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人生の外部委託

「隠居爺の世迷言」過去記事のひとつで、文学関係記事だが、現代文明論として面白い。
私がこれを読んで思ったのが「外部委託」の問題、ビジネス用語では「アウトソーシング」とかいう奴だ。現代の人間は自分の能力をかなりアウトソーシングしている。分かりやすく言えば「他人任せ」にしているということだ。
私が今書いているこの文章も、言葉の漢字変換をパソコンに任せている。昔なら、自分の脳の中にある語彙で文章を書いたが、今の人間の語彙や知識はネットから適当に探すのである。だから無惨な言葉間違いがネットには溢れている。
歩くことは自動車や電車任せだから、足が弱くなる。歩かない代わりに、ジムに通って高いカネを払って運動したりするが、それはまあ外部委託ではないだけマシか。
メシはコンビニ弁当かハンバーガーで済ます。自分で料理したら台所が汚れ、片づけや掃除か面倒だから、食事は自分では作らないわけだ。
外部委託の最たるものは実は教育だろう。これはほとんどの人が昔から外部委託していた。まあ、家庭教育というのもあったが、それは家事や道徳だけだろう。

で、結論は無い。我々は、自分の人生の重要部分を外部委託しているのではないか、と問いかけるだけである。幸い、物事を考えることだけは本質的には外部委託できない。やっているのはただ「判断を他人任せにする」だけである。


(以下引用)

夢十夜(第六夜) 夏目漱石



テーマ:

前回夏目漱石のことを取り上げたので、その勢いで「夢十夜」の第六夜について考えてみたい。この第六夜は地味な話であるが、難解なことについては他と同様である。以下あらすじをご紹介するが、短いので「青空文庫」ですぐに読める。

なお、これまで当ブログでは第一夜と第十夜を取り上げて書いたことがある(夢十夜(第一夜) 夏目漱石)(夢十夜(第十夜) 夏目漱石)
 
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第六夜

運慶(平安末~鎌倉初期に活躍した仏師。名匠。)が仁王を彫っているという評判なので行ってみると、鎌倉時代と思われる護国寺の山門で、明治の見物人が大勢集まっている。

運慶は見物人を気にすることなく、ノミと槌で一生懸命に彫っている。自分が「よくあんなに無造作にノミを使って、眉や鼻ができるものだな」と独り言のように言うと、一人の若い男が、「あれはノミで作るんじゃない。木の中に埋まっている眉や鼻を掘り出しているんだ。土の中から石を掘り出すようなものだ。」と言った。

自分は、彫刻とはそんなものかと思い、それならば誰にでもできるはずだと考えた。そして、自分も仁王を彫りたくなり、見物をやめて家に帰った。

道具箱から金槌とノミをとり出し、裏庭にあった薪にするつもりで置いてあった手ごろな大きさの樫の木を選んで、勢いよく彫り始めた。しかし、不幸にして仁王は見当たらなかった。その次のにも、3番目のにも仁王はいなかった。次々と彫ってみたが、どれにも仁王はいなかった。

結局、明治の木には仁王が埋まっていないと理解した。それで、運慶が今日まで生きている理由もほぼ分かった。

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これだけの話であるが、意味を汲み取ろうとすると難しい。おそらく、標準的な解釈などはないように思う。そこで、上の要約を私なりにさらに短くして箇条書きにしてみる。

① 昔の名人が一生懸命彫刻をしていたが、見ている限りにおいては簡単に見える。
② 自分にもできそうだったのでやってみたが、うまく行かなかった。
③ 今の時代でうまくやるのは無理で、それゆえ昔の名人が生き残っているのだろうと思った。

上記①と②であれば、誰しも思い当たることがあるはずだ。 彫刻に限らず、絵でも、スポーツでも、料理でも、ピアノでも、ゲームでも、上手な人がやっているのを見ると、大体は簡単に見える。あんな程度なら、自分もいつでもできるのではないかと思える。

しかし、実際にとりかかってみると、全く歯が立たないということがほとんどである。子供ですらバカにできないことが多く、ある程度熟練した子供というのは恐ろしく上手だったりする。

ところで、第六夜の運慶が彫刻を「掘り出している」という表現を見ると、運慶の作業がかなり定型化されているような印象を受ける。つまり、彫るに当たって一々構図を考えたり、彫りの深さや曲線を吟味したりすることなく、あらかじめ定型化、定式化された方法に従っているように思える。

これは、武道だと分かりやすい。柔道でも空手でも、繰り出す技は決まっている。戦うに当たって、一回一回自分で考え、編み出した技を使っているのではなく、すでに身に付けた型の中から選択してとっさに繰り出している。

型だから柔軟性や融通性に乏しいということでもない。私たちは普通は何の苦労もなく歩いているが、歩く動作も型というか、技というか、術というか、そんなものである。無意識で決まり切った体の動かし方をするが、石があればよけ、溝があればまたぐなど自由自在である。

おそらく、第六夜の運慶は、私たちが歩くがごとく仁王を彫っていたに違いない。加えて、歩く際に石をよけ、溝をまたぐがごとく、木の性質に合わせてノミを当てるのだろう。そのせいで面白いようにスムーズに木が削れ、まるで木の中に隠れていた仁王が出てきたように見えるのではないか。

ということで、①と②は名人の素晴らしさを書いたものということでひとまず納得しておく。残りの③はどのようなことになるだろうか。第六夜に則して言えば、「鎌倉時代の運慶が、生まれ変わって今の時代に再登場することはない」と理解していいかもしれない。

私などは、特に意識はしないものの、昔よりも今の時代は進歩していると漠然と思ってしまう。たしかに、科学技術の進歩により、様々なことができるようになった。遠くに行けるようになった、おいしいものも食べれるようになった、快適な家に住めるようになった、情報もたくさん手に入るようになった。

しかし、疑わなくてはならないことは、いろいろなことができるようになった分、できなくなったこともあるのではないかということである。例えば、江戸時代には車がなかった。人々は、東京から京都に行こうとしたときには歩くしかなかった。そして、江戸時代の人々は、東京から京都に歩いていくのに必要なものを身に付けていた。

歩く旅はつらく危険なこともあっただろうが、今とは違った旅の楽しみもあったに違いない。現在の私たちは簡単に短時間で長距離の旅をすることができるようになった一方で、東京から京都まで歩いて旅をする能力も、体力も、楽しみも失っているのである。

ここまで書いてふと思いついたのは、医者の能力低下である。今の医者は検査で病状を判断する。しかし、昔は検査などなかった。あったのは体温計、血圧計、聴診器、触診くらいのものである。まずはそれで判断を下した。今の検査漬けの医療と較べて精度は低かったはずだが、医者の直感力は何倍も鋭かったはずである。

それで、今回の新型コロナウイルス騒動も理解できる。さして役にも立たないあんなPCR検査をなぜ必要と騒ぐのか全く理解できなかったが、今の医者は検査がなければ何も分からないのである。また、新型コロナウイルスのように未知の病となると、データがないせいで何もできないのである。

私など、専門家でも何でもない者が、なぜ医者よりも新型コロナウイルスのことをよく分かるのか不思議でならなかったが、あるいは、医者はなぜ素人よりも能力が低いのか不思議でならなかったが、検査が発達した分、医者の能力が低くなったと考えていいのではないだろうか。昔の医者なら、新型コロナウイルスに感染した人を見て、その様子を観察して、どうすべきか判断できたが、今の医者はそれができなくなった。

能力が低くなったのは、医者ばかりではなく、政治家も、官僚も、マスコミも、国民もである。おそらく、50年前なら今回の新型コロナウイルスは何の騒ぎにもならなかったはずだ。なぜなら、被害が生じていないからである。50年前の日本人なら、被害のゼロのことで騒ぐことはなかったように思う。


 


ところが、現在は被害がなくても騒ぐ。私は昔の人間なので、その気持ちがちっとも分からないのだが、昔に較べて、ある面では日本人全体の能力が低くなったのではないかと思う。

私たちは、進歩した社会に暮らせば暮らすほど、また、便利で豊かな生活ができればできるほど、自分自身の人間としての能力を失い、理解や判断のできる範囲が狭くなっていると考えた方がいいのかもしれない。

時代を遡れば遡るほど、人間は生きていくのが大変だったはずである。しかし、その分、人々は神経を研ぎ澄まし、感覚を磨いて、できるだけ自分自身の能力を高めようとした。それゆえ、昔の方が今の人間よりも能力が高かったとしても不思議はない。

愚かになった現在の人間をもっと賢くするために、何かうまい解決法はないものだろうか。


 


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