私にとって、人生で一番悲しかったこと。
このことを、思い出して、何歳の時でも、泣けた。
今も、泣いてしまう。
私の母は、なぜ、あんなふうだったのか、私は。今でもわからない。死別して17年たつけど、どう考えても理解できない。
私が、高校生ぐらいの時だったと思うのだけど、
母が、父のことを馬鹿にして「あんな頼りない人と結婚して、私は一生何も面白いことがない」というので・・・
母の同級生には、夫が文化勲章を受章した人とか、とても稼ぎのいいお医者さんとかがいたのね。
ところが、父は「伊藤萬さんの末裔」というだけで、会社では生涯平社員だし(自分の祖父が作った会社なのに)、勲章もなければ、稼ぎも悪い、あげく、祖父が亡くなったあとの形見分けでも、一番値打ちの無いのをもらってくる。
「本当に!こんな人と結婚して、私は不幸や」と母が言うので、
「そんなこと言わないで、私が、いるやん」と、母に寄り添ったの。
そしたら、母は、私を冷たく突き放して
「あんた!あんたさえ生まれなかったら、私は離婚して、違う人生が歩めたのに、あんたが生まれたばっかりに、こんなつまらない人生になった」と、
言い放った。
子どもといううものはね、親は絶対。かけがえのないもの。その親を、喜ばせたくて、一生懸命努力するものです。
父に代わって、私が、あなたのために、何か誉を獲得してくるから…そういいたかったのに。
「あんたが生まれたことが、人生の不幸の始まりだ」と言われて、私は、息をのんだ。
その時は、泣かなかったけど、おもいだすために泣いてしまう。今だって。
親に「出生を祝福されないどころか、呪われるなんて!」
生まれてきて、悪かったね。ごめんね。と言わなければならないなんて。
私、生んでくれと頼んだ覚えはない。
それから、ずっと、死にたいと考えるようになった。
初めは飛び降り自殺を、企画した。でも、担任の先生のふとした言葉に気をそらされて、もう一度生きてみようかと思った。
その次は、阪急六甲のプラットホームから線路に飛び込もうかと思った。
生まれてきて悪かったのなら、一日も早く消えてあげようと考えたよ。
でも、電車を止めると、最低でも30万は払わないといけないと知って、鉄道自殺はやめることにした。
ガス自殺や、毒は、死んでから、斑点だらけになると知って、それは、まずいと思った。
結局、どの段階で、そういう気持ちを整理したかというと、私は、母の所有物でも何でもない。私は、独立した人間。誰の何でもない。私は、おそらく、自分の意志でこの世に出てきて、その生を全うするのに、なんの、母に気がねなんか要るものか、と思うようになってから。
あの人は、親でもないし、なんでもないと、思い限った。でないと、悲しすぎた。
そうはいっても、生まれたてのころは、世話になっている。母乳は出なかったから、その恩はないけど。でも、一人では生きてない。
だから、何の恩もないとは言わないけどね。
13歳の時、3歳下の弟が、テレビのチャンネルをがちゃがちゃして、壊してしまったことがあった。
母は、「勉強もしないで、テレビばっかり見て、そのうえ、がちゃがちゃチャンネルを変えまくるから、テレビが壊れた」と、弟をしかりつけた。
怒っていると、次から次へと叱るネタが出てきて、「偏食で、ご飯もしっかり食べない」と、言っている所へ、父が帰ってきた。
弟は、夕飯のおかずが気に入らないから食べないと意地を張っていた。
すると、父が、こそこそと立ち上がって「卵焼きなら。食べられるか?つくってやろか?」と、言ったために、母の怒りに油を注いだ。
「だいたいあんたが、そうやって甘やかすから、こんな強情な子になった、あんたのせいや」と、矛先が父に向かった。
そこから、際限のない夫婦げんかになったので、私と弟は、二階の寝室に引き上げた。
ねようとしていると、父がやってきて
「ママが実家に帰ると言っているので、起きてきて、お別れを言いなさい」という。
それを聞いたとき、私は、飛び上がるぐらい嬉しかった。階段を降りながら、母がいなくなったら、私が炊事洗濯をすればいいや、と、胸算用。
階段の下の暗い狭い廊下で、父が「さよなら」を言いなさいという。
私は、小さな声で「さよなら」と言ったよ。
ところが、半分寝ボケている弟が、わっと泣き出して、止まらなくなった。
それを見ていた父は、すばやく母のあとを追いかけて「息子が泣いているから、もどってくれ」と言って、連れ戻してきた。
せっかく、出て行ったのに。
これから、私が切り盛りしようと考えていたのに。
あっという間に、元の木阿弥。
あのとき、母さえ実家に帰っていたら。弟も、あれ以上破壊されないで、なんとか、まともな大人になれたのではないかと、私は、事あるたびに思った。
毎日毎日「あの人の子供やから、あんたなんか、ろくな大人にならない」と、言われまくって、弟は引きこもって、精神障碍者になってしまったじゃないか。
あーあ、でも、私は、ちゃんと「さよなら」といったのに、疫病神を引き戻したのは弟自身だから。
自分で、自分の未来を断つような動きをしたんだから。仕方がないなあと、ため息。
弟は、私と違って母を愛していたのでしょうね。
思い出したくもないけど、たまには、思い出す。
生家の肉親が3人とも、鬼籍に入って、私は、ようやく安心して暮らせるようになった。
人は生きてりゃいいってものでもないよ。
いなくなってくれて、ようやく周囲が救われるってことは実際にあるよ。
私は、大人になる前に、母を思い限ったから、まったく、つれない娘だったと思う。
もっと、何とかできなかったかなあと、思い返すのだけど、
「あんたなんか、もっと不幸になれ!」と、実際に言われてしまえば。
そう簡単に、仏心は起きないよ。
死別した後も、宿題を果たせないままになったなあと思うけど。
いくら、譲歩しても、いくら歩み寄っても、だめだったのよ。
ひどく、自分の親を恨んでいる人だったからねえ。
親に感謝なんかしたことない、恨みこそすれ感謝なんかないっていうのが、口癖だったものね。
本当に、難しい人だった。
いや、むしろ、私はよくまあ、精神異常にならなかったと思う!!
と思うたびに、いや、もしかしたら、これで十分、頭がおかしいかもって思い返すよ。
このことを、思い出して、何歳の時でも、泣けた。
今も、泣いてしまう。
私の母は、なぜ、あんなふうだったのか、私は。今でもわからない。死別して17年たつけど、どう考えても理解できない。
私が、高校生ぐらいの時だったと思うのだけど、
母が、父のことを馬鹿にして「あんな頼りない人と結婚して、私は一生何も面白いことがない」というので・・・
母の同級生には、夫が文化勲章を受章した人とか、とても稼ぎのいいお医者さんとかがいたのね。
ところが、父は「伊藤萬さんの末裔」というだけで、会社では生涯平社員だし(自分の祖父が作った会社なのに)、勲章もなければ、稼ぎも悪い、あげく、祖父が亡くなったあとの形見分けでも、一番値打ちの無いのをもらってくる。
「本当に!こんな人と結婚して、私は不幸や」と母が言うので、
「そんなこと言わないで、私が、いるやん」と、母に寄り添ったの。
そしたら、母は、私を冷たく突き放して
「あんた!あんたさえ生まれなかったら、私は離婚して、違う人生が歩めたのに、あんたが生まれたばっかりに、こんなつまらない人生になった」と、
言い放った。
子どもといううものはね、親は絶対。かけがえのないもの。その親を、喜ばせたくて、一生懸命努力するものです。
父に代わって、私が、あなたのために、何か誉を獲得してくるから…そういいたかったのに。
「あんたが生まれたことが、人生の不幸の始まりだ」と言われて、私は、息をのんだ。
その時は、泣かなかったけど、おもいだすために泣いてしまう。今だって。
親に「出生を祝福されないどころか、呪われるなんて!」
生まれてきて、悪かったね。ごめんね。と言わなければならないなんて。
私、生んでくれと頼んだ覚えはない。
それから、ずっと、死にたいと考えるようになった。
初めは飛び降り自殺を、企画した。でも、担任の先生のふとした言葉に気をそらされて、もう一度生きてみようかと思った。
その次は、阪急六甲のプラットホームから線路に飛び込もうかと思った。
生まれてきて悪かったのなら、一日も早く消えてあげようと考えたよ。
でも、電車を止めると、最低でも30万は払わないといけないと知って、鉄道自殺はやめることにした。
ガス自殺や、毒は、死んでから、斑点だらけになると知って、それは、まずいと思った。
結局、どの段階で、そういう気持ちを整理したかというと、私は、母の所有物でも何でもない。私は、独立した人間。誰の何でもない。私は、おそらく、自分の意志でこの世に出てきて、その生を全うするのに、なんの、母に気がねなんか要るものか、と思うようになってから。
あの人は、親でもないし、なんでもないと、思い限った。でないと、悲しすぎた。
そうはいっても、生まれたてのころは、世話になっている。母乳は出なかったから、その恩はないけど。でも、一人では生きてない。
だから、何の恩もないとは言わないけどね。
13歳の時、3歳下の弟が、テレビのチャンネルをがちゃがちゃして、壊してしまったことがあった。
母は、「勉強もしないで、テレビばっかり見て、そのうえ、がちゃがちゃチャンネルを変えまくるから、テレビが壊れた」と、弟をしかりつけた。
怒っていると、次から次へと叱るネタが出てきて、「偏食で、ご飯もしっかり食べない」と、言っている所へ、父が帰ってきた。
弟は、夕飯のおかずが気に入らないから食べないと意地を張っていた。
すると、父が、こそこそと立ち上がって「卵焼きなら。食べられるか?つくってやろか?」と、言ったために、母の怒りに油を注いだ。
「だいたいあんたが、そうやって甘やかすから、こんな強情な子になった、あんたのせいや」と、矛先が父に向かった。
そこから、際限のない夫婦げんかになったので、私と弟は、二階の寝室に引き上げた。
ねようとしていると、父がやってきて
「ママが実家に帰ると言っているので、起きてきて、お別れを言いなさい」という。
それを聞いたとき、私は、飛び上がるぐらい嬉しかった。階段を降りながら、母がいなくなったら、私が炊事洗濯をすればいいや、と、胸算用。
階段の下の暗い狭い廊下で、父が「さよなら」を言いなさいという。
私は、小さな声で「さよなら」と言ったよ。
ところが、半分寝ボケている弟が、わっと泣き出して、止まらなくなった。
それを見ていた父は、すばやく母のあとを追いかけて「息子が泣いているから、もどってくれ」と言って、連れ戻してきた。
せっかく、出て行ったのに。
これから、私が切り盛りしようと考えていたのに。
あっという間に、元の木阿弥。
あのとき、母さえ実家に帰っていたら。弟も、あれ以上破壊されないで、なんとか、まともな大人になれたのではないかと、私は、事あるたびに思った。
毎日毎日「あの人の子供やから、あんたなんか、ろくな大人にならない」と、言われまくって、弟は引きこもって、精神障碍者になってしまったじゃないか。
あーあ、でも、私は、ちゃんと「さよなら」といったのに、疫病神を引き戻したのは弟自身だから。
自分で、自分の未来を断つような動きをしたんだから。仕方がないなあと、ため息。
弟は、私と違って母を愛していたのでしょうね。
思い出したくもないけど、たまには、思い出す。
生家の肉親が3人とも、鬼籍に入って、私は、ようやく安心して暮らせるようになった。
人は生きてりゃいいってものでもないよ。
いなくなってくれて、ようやく周囲が救われるってことは実際にあるよ。
私は、大人になる前に、母を思い限ったから、まったく、つれない娘だったと思う。
もっと、何とかできなかったかなあと、思い返すのだけど、
「あんたなんか、もっと不幸になれ!」と、実際に言われてしまえば。
そう簡単に、仏心は起きないよ。
死別した後も、宿題を果たせないままになったなあと思うけど。
いくら、譲歩しても、いくら歩み寄っても、だめだったのよ。
ひどく、自分の親を恨んでいる人だったからねえ。
親に感謝なんかしたことない、恨みこそすれ感謝なんかないっていうのが、口癖だったものね。
本当に、難しい人だった。
いや、むしろ、私はよくまあ、精神異常にならなかったと思う!!
と思うたびに、いや、もしかしたら、これで十分、頭がおかしいかもって思い返すよ。