真っ先に逃げる奴」の顔であり、そういう言論家に付和雷同する人間に見られるのが、自分や家族が「殺される立場」になることへの想像力の欠如である。



最近、「逆境を乗り越える技術」という本を読んだ。
東京地検特捜部に逮捕され、有罪判決を受けた、外交官佐藤優氏と衆議院議員石川知裕氏の対談集だ。ともに長期間の検察の取り調べに毅然として臨み、佐藤氏はその後、作家として大活躍。石川氏は議員辞職し最高裁へ上告中である。

順風満帆だった二人の目の前に突然現れた、とてつもない逆境。今まさにその真っただ中にいる石川氏が、その逆境を乗り越えてきた佐藤氏に生き残るために何が必要なのかを問いかける。今、苦境に陥っている人へのリアルなアドバイスが満載されている。


その中で、戦争を知らない自民党議員が、好戦的な発言をすることに対して、インテリジェンス専門家の佐藤氏が、疑問を呈しているので紹介する。


(以下本文より抜粋)


(石川)最近すごく攻撃的・好戦的な発言をする人たちを見ていて、この人たちは本当に戦争があったらどういうことが起きるのか、想像して発言しているのか疑問に思う。



(佐藤)きっと、戦争が起きたら真っ先に逃げます。逃げる人は顔を見てすぐわかる。



(石川)都知事選で、田母神俊雄さんが得票を集めたのも、多くの人が、体制崩壊によって自分たちの地位を変えていきたいという願望が芽生えているのだと感じる。そして他力本願で戦争を欲しているのではと思う。



かつては戦争を経験した政治家がたくさんいた自民党も、いまや戦争を経験していない世代が占めている。そういう点では怖いですね。



(佐藤)怖いですよ。今の戦争は本当に悲惨ですから。
実際に砲弾が飛んでいる現場にいらしたり、人肉が焼ける匂いを嗅いでいたりするからわかるが、そういう経験が無くても、想像力があったら、いま戦争が起きたらどうなるかわかると思うのですけれどもね。





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「侠」という精神

「侠」もしくは「任侠」(「仁侠」という言葉もある。)とは何か、ということを考えてみたい。
「侠」という言葉は、簡単に言えば「弱きを助け、強きをくじく」というフレーズで定義できるだろう。さらに言えば、その「強き」とは「社会的強者」つまり「権力の座にいる者」である。政治家、官僚、大金持ち、etcだ。
暴力団も権力の一部だが、ヤクザは、大衆小説や大衆映画ではそれこそ「任侠の徒」だとされている。つまり、「ヤクザ=暴力団」ではない、とする見方と、「ヤクザ=暴力団」だ、という見方の二つがあるから話はややこしくなる。だから、ヤクザ映画では「良いヤクザ」と「悪いヤクザ」の両方がいて、最後は良いヤクザが悪いヤクザの親分を叩き斬って、観客の鬱憤を晴らさせる、というのがパターンだ。
本当に良いヤクザがいるのか、私は疑わしく思っているのだが、ヤクザという存在は、庶民(弱者)が個人では立ち向かえない権力に、堂々と敵対し、戦う、という側面もあることは確かだ。なぜなら、権力が法秩序を自分たちの権力維持の防御壁にしているのに対し、ヤクザは最初から法秩序から除外された存在だからだ。つまり、アウトロー(無法者)である。そして、無法者も、集団を作ることで、法秩序が簡単には潰すことのできない存在となる。彼らは、法に保護されていないから、法を恐れもしないわけで、これは権力の座にいる者にとっては敵にするよりも懐柔して味方に付けるほうがいい、という判断が下されることも多い。したがって、先に書いたように、現代の暴力団は権力の下部組織の一つだ、と見るべきだろう。警察と暴力団の仲の良さは、よく聞くところだ。
さて、「侠」というテーマに話を戻すが、「弱きを助け、強きをくじく」という精神は男らしさの極致であり、西洋の騎士道精神もこれと似たものだ。一方、世間でもてはやされる「武士道精神」とは、お家や主君のために滅私奉公することを理想とする、実に権力にとって都合の良い精神であり、侍が「弱きを助け、強きをくじく」働きをしたという話は(「七人の侍」などのフィクション以外では)聞いたこともない。ただ、その、「名誉を重んじ、死を恐れぬ精神」が尊敬や畏怖の対象となってきただけだ、と私は思っている。もっとも、「名誉を重んじる精神」というのも、主君や主家のために命を投げ出させる意図で作られた装置であったのだろう。武士に戦場で死の恐怖を克服させ、敵に立ち向かわせるには、「名誉」(または「恥」)という概念がずいぶん役に立ったはずだ。つまり、主君にとって便利な道具であった、ということだ。
キリスト教を、「奴隷の宗教」だ、とニーチェは言ったそうだが、武士道は「社畜の精神」と言えるだろう。つまり、奴隷が奴隷であることを誇りとする、そういう倒錯的な精神だ。もっとも、「武士道」という言葉は明治以降のもので、それ以前には「士道」と言っていたのではないか。(だいぶ前に「葉隠」を読んだが、そこでは「武士道」だったかもしれない。)「武」の字が入ることで、「勇猛な精神」が実質以上に強調され、本来は「サラリーマン道」である「士道」の本質が見えにくくなったかと思う。
さて、またしても「侠」の話から話が逸れたが、毎度言う通り、私の文章は「行雲流水のごとし」で、思いつくままに書いているのだから仕方がない。最初から結論ありきの「論文」ではなく、まさに随筆であり、筆に従って書いているわけだ。
「侠」について、西部劇の「シェーン」なども例に挙げようかと思っていたが、この映画を見たことのない人に内容を伝えるだけの技量も気力も無いので、「侠」の精神が知りたければ、ヤクザ映画よりは「シェーン」を見たほうがいい、とだけ言って終わりとする。もっとも、古いヤクザ映画の中には、まさしく「任侠(あるいは仁侠)」精神そのもの、という映画も多いようだ。


書き忘れたが、現代では「侠」の精神が払底している、というのが私が言いたかったことの一つだ。つまり、真の男らしさというものが無くなり、ただ粗暴なだけの、「男」を誇示する言動が男らしさとはき違えられているのではないだろうか。真の男らしさは、根底に弱者へのいたわりと優しさがあるはずだ、と私は思っているのである。仏様のような穏やかさと真の男らしさは矛盾はしない、ということだ。これは私が実際に知っている或る人物を念頭に置いて書いている。
いざという時に勇敢な行為ができれば、それが男らしいということである。
太平洋戦争の時の話だが、(男らしさや勇気を誇示している代表である)ヤクザや暴力団員というのは、実は兵士としてはまったくの役立たずであることが多かったようだ。





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ああ世は夢か幻か

「我が回想賦」というブログから転載。
ディアボロの歌という、浅草オペラの曲をユーチューブで探しているうちに、脱線して、こういう超ナツメロに行き着いたのだが、私はAKBとか何とかいうのには全く関心が無いのだが、なぜか、昔の歌、それも大正や明治の頃の歌が大好きなのである。
ところで、私はそれほどの老人ではないが、なぜか田谷力三の実物を見たことがある、というのが自慢の一つだ。しかも、それは日劇ミュージックホールの最後のステージを、「黒テント」の演出家(名前は失念)が演出した、いわば昭和の最後を象徴するような舞台の上でのことだったのである。つまり、大正演芸の最後の生き残りが、昭和の最後の舞台に出た、という稀有なステージの目撃者となったわけだ。しかも、私は演劇にまったく興味が無い人間で、その時も日劇ミュージックホールがこれで最後だから、見ておこう、という友人の誘いに乗せられて、渋々見たのである。それが一生の精神的財産になるのだから、人生とは不可思議なものである。
なお、「世は夢か幻か」のネタである野口男三郎事件について書かれた、ある推理小説があって、これもなかなか面白いのだが、おそらく今では入手不可能だろう。そういうものだ。題名もおそらく「(ああ)世は夢か幻か」であったと思う。(今、調べてみたが、おそらく鮎川哲也の「ああ世は夢か」だと思う。なんとなく、鮎川哲也の名前が思い浮かんでいたのだが、ピッタシカンカン(死語)だったようだ。)
なお、こういう、自分の生まれていなかった時代へのノスタルジーについては、「春の港に生まれた鳥は」という漫画が、一番ツボを抑えていると思う。作者は高野文子。

なお、「美しき天然」は、きれいに歌った歌よりも、ソウルフラワー・モノノケ・サミットという得体の知れないグループの歌うそれが、チンドン屋(ジンタ)の哀愁を感じさせて、面白い。
一聴に値すると思う。




(以下引用)

2014年6月10日 (火)

ああ世は夢か幻か


「美しき天然」という唱歌のメロディーが好きである。 


   空にさえずる鳥の声


   峰より落つる滝の音(後略) 


 しかし、この歌ほど悲惨な運命をたどった楽曲はない。まず、ジンタというサーカスの客寄せの宣伝の曲に使われた。 


 そして極め付きは、殺人者が獄中で作詞したのが巷に流れ、「美しき天然」の替え歌になってしまったことだ。 


 1902年というから明治の末期である。東京の麹町で、11歳の少年が圧殺され、臀部の肉がはぎ取られる事件がおこった。 


 犯人は、東京外語生だった野口男三郎といい、「男三郎事件」として有名になる。男三郎はある家の入り婿になったが、義兄はらい病患者だった。 


 らい病(レブラ)には人肉が効くという迷信があり、それを信じた男三郎は、少年の臀部の肉を煮て義兄に食わせ、スープを飲ませたのである。 


 逮捕された男三郎が、獄中で作った詞はこうである。 


  1,ああ世は夢か幻か


   獄舎に独り思い寝の


   夢より醒めて見廻せば


   あたりは静かに夜は更けて  


  2.月影淡く窓を射す


   ああこの月の澄む影は


   梅雨いとけなき青山に


   静かに眠る兄上の


  3.その墳墓を照らすらん


   また世を忍び夜を終夜


   泣き明かす


   愛しき妻の袂にも 


  このもの悲しい詞を、演歌師が「美しき天然」のメロディーで歌い、一世を風靡したのである。


  少年時代にこの歌を歌い、私は父にひどく叱られた。


 (去年の名月)


Img221


 


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「夢」の功罪

小田嶋隆ツィッターから転載。
いつもながら、見事なものだ。彼がフランスにでも生まれていれば、ラ・ロシュフコーの再来、箴言の名手としてもてはやされていただろうが、今の日本ではこうした苦い真実を口にする人間は好まれない。
若い人々が、マスコミや支配層の提供するエサで「夢」を持ち、その夢が現実化しないことで鬱状態になる。周囲から押し付けられる「良識」で自分を雁字搦めにし、さらに鬱状態を悪化させる。これはまさに「煩悩」と「同調圧力」と言うべきだろう。
ところで、私は「我々の生の刻々は、その人の主観で解釈されたもの、つまり夢である」という意味で、自分自身を「酔生夢人」とも名乗っている。(本当は「名宣る」と書きたいが、こちらは一般的な表記ではないようだ。)その意味の「夢」と、「あなたの将来の夢は何ですか」の「夢」の意味はまったく違うことは言うまでもない。で、私は後者の意味の「夢」は大嫌いなのである。こういう場合は「目標」と言うべきであり、夢というフワフワした言葉を使うべきではない。ここでの「夢」は、砂糖でデコレーションされた煩悩だ。
「夢は必ず実現する」などという言葉は、学校や予備校などが宣伝広告でよく使うが、それは「あなたが我々のところに来て、金を払えば、あなた自身のしかるべき努力の結果あなたの夢が実現することも可能性としてはある」ということだ。それに「必ず」という冠を付けるのは詐欺もいいところだが、こうしたキャッチコピーは詐欺とは看做されていない。
そして、この「夢はかならずかなう」というフレーズは、成功した芸能人も、成功したスポーツマンも、よく口にするのである。そのほとんどは、子供や若者へのメッセージを頼まれたとき、マシなセリフを考えるよりも、こうしたできあいの安全な文句を口にするほうが楽だからだろう。
成功した人間が、「夢の99%は実現しないよ」などと言えば、確かに若者にとってこの世は暗黒になるだろう。そして、そういうことを口にした人間がマスコミや社会から袋叩きに遭うのは目に見えている。それを言っていいのは、たいして成功していない人間だけだ。それなら、「あいつがあんなことを言うのは、成功できなかった人間の僻みさ」、「酸っぱいブドウって奴だ」ということで、軽く嘲笑され、無視されるだけで終わる。
ところで、成功した人間というのは、確かに大きな夢を持っていた人間でもあるだろう。言い方を変えれば、大きな煩悩を持っていた人間だ。自分の今の状態に満足している人間がそれ以上の努力などするはずは無いのだから、社会的にそれ以上上に行くはずはない。そういう意味では、夢を持つことが成功の原動力だ、というのも確かだ。ただし、それは社会的地位の上昇という意味での成功でしかないし、それが真の幸福かどうかは別の話である。
まあ、若い人は、とりあえず、社会的地位の上昇を目指すのが無難な選択ではあるだろう。出家遁世(あるいは「入家遁世」というのもアリだ。働く女性が結婚して家に入るのも、ある意味では「遁世」になる。だが、現在の日本は専業主婦の存在を許さないようになりつつある。)など、いつでもできるのだから。





(以下引用)


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酔生夢人
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考えること
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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