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「赤旗」を駅(コンビニ)売りせよ

「阿修羅」から転載。
やっと最近ではTPPの危険性について一般のニュースショーなどでも語られるようになってきたが、国会中継などを視聴する国民は稀だろう。そもそも昼間の時間帯にテレビを見られるのは主婦と年金老人くらいのものだ。であるから、下記コメントのように国会での質疑応答を簡潔にまとめてくれるレポートは非常に有難い。
下記記事での質問はTPPについてではなく消費税についてのものだが、TPP反対は参院選での共産党の公約でもあるのだから、ぜひTPPについても追及してもらいたいものである。あるいは、既に質問済みで、私が知らないだけか。
そこで、私からの提案だが、「赤旗」を駅やコンビニでも売るような「営業努力」をしては如何だろうか。一般マスコミには絶対に出ない情報が「赤旗」には出る、となれば、市販された赤旗を買う人もけっこうたくさん出てくるだろう。
その際には、赤旗に娯楽記事や教養記事も載せるようにするといい。手塚治虫や井上ひさしは共産党支持者であることを明らかにしていたが、残念ながら故人である。そのような作家やクリエイターも、探せばいるはずである。
まあ、日本共産党という「永遠の野党」が存在することは、民主政治が健康に維持されるためには大事なことだ、と思うから、こういう応援アドバイスをするのである
もう少し言えば、宅配だと共産党支持者であることが明らかになって「怖い」という人は結構多いと思う。そういう人も市販のものなら「足がつかない」から、好奇心から買ってみる、という可能性は高いと思うのである。
私は、こういうアイデアを考えるのが好きなので、何ならアドバイザーになってもいい。私の星(四緑木星)は、言ったことが実現する星だというから、そういう役には適役だと思うよ。(笑)



(以下引用)*元記事には小池氏が質問時に使った統計グラフなども示してある。


05. 2013年10月25日 11:36:32 : i32hDVFNWw
消費税増税 貧困・格差を拡大
増税中止が一番の景気対策
内部留保活用 首相「私からもお願い」

参院予算委で小池副委員長
 「来年4月の増税中止を」「質の高い雇用こそ、安定した成長につながる」―。日本共産党の小池晃副委員長は24日の参院予算委員会で、安倍晋三首相とのやりとりで消費税増税の道理のなさを浮き彫りにするとともに、働く不安をなくし景気回復をはかる雇用政策に転換するよう提案しました。

(詳 報)◓http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-10-25/2013102502_01_1.html
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◓http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-10-25/2013102501_01_1.jpg
(写真)パネルを示して質問する小池晃副委員長=24日、参院予算委

 小池氏は、働く人の平均年収が減少しているもとで消費税増税を行えば、消費税率を3%から5%へ引き上げた1997年当時よりも深刻な影響(グラフ参照)が出ると指摘。景気も財政も共倒れして、社会保障の財源も生まれないと追及しました。所得の少ない人ほど負担割合が重い逆進性が増税でさらに強まり、「貧困と格差はいっそう拡大する」と述べました。
 首相は「たしかに景気の回復を腰折れさせる懸念もある」と認めました。小池氏は「そうであるなら、増税中止が一番の景気対策ではないか」と述べ、日本共産党が準備している消費税増税中止法案への共同を各党各会派に呼びかけました。

 小池氏は、被災地の実態、声も政府にぶつけました。医療、介護の減免制度復活に必要な予算が、増税にともなう復興特別法人税の廃止(9000億円)の9分の1程度であることを示し、道理のなさを際立たせました。

 さらに小池氏は、「法人税減税を賃上げにつなげる」という首相の空論も事実で批判。この間、法人減税は、賃金に回らず、内部留保や株主配当・役員報酬に充てられてきたことを示し、「なぜ、政労使会議で『内部留保を活用して賃上げを』と言わないのか」と迫りました。
 首相は「私からも内部留保の活用をお願いする」と答えました。

 小池氏は、政府がただちにできる賃上げ策として「『ブラック企業対策』も求めたい」と主張。非正規雇用の増大が賃金低下の原因であると政府も問題にしながら、労働者派遣法改悪など非正規雇用を増やすメニューばかり並べており、「これで、どうして賃上げが実現できるのか」と迫りました。
 「鮮度が落ちる」などと雇い止めにされた女性の事例を示し、「人間をモノのように切り捨てる社会でいいと思うか」と小池氏が迫ると、首相は「たしかに、そういう社会でいいとは思っていない」と答えました。


◓http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-10-25/2013102501_01_1b.jpg
◓http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-10-25/2013102501_01_1.html

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フェイスブック規約改定のポイント

「大摩邇」から転載。元記事は「キチガイ医のFB」というものらしい。つまり、この記事はフェイスブック利用者によるフェイスブック批判記事だが、それにとどまらずSNS(ソーシャルネットワークシステム)全体の危険性、日本における「情報統制」と弾圧の危険性に警鐘を鳴らしている。
この記事に書かれたフェイスブックの利用規約改定の内容は大笑いである。何の冗談かと思うが、本気でそれが行われるところはまさに現代の狂気だ。




(以下引用)



▼SNSサービスの動向

SNS(ソーシャルネットワーキングサービス)とは、本来、人と人とのつながりを支援し、促進させる、交流型のサービスのことを差します。代表的なものに、mixi や GREE 、facebook などがあります。そして交流促進を掲げながらも、実名登録、その他で制限を設けているところが一般的ですが、その交流に特に制限を持たないサービスとして、2ちゃんねる があります。

現在、2でゃんねる は、その存在を快く思わない勢力によって閉鎖に追い込まれようとしています。制限を持たせない情報の自由交流は、確かに犯罪の温床に利用されてしまう部分もありますが、そこで正しい情報を得てきた方が多いのも、また事実です。行き交う情報に制限を設けないということは、常に光と影が交錯するという意味を持ち、情報の真贋の見極め、判別する力が重要となります。

facebook の世界戦略は見事なものです。彼らが描いたシナリオ通り、政府やマスコミ、メディアを巻き込んだPRも功を奏し、利用者は増え続け、現在、日本での利用者数は 2,200万人を突破(セレージャテクノロジー、8月8日発表)しています。(mixiのユーザー数は 2,711万人)

現代社会のSNSの本質という意味では、多くの人間を生産行為に向かわせず、興味関心を惹き付け、「1日の多くを忙殺させるための手立て」として利活用されているのが実際です。そして、これまでの期間は「束の間の自由を享受できるお試し期間」であったことも事実なのです。
これからが彼らの独善的な本領が発揮される時です。

▼利用者数が増えるということの意味

現在の日本の総人口は、総務省が 8/28 に発表した住民基本台帳上の3月末時点の公表値では、1億 2,639万 3,679人(4年連続で減少)となっています。

▽日本の総人口は、前年(2012年)より26万 6,004人減。
 下げ幅は最も多かった前年を上回る。

前項の facebook 利用者を日本国民の総人口の割合でみると、実に「17%以上の国民が利用」していることとなります。一般的に新商品が市場投入された際の市場普及率は、15%を超えると急速な普及期に入ると言われています。(閾値:クリティカルマス)

現実的には、全人口のうち、「労働力の中核をなす15歳以上65歳未満の人口層」即ち「生産年齢人口」の方々が利用者の中核をなしていることが想定されますので、生産年齢人口、8,062万 6,569人の割合からみると、実に27%以上(約3人にひとり)が、facebook を利用していることになります。

そしてこれだけの利用者が増えるということ、それはどの分野でも同じ事が言えますが、寡占による弊害が生じ始めるということでもあります。しかも、一定の閾値を超えて社会に普及してしまったサービスは、既に社会機能の一部となってしまっていることから、その「機能への依存」を含め、容易に取り除けない大きな課題を孕(はら)むことになるのです。

本来、サービス提供者は、こうした社会的な影響も踏まえ、適切、かつ真摯な運営を心がけなければなりませんが、facebook のように、「特別な意図」を持って設置され、運営されているサービスには、社会通念上の理屈は通用しません。利用者がその危険性を知り、利用方法を工夫していく必要があるのです。

▼今回の facebook 規約改定のポイント

今回の規定変更は、主要なポイントを挙げれば以下の通りです。
(以下の「我々」は facebook側という意味です。)

①全ての情報の取り扱いは我々に権利がある

登録した個人情報、投稿した記事などは、fecebook 側に2次利用(使用許可)を認め、個人情報を含む情報の販売や、目的を明らかにしない再利用についても利用者は認めなければならない。

 ▽即ち、第3者への情報提供・販売を行いますという宣言
 ▽投稿した情報は、facebook 側にも使用権利が生じるという宣言

②無償サービスを有償化する権限は我々にある

今後、facebookのアップデートにより、これまで無料で利用できたテキストメッセージなどの機能、また情報の更新頻度などによってはデータ料金についても徴収をはじめる予定がある。

 ▽即ち、無償だったサービスを今後有償化しますという宣言

③利用者の機器情報を我々は知り、活用する権利がある

facebookを利用する方が使っている機器類(PC、スマホ等)の情報については、その情報取得(IPアドレスや携帯電話番号)に同意せよ。

 ▽即ち、利用者の機器固有の情報も収集し、活用しますという宣言

④我々企業の利益に利用者は貢献すべきである

利用者の好みや消費行動、性格などの興味関心に応じた広告をカスタマイズし、利用者に応じた広告を表示するとともに、その広告結果を広告主に報告する。また広告主側から利用者への直接的なPRの可能性もある。

 ▽即ち、企業側にとってのメリットを最大限に活用しますという宣言

⑤細かいことまで我々は利用者に伝える必要は無い

その他の詳細な修正は、英語が読める人間以外には通知しません。

 ▽即ち、もっと知りたいのであれば英語を勉強しなさいと言う意味

▼規約改悪に潜むもの

facebook のわかりにくい規約改定を、上述のように翻訳し整理しましたが、さらに平たく言えば、利用者はタダで使っているのだから、利用の対価としてあなたの情報は積極的に商業利用し、様々な機関に情報提供します。という意味なのです。その中には「知の収奪」も含まれています。

ココが、利用者が投稿する情報を基に個人の性格や消費行動、知人(登録者)、プロフ写真を含めたデータベースを作成し、その利用(情報提供・販売)を行っていることは明らかな事実ですが、さらにそれを推し進めるという宣言が、今回の規約改正です。さらに言ってしまえば、一定の対価を支払えば、誰でも(窓口さえ知っていれば)個人情報を得られるという道筋まで想定していることも明らかです。

この秋の国会で、政府与党は「秘密保全法」を通すことを画策しています。そして、この法制度は「日本版NSA(国家安全保障局)」、「マイナンバー法案」、その他の法律と連動して、本格的な「情報統制社会の構築」に向けて動き出しています。同時に「TPP」に関しても、年内決着に向けて動いています。
「日本版FEMA(緊急事態管理庁)」の動向にも注意する必要があります。

TPPについては、アフラックに郵便局窓口での販売権を与え、郵便局は同様の新商品は発売しないという報道に象徴されるとおり、日米の事前協議等の中で、通達された事項(協議では無い)通りの「事前準備」が進行中です。その内容も、「解雇の自由化、労働時間規制の緩和」「外国人医師の国内医療解禁」「公立学校運営の民間開放」「企業による農地所有」等々、広範に及びます。

秘密保全法にしても同様で、環境法改正、食品表示に関する法律の見直し、等々、既にはじまっているのが現実です。

現在、日本側の当局が、日本人の個別情報を得ようとする際には、米国のNSAが所有する情報を頼ってきている(情報の押し売りを含む)のが実際ですが、この情報の中に、facebook を利用することで得られた情報の分析が含まれていることも言うまでもありません。

facebook は「SNSを標榜する個人の情報収集・データベース化のためのサイト」です。そして、それだけではなく、コミュニティを破壊するためのツールとしても、今後その利活用の枠が拡大されます。米国では、離婚の原因のトップは facebook の情報によるものです。掲出した情報(プライベートメッセージ含む)が、いつの間にか知られたくない相手に伝わり、トラブルとなっているのです。これは偶然の産物ではなく、必然として行われていることに気付く必要があります。

某宗主国では、メインコアという反政府思想者をとりまとめたデータベースが存在します。この国にも同様のデータベースが構築されつつあるのは論を待たない話であり、その「構築に一役買っている存在」について私たちはもっと知るべきなのです。




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社長自身がブラック広告塔ではね

「ネットゲリラ」から転載。
今日の「徽宗皇帝のブログ」とシンクロする内容だが、まさにカルト宗教は(既成宗教も大半はカルト宗教だが)「ドアの向こう」にあって、しかもそのドアはいつでもあなたの前に現れるのである。
まあ、学校や会社にもそういう面はある。



(以下引用)



うちの会社も飲み会はワタミ禁止

野次馬 (2013年10月25日 22:24) | コメント(0)



ワタミが大幅減益というんだが、気が狂っている人というのは、本人に自覚がないので、やる事がドツボにハマって行っても気がつかない。マスコミが広告欲しさに持ち上げ、すり寄って来るのを判らない。自分が褒められていると信じ込んでいる。だから平気で、栄養失調で死にそうな従業員を出して来る。今や、飲み会の合言葉は「ワタミだけは止めておけ」です。


(夢人注:この直後の一段はCM「ドアの向こうのカルト」書評だが、ワタミ社長がキリスト教系カルト宗教出身者で、社員に洗脳的社員教育を施していることは世間的には案外知られていない。)

私は佐藤氏と同年なので、彼の体験がウソでも誇張でもないことを保障できる。
私も、この宗教組織には、幼年少年青年期のすべてを奪われた。
この時期の生活環境やマインドコントロールは人生の行く末を大方決めてしまう。
佐藤氏のように、このハンディキャップを乗り越えられる者は僅少だろう。
宗教はいくら"ウソ"をついて、信者の時間と労力、金銭を奪おうが、詐欺に問われない最高のビジネスになり得る。
「あなたは地上の楽園(パラダイス)で永遠に生きられます」などと堅表紙の真っ赤な書籍を出してからもう何年経つのだろう。
パラダイスとハルマゲドン(神の裁き)。永遠の生と永遠の死の狭間で信者をコントロールし、
親子、親族、友人関係などをグチャグチャにする数えきれないほどの規則や制約。
著者が思春期になり、狂信の母親にひとしきりの抵抗を試みるも
生死がかかっているとヒスを起こす母親を家族の誰も止めることができない。
かなわぬとなれば、その制約の中で生きる道と幸せを見出そうとする。
やるせなさが痛いほどに伝わってくるところだ。




ワタミが66%減益 おまえらがブラックだのネガキャンするから

1 ジャーマンスープレックス(庭). 2013/10/25(金) 18:32:13.09 ID:557u5rV90


ワタミの今期純利益66%減に 増益予想が一転、外食の不振響く

 ワタミ(7522)は25日、2014年3月期の連結純利益が前期比66%減の12億円になりそうだと発表した。
従来は38億円と増益予想だったが一転、大幅減益になる。国内で外食事業の客数が回復せず、2013年4~9月期は既存店売上高が前年同期比5%減と不振だった。調理済み食品を宅配する宅食事業も伸び悩んだという。



103 チェーン攻撃(dion軍) 2013/10/25(金) 21:27:39.48 ID:LIzY+4Rw0


就職したくない企業ランキング


1位:モンテローザ
2位:東京電力
3位:ワタミ
4位:楽天
5位:ゼンショー
6位:野村證券
7位:オリンパス
8位:王将フードサービス
9位:佐川急便
10位:大塚商会





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読書についての断想

「谷間の百合」さんが、多読家でありながら物事の本質が見えない人のことを書いていて、面白く思ったが、読書というものは本来、人間にとって危険なものでもある。昔から「本に読まれる」と言われてきたのがそれだ。
惑溺的な読書習慣は、ただの喫煙や飲酒と同じことであり、何も褒めるに値しない。
ショーペンハウエルの言葉を借りれば、読書とは、基本的には「自分の頭を他人の思想の運動場にする」ことでしかないのである。その状態があまりに長く続くと、「本に読まれる」人間の出来上がりだ。
しかしまた、書物の中には、現実以上に素晴らしい世界もあり、それは現実人生ではけっして味わえないものだ。おそらく、楽譜が読める人には、楽譜の中に音楽そのものがあるだろうし、数学の論文の中に美を見出す人もいるだろう。それらは、それを読むスキルのある人にしか味わえない世界だ。小説だって同じことである。
私には或る種の文学(現代文学の類)は「読めない」し、読む気も無い。また、昔の作家の作品も、こちらの力量不足で読めないものが多い。泉鏡花や幸田露伴の文章がスラスラ読める人は羨ましい。これらは、読めればその中に素晴らしい宝があることは確実なものだ。森鴎外や夏目漱石なら、読んでたいていは理解できるが、漱石の「真面目な作品」は、最初から読む気が起こらない。鴎外の史伝も読めば面白いのかもしれないが、まだ読んでいない。やはり、人間は易きに就くものだから、そうした「読むのに努力の要る本」はなかなか手が出ないのである。練習をしないと楽器が弾けないようなものだ。弾ければ、人生の楽しみが増えることは確かなのだが。

現代の多くの人にとって読書の目的は「情報収集」か「娯楽」のどちらかだろう。昔は「教養のための読書」という考え方があったが、物知りだから教養がある、というものでもない。テレビのクイズ番組のチャンピオンは物知りだが、彼らに「教養」があるとは思えないだろう。
まあ、教養とは何ぞや、という話になるとまた話が長くなるから、この辺までで駄弁は終わろう。


スタインベックが、「『罪と罰』(を読む)という体験は、その人の在り方そのものを変える」という趣旨のことを言っているが、優れた文学はそういう力があり、それは危険なものでもある。たとえば、昔は、太宰治を読んで太宰治的(クズ)人間になった文学青年が多かったようだ。しかし、これも太宰治の一面的理解によるものであって、「正義と微笑」や「パンドラの匣」、「女生徒」など、向日的でユーモラスな作品もまたその一面なのである。「人間失格」など、あまり青少年の読むべき本ではないだろう。漱石ならば、「こころ」よりも、「草枕」の冒頭部分の方が教科書に載せるべきものだ。あの調子のいい名文は、言葉(日本語・国語)の面白さを子供たちに教えるだろう。

















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ローマ法王庁の「大審問官」たち

「つれづればな」から記事全文を転載。
バルナバスの福音書を巡る争奪戦、あるいは圧殺への戦いの劇(受難劇)は、まるで「レイダース」シリーズの一つのように面白く、また、法王庁(バチカン=カトリック)からの使者の

「たとえ天からイエスが舞い降りようと、われわれのシステムは変わらない」

という言葉は、ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」における「大審問官」を思わせる。
だが、「大審問官」には、イエスの思想と権威を簒奪(本来は、「王位」を不当に奪う意味だが、イエスを仮に西洋世界の精神的な意味での「地上の王」としておく)し、自分たちが人民を教導することで、無知な大衆に「家畜としての幸福」を与えてやろうという、一種の「善意」があった。しかし、実際の法王庁にあるのは、はたして何だろうか。
いずれにしても、真のイエスの思想は、現在の「キリスト教」、特にカトリック的思想の中には無い、という点で尾崎文美氏は、私とまったく考えを同じくしている、と思う。



(以下引用)


偽典「バルナバスの福音書」に祝福を与えよ

2013/10/23 20:22 よりわけ: 啓示 かぎ: イスラーム


この世界の価値基準となった「西洋」。その根源に横たわる「キリスト教」。それはある時期に変容をとげ、純粋な「イエスの信仰」からは乖離したものであることを前回・前々回の記事に書いた。
とくに前回、トルコ東部の地下都市に眠る信徒の棺の中で発見されたパピルスの束を解読したところそれは「バルナバスの福音書」であり、イエスの母語であるアラム語で書かれており、イエスとともに生きた者の手で記されたかもしれぬものであり、炭素年代測定の結果がその記述を後押しするものであったこと、そして「イエスは人の子」であるとし、現代までキリスト教徒たちの間で守られてきた「イエスは神の子」という教理にまるで反していることとそれが意味することを記した。
「バルナバスの福音書」の発見以来、それに関わる者たちの身に何かが起こり始める。


―我はキプロスのバルナバス、天空暦48年の終わりに、讃えるべき、この世の創造主より、全ての言葉を預けられし精霊と、マリアの子の救世主イエスから伝え聞いたその通りを、第四の写本として此れに記すなり―


天空暦48年とはおそらくイエスの昇天から数えて48年目ではないかと考えられている。西暦でいうと80年頃、ユダヤ戦争によりユダヤ人がローマ帝国にエルサレムを追われ、またユダヤ人であるイエスの使徒たちとその直弟子たちも散りぢりになってからである。
バルナバスの福音書は細々と守られたが325年、ローマ皇帝コンスタンティヌス一世が召集したニカイア公会議の席で採択された「イエスは神の子(あるいは神そのもの)」とする教理に適い「正典」とされたマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書の四書の他は炎に投じられ、バルナバスの福音書も例外ではなかった。禁書とされたこの福音書を携えるものは死刑に処されるほどであった。しかし迫害を逃れて密かに写本・翻訳が行われ生き延びたバルナバスの福音書がヴァチカンの法王直属の特別収蔵庫に眠っていた。16世紀の終わりにそこから盗み出されたとされる福音書が18世紀初頭にオーストリアの軍人プリンツ・オイゲンの手に渡りウィーンの図書館に収められ近代になって発見された。それはイタリア語訳本であった。
その英訳版が1907年にイギリスで「The Gospel of Barnabas」という題で出版された。しかしその発売日に何故か市場から姿を消し世に広まることはなかった。一説によればヴァチカンの修道士たちが一般人を装い書店という書店に列を成して買い占め、そうして集めた本を全て処分したという。大英博物館とアメリカ議会図書館に一冊ずつ残るのみとなった「The Gospel of Barnabas」のマイクロフィルムを入手したパキスタンのイスラム教徒が再版をかなえ初版から72年ぶりに日の目を見ることになった。


「The Gospel of Barnabas」の内容は明らかに新約聖書と相容れないものであった。使徒パウロを「騙された者」と呼び、三位一体を完全否定、イエスは神がアブラハムやモーゼ同様に預言者として遣わした「人の子」であり、磔にされる間際に神が天に引き上げ死なずして天国の住人となり、替わりに十字に架けられたのはイスカリオのユダであり…、いずれもカトリックをはじめいかなるキリスト教社会の認めようのない内容であった。さらにその中では預言者ムハンマドが現れることを予示されていた。
あたかもイスラームの教義に平行しているかのような「The Gospel of Barnabas」を教会はイスラム教徒の作為により書かれた「危険な偽書」と認定している。そして議論に上るたびに強硬にその内容を否定するのであった。


「ハッカリ文書(トルコのハッカリで見つかったバルナバスの福音書)」と「The Gospel of Barnabas」は原本と訳本の関係である。が、厳密にはそうとは言えない。アラム語からおそらく古ギリシア語、ラテン語、そしてイタリア語を経て英語に訳される段階でその意味を大きく変えてしまうほどの致命的な誤訳があって不思議ではない上に、訳者の主観と能力が必ず作用して原点から遠ざかることが余儀なくされる。純粋であることが求められる「福音」の翻訳は実は不可能なのである。であるからこそ、この福音書がよりイエスに近い時代にイエスの母語で書かれていることの意味が大きい。

ハムザ・ホジャギリは発見以来このバルナバスの福音書に関わり続ける数々の古代語の研究家として活躍するトルコ人である。ハムザ師曰く、バルナバスの福音書はその記述、その精神、その韻律どれをとってもイスラームの聖典であるクルアーンに共鳴するという。なぜそのようなことが起こりうるかは明白、ユダヤ教もイエスの信仰もそしてイスラームもそれぞれ矛盾することない同じ教えだからである。

ハッカリ文書の写本がゴラン高原に存在することを解読したハムザ師は旧知であっ
たヴィクトリア・ラビン(暗殺されたイスラエルの首相イツハク・ラビンの孫娘)に協力を求めた。イスラエル占領下のこの地ではラビン首相亡き後もその威光は健在であった。程なくバルナバス福音書の「ゴラン写本」を発見、そして解読する。師が解読文を英語で書き下し、それを読んだヴィクトリアはイスラームに帰依してしまった。

世界のどの古代遺跡の調査状況も諜報機関には常に筒抜けである。ましてやモサドのお膝元ともいえるゴラン高原の調査などはすぐにヴァチカン法王庁の知るところとなっていた。ハムザ師の解読が進む中で法王庁からの接触が始まり意見交換がなされていた。バルナバスの福音書とクルアーンが「同じ泉から流れる川」であるとのハムザ師の主張に対し、法王庁から来た枢機卿マルコはそれを否定するかわりにこう述べた。


「たとえ天からイエスが舞い降りようと、われわれのシステムは変わらない」


法王庁からゴラン写本を買い取りたいとの交渉を受けるヴィクトリアだが高額の提示にも断固として応じることはなく、それが禍したか27歳の彼女はモサドの手の者により殺害されてしまう。こうしてゴラン写本は渦中に陥りギリシアのある出版社に二束三文で買い取られてしまう。枢機卿マルコはその後原因不明の死を遂げている。

アンカラの司法裁判所の証拠品倉庫の中で2008年に奇妙な山羊皮製の本が見つかった。これもアラム語を古シリア文字で綴った文書であることが判るとバルナバスの福音書の原本ではないかという期待が持たれ炭素年代測定が行われたが、結果はおよそ1500年前に書かれたものであると判りバルナバスの時代のものではなかった。ハムザ師にその写真が送られると、曰くこの文書は「全く出来の悪い」聖書の一種で、およそ福音を伝えるために守られた本などではあり得ないという。皮の質が悪く書体も幼稚で、何より本の背面に十字架が描かれているなど福音書としてあるまじき姿という理由であった。皮肉なことにこの山羊皮本の出現によりバルナバスの福音書自体がイスラーム誕生後にイスラム教徒によって書かれた偽書であるとの評価がさらに高まった。この山羊皮本は2000年に摘発された古美術品窃盗団から押収されたがそのまま警察で眠っていたという。バルナバスの生地キプロスにその名を冠した聖バルナバス教会があり(バルナバスの墓所として知られているが信憑性は薄い)、実際に1996年に聖バルナバス教会はキプロス軍(トルコ軍の出先機関)の将校によって荒らされている。そしてこの事件を調査していたキプロスの新聞記者は同年何者かに殺害されている。結果を俯瞰すればこの山羊皮本をめぐる一連の事件はバルナバスの福音書を貶めるための謀りごとと考えられる。(トルコ軍の行動は常に不可解であるがイスラエルとの関係が緊密であることを考えれば理解しやすい。)

ハムザ師はバルナバスの福音書の全文を読んだおそらく唯一の生存者ではないかと思われる。そのハムザ師に対してもモサドをはじめその他正体不明の組織からの脅迫が止むことはなかった。研究を放棄することを要求され、従わなければ生命はおろか地位・学歴・職歴・出生証明・国籍の全てを白紙にすることもできると脅された。解読作業に関わる出版社や新聞社の人間が相次いで不慮の事故に遭い、さらに師は2003年ごろから癌を患い現在も闘病中である。イスタンブールの自宅から一歩も出ることなく暮らしているが訪れる取材には応じている。またテレビにも何度か電話を通して出演している。命などは惜しくないが身近な人々に事が及ぶのは耐えられないとする師は、すでにその全容を知りながらも福音書の訳文を発表することなく関連の執筆も一切行わず、取材を通してその内容の断片を語るのみである。


堕落したユダヤ教社会に生まれたイエスが広めたのはユダヤ教の原点に還らんとする教えであり「キリスト教」なるものを広めたというのは間違いである。イエスの昇天の後になって一神教の道から逸れ、ローマ帝国領土内の土着信仰―多神教的偶像崇拝―の鋳型に嵌められたのが「キリスト教」である。その種を撒いた者こそがタルソスのパウロであった。イエスと使徒を激しく迫害したパウロは突然回心し偶像崇拝者たちにイエスの教えを説きはじめる。それまで荘厳な、時には禍々しい姿をした「神々」を信じ、犠牲を捧げてその御心に適えば死後にこの世に生まれ変わると信じていた人々にとり目に見えぬ唯一神というものは想像に及ばぬ存在でしかなく、この世の人生は一度きりで肉体が蘇ることはないとする教えはとても認められるものでなかった。そこでパウロはイエスが「神の子」であるという主張を以って布教を行った。つまりイエスという媒体に神性を憑依させ神を物質化=偶像化したのである。

それによれば、信徒の全ての罪を背負うイエスを十字に架け、父なる神にそれを犠牲として捧げ、イエスの復活は罪が許されたことを意味し、信じるものは同様にこの世に生まれ変わることが出来る―イエスの教えから遠く離れたこのパウロの教えは瞬く間に多くの信徒を得た。論述に長けたパリサイ人であるパウロの影響力は強かった。パウロが使徒たちの中で着実に地位を固める中、それと争おうにも到底敵わぬバルナバスは去ってイエスと過した日々を振り返り「イエスの教え」を書きしたためた。それがバルナバスの福音書であり、逆ににローマ帝国の国教に上り詰めたのがキリスト教という名の「パウロの教え」である。


ヴァチカンのみならず全てのキリスト教会はバルナバスの福音書に光が当たることを望まない。教会の権威に亀裂が走ることは避けられない。亀裂はさらにキリスト教を政治の道具として、社会価値の礎として、イデオロギーの源泉として、非道の方便として利用してきたキリスト教社会つまり「西洋」に及んでその破壊すら招きかねない。二千年来この福音書は西洋の命取りであった。たとえ天からイエスが舞い降りようと変えられないという彼らのシステム、それはヴァチカンの体質などに非ず中世から近代にかけて築いた西洋中心の世界支配体制を指している。そして「西洋」を後ろ盾にするシオニスト、あるいは隠れ蓑に使うユダヤ人がいる。

現代の世界の枠組みの中、イスラームは「仮想敵」として想定されている。文盲、貧困、飢餓、女卑、暴力の先入観を植え付けたこの仮想敵をひたすら批判し攻撃を加えることで自らの正義を貫き、その影で行う搾取により資本主義帝国を築いた西洋としては、炎にくべた素顔のイエスの教えがイスラームに生き写しであり、しかもその預言者の誕生を予示していたことを表沙汰にされては非常にまずい。



さて、「The Gospel of Barnabas」に書かれていた「預言者ムハンマドの予示」は果して「ハッカリ文書」「ゴラン写本」にも存在した。ハムザ師の解読によれば

―我(イエス)の後にもう一人の預言者が続くであろう、それに従う者たちは熟れた麦の穂のごとくになろう―

そう表現されているという。
もとより旧約聖書(申命記)にも新約聖書(マタイ記)にも後に大預言者が現れるであろうということは書かれている。ただしキリスト教側はそれをムハンマドであるとは見ておらず、彼らに言わせれば旧約にあるのはイエスの誕生であり、新約にあるのはイエスの復活がそれに当たるとされている。

「熟れた麦の穂」をどう解することが出来るか、ハムザ師によればそれは繁栄や増殖を示すとされる。しかし僭越ながら筆者が付け加えさせてもらえば、たわわに実り穂をたれて地を覆う熟した麦が一斉に風になびくその様子がイスラム教徒の集団礼拝の光景を暗示していると思えてならない。ハムザ師は文字の世界に生きる人間であるがゆえ視覚からの安易な発想は避けているのかもしれない。凡人である筆者にはわからない。が、イスラーム特有と思われている頭を垂れ額を地につける礼拝の形がユダヤ教の古くからのそれであり、それはイエスと使徒たちに受け継がれ、そして今もアッシリア東方教会やエチオピア・コプト正教会に残ることをここに付け加えておきたい。



日本には縁のない話、と思われる方々も多いはずである。遠い国の昔話に聞こえるかもしれないが、「西洋」に無体を受ける筆頭の国として是非お気に止めていただきたい。神の御心のままに生きていたのでは物質の豊かさの中で歓喜することが許されぬことを知り、神ではなく物質をを礼賛する世界をひそかに築こうと目論んだ西洋は、福音を改竄して偶像つまり手製の神を祀らせたのである。

物質へのその凄ざまじい欲望を原動力に彼らは近代までに世界の大部分を支配下に置く。その後は武力による支配に加えてイデオロギーによる支配がはじまる。
イデオロギーとは疫病である。人はこれに侵されると物質界の価値に盲執し、虐殺が正義に、庇護が差別に、搾取が取引に見えてしまう。そしてよそから借りてきた言葉と脳で主張を始める。別の病人とは意思の疎通が全く出来なくなる。時として胸に涌くいくばくかの疑いも借り物の脳は受け付けない。
何も疑うことなく西洋の価値基準にあわせて自らを作り変えたある国はいま何もかもを吸い尽くされようとしている。それでもまだ西洋の発明したイデオロギーを疑うことができず西洋の政治や制度に規範を見出そうと腐心している。

これもまた西洋がその手で作り上げた神々であり、偶像である。その偶像の御心に沿うため、近づくため、人々は物質と精神を犠牲として捧げ続けている。犠牲の血を吸う土は穢れ、新たな犠牲を生み出す。紀元前から戒められていた偶像は、姿を変えて今も人の世を狂わす。




イスラームはそれまでにこの世に現れた預言者たちをすべて神の使徒であるとし、それぞれに託された預言は対立することはないと、モーゼも、イエスも、ムハンマドも同じ道を歩むものであると断言している。

セルマンは6世紀の終わりにうまれたユダヤ人であり、後にキリスト教に入信しアンティオキア教会で学ぶ。祈りの日々の中、遠い砂漠の国に預言者が現れたという噂を聞き是非会ってみたいと旅に出た。アラビア半島のメディナに至ったセルマンは人買いに囚われ奴隷の身となるが、彼を買い取り解放したのは預言者ムハンマドであった。セルマンはムハンマドの言行に触れ、まさしく神の遣わした預言者であることを認めイスラームの門をくぐる。しかし問わずにはいられなかった。アンティオキアの教会のかつての同胞たちは天国に行けないのだろうか、と。イスラームを知らねば天国も知り得ぬとするムハンマドの答えにセルマンは眠れぬ夜を過ごした。神への感謝と祈りをささげる心優しき同胞たちに救いはないのだろうか、セルマンはふたたび、みたびその問いを投げかけた。するとムハンマドにひとつの預言が降りた。

―疑うなかれイスラームと共にある者、モーゼと、イエスと共にある者、そして偶像を戒めるあらゆる教えと共にある者は、その教えの中で神と審判の日を畏れ、神の名の下に善行に勤しむならば、審判の日に恐怖と悲しみはおとずれぬ(クルアーン 雌牛の章62節)―



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論理的言語と情緒的言語、論理的民族と情緒的民族

「井口博士のブログ」から転載。
井口博士という人は人種差別的な発言が多くて(私も人のことは言えないがw)、そのあたりはあまり感心しないのだが、物の見方が面白いので、愛読するブログの一つである。まあ、人それぞれ癖はある。
さて、前回、詩は論理ではない、と言ったが、下の井口博士の言葉を一部借りれば、(人間の感覚や思考を通して見た)この世界そのものが情緒の世界であり、数学的には記述できない(つまり、論理を超越している)ものだ、と言える。そしてそれは論理を絶対視する西洋的思考では捉え難いものだろう。もちろん、泰西名詩はたくさんあるが、日本人ほど自然ともこの世界のすべてとも一体化した繊細な情緒を持っている民族は稀だろうと思う。それが端的に顕れたのが俳句や短歌という芸術であり、俗化してその本質を失ったとはいえ、華道や茶道もそうだろう。日本語そのものも、論理よりも情緒の表現に向いているのである。

論理というものの本質は「抽象」である。
「抽象」の本質は、その前段階の「捨象」にある。
論理形成に必要な要素以外をすべて捨てる、という作業が「捨象」である。
たとえば、人間というものをただ労働力という部分にだけ還元(「元」つまり「要素」に還すこと。「もと」に還す意味の「還元」ではない)し、それ以外の要素を捨象することで、企業経営が「合理的」になるし、それによって確かに企業は利潤を多く上げることができる。労働者に支払う「労働の対価」、つまり賃金をできるだけ切り下げることで企業利潤を上げるというのも「合理的」なことだ。だが、そうした合理的思考の行き着く先は、労働者にとっての地獄しかないだろう。
それが現在世界中で起こっていることだ。
つまり、新自由主義とは合理主義とエゴイズムの複合体だと言えるだろう。
この世界を非人間的世界にしているのも「論理一辺倒」の思考形態や論理絶対主義ではないだろうか。

話が飛躍したが、この世界を人間的に見れば、その本質は情緒の世界であり、それは「いわく言い難い」ものである。だから、言語だけで物事を説明しようとする西洋人などには理解されにくい。彼ら(の大部分)にとっては言語とは論理の世界であるのだから。そういう低レベルの思考しかできない連中(おっと、私も人種差別的発言をしたw)がこれまで世界を侵略し、その支配の軛(くびき)の下に置いてきたことが世界中の不幸の原因だろうと私は思っている。


ある詩人の言葉を少しアレンジして書こう。
この世界そのものは白い光のようなものだ。その光が、人間というステンドグラスを通してさまざまな色に彩色され、映像を作る。それが芸術であり、すべての人間の営為である。




(以下引用)*色字部分は引用者(夢人)が、見易くするために変えたもの。




岡潔博士は、この宇宙で数学によって表現される世界もあることにはあるが、数学や数式では表せない世界もまた存在する。むしろ、この宇宙の本質はそっちの方にあって、ほとんどは数学では記述できないものなのだ、と考えたのである。

そして、そうしたものを「情緒」だと考えた。

「情緒」の前では、時間も空間も意味はない。だから、この宇宙では、時空間というのは、人間が便宜的に数式や数学に乗せるために使った方便の一種にすぎないよ、と言っていたのである。

言い換えるならば、数学で表わされるものは、何らかの「量的」(距離や重さなど)に表現できる世界であり、数学で表されないもの=「質的」に表現するほかないというような世界も存在するということである。数学で書けた瞬間にそれは「量的世界への射影」に過ぎなくなってしまう、というわけだヨ。

最近、やっと欧米人やこの地球上の他の国々の人たち、や他の民族の人たちにも、ほんのちょっとだけ、我々日本人が伝統的に持っている感性やその感じ方、すなわち、「情緒」について分かりつつあるようである。(もちろん、韓国人にはわからない。しかしどうも本国の北朝鮮人には分かるようである。)

外国人のそんな「無謀な」努力を垣間見せてくれるものがあるようなので、それをここにもメモしておこう。以下のものである。




海外「生まれる国を間違えた」 日本人の独特な美意識に外国人が感心





今回の翻訳元は以前にも何度かお世話になったチャンネルなのですが、
この動画では「日本人の美意識」についての私見を披瀝していらっしゃいます。

投稿者さんは冒頭、「美に対する感覚は人それぞれ」とした上で、
「それでも日本人が一般的に持っている美意識がある」として、
上の写真を示し、日本人の感覚を分かりやすく説明されています。

・通常左側の桜が満開に咲いている状態が好まれるだろうが、
 日本人は今にも芽吹きそうな蕾の状態や、散ってしまった状態を好む。

・すべての日本人があからさまな美しさを愛するわけではなく、
 花開く寸前の桜や、散り始めているがそこにわずかに残る花が内包する美など、
 花開き、そして散りゆくまでのプロセスにも美を見出す。

といった点が説明されています。
17文字という短い言葉で構成される俳句の、その奥に存在する美しさにも触れており
(英訳された俳句を見た時、長文になっていたことに驚いた、という点も)、
改めて、秘められた美を愛でる日本人の特性を指摘していらっしゃいます。

Japanese sense of beauty




(中略)



(あ)まあ、この女性の主張は、

「日本人は表に現れた、あからさまな美(obvious beauty)の他に、その背後にある、隠された美(Hidden beauty)を感じ取る。そういう美意識を持っている。」

という主張ですナ。


(中略)



(い)さて、この話はこの女性が思っている以上に深い問題につながっている。だから、ついでにここにメモしておこう。

この女性のやっていることを見れば、最初に岡潔博士が

「数学で記述できる世界ばかりがこの世界ではないよ」

と言ったという意味が分かるはずである。この女性は、我々日本人が普通に感じている世界を英語に表現しようとしているわけだが、それが実に難しいかよくわかるからである。

つまり、

「英語(欧米語)で表現できる世界だけが世界ではない」

とこの女性は言わんとしているわけである。事実、そうなのである。「日本人の感性」を英語で表現することは不可能である。外人が自ら日本語を学び、日本で生活していくうちに、自ずと理解できるようになる。そういうものである。




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宮澤賢治詩集「春と修羅」序

この前、「独りファシズム」の中の「自分という現象」という言葉は宮澤賢治に由来するものではないか、と書いたが、それを自分の蔵書(今は数十冊しかない)で確認することはできなかった。
しかし、ネット時代は便利なもので、ネットの中にそれがあったので、転載しておく。

詩というものは人生の良き伴侶であり、あらゆる瞬間瞬間に、好きなフレーズを想起することで、平凡な人生も彩色される。だが、学校教育の中で、子供向けに選定されたつまらない詩にしか触れていない人は、詩はつまらないもの、と思い、また文学青年たちが振り回す難解な詩に触れた人は、詩とはわけのわからないもので、自分には詩は分からない、と思うようになる。

詩は、言葉の音楽であり、分析的に、意味的に理解する必要は無い。

宮澤賢治の詩など、意味的に理解しようとすれば難解だろうが、そのシュールなイメージと言葉の音楽を楽しめばいいのである。それは、下記の「春と修羅」序からも分かるだろう。

なお、宮澤賢治の童話も詩的イメージに満ちており、それが彼の作品の魅力である。
小学校の教科書によく載っている「やまなし」など、キラキラした水のイメージと、その中にいる謎の生き物たちの不思議な会話だけである。それを論理などで説明しようとする学校の先生など、ご苦労なものである。「クラムボンは笑ったよ」「クラムボンはかぷかぷ笑ったよ」「なぜ笑った」「知らない」のクラムボンが何か、などを追及させて、それは「泡」である、などと結論するなど、愚の骨頂だろう。しかし、理屈や合理性だけがすべてという学校教育の中では、そういう指導になるしかない。そして、詩や小説は分からない、下らないと思う人々を大量生産していくのである。



(以下引用)*活字の色付け、および一部の行分けは夢人による。








   序

 

  わたくしといふ現象は

  仮定された有機交流電燈の

  ひとつの青い照明です

  (あらゆる透明な幽霊の複合体)

  風景やみんなといつしよに

  せはしくせはしく明滅しながら

  いかにもたしかにともりつづける

  因果交流電燈の

  ひとつの青い照明です

  (ひかりはたもち、その電燈は失はれ)

   

  これらは二十二箇月の

  過去とかんずる方角から

  紙と鉱質インクをつらね

  (すべてわたくしと明滅し

   みんなが同時に感ずるもの)

  ここまでたもちつゞけられた

  かげとひかりのひとくさりづつ

  そのとほりの心象スケツチです

   

  これらについて人や銀河や修羅や海胆は

  宇宙塵をたべ、または空気や塩水を呼吸しながら

  それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが

  それらも畢竟こゝろのひとつの風物です

  たゞたしかに記録されたこれらのけしきは

  記録されたそのとほりのこのけしきで

  それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで

  ある程度まではみんなに共通いたします

  (すべてがわたくしの中のみんなであるやうに

   みんなのおのおののなかのすべてですから)

   

  けれどもこれら新生代沖積世の

  巨大に明るい時間の集積のなかで

  正しくうつされた筈のこれらのことばが

  わづかその一点にも均しい明暗のうちに

    (あるひは修羅の十億年)

  すでにはやくもその組立や質を変じ

  しかもわたくしも印刷者も

  それを変らないとして感ずることは

  傾向としてはあり得ます


  けだしわれわれがわれわれの感官や

  風景や人物をかんずるやうに

  そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに

  記録や歴史、あるひは地史といふものも

  それのいろいろの論料(データ)といつしよに

  (因果の時空的制約のもとに)

  われわれがかんじてゐるのに過ぎません


  おそらくこれから二千年もたつたころは

  それ相当のちがつた地質学が流用され

  相当した証拠もまた次次過去から現出し

  みんなは二千年ぐらゐ前には

  青ぞらいつぱいの無色な孔雀が居たとおもひ

  新進の大学士たちは気圏のいちばんの上層

  きらびやかな氷窒素のあたりから

  すてきな化石を発堀したり

  あるひは白堊紀砂岩の層面に

  透明な人類の巨大な足跡を

  発見するかもしれません

   

  すべてこれらの命題は

  心象や時間それ自身の性質として

  第四次延長のなかで主張されます

 

     大正十三年一月廿日      宮 澤 賢 治









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HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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