今日の「徽宗皇帝のブログ」で福島原発汚染水の問題を扱ったが、その補足として「反戦な家造り」から転載する。
日本の原発が米国の核戦略の一部であるということを指摘したのは苫米地英人だったが、その指摘した事も多くの人の認識に上ってきたようである。つまり、日本は米国の意思に逆らうことは不可能であるから、原発問題を日本政府の意思で決めることはできないわけだ。したがって、国民の過半数が反対した原発再稼働が国民意思を無視して決定され、さらに図々しく、電力料金値上げによって電力会社の免罪がいわば公式表明される、ということも不思議ではない。すべては宗主国の意思一つ、ということである。
ならば、ここで我々が問うべきことは、下記記事のタイトルのとおり、「僕たちは何と闘っているのか」であろう。
前に書いたように、戦う相手を間違えた戦いほど無意味なものはない。
日本が米国から本当に独立することが、大きな意味では(放射能汚染問題、TPP問題など)国民の生命と生活を守ることになり、また未来の子孫たちの幸福にもつながるのである。
そのための方法については、またいずれ考えたい。
(以下引用)
僕たちは何と闘っているのか
原発や放射能やTPPや消費税や、つぎつぎとトンデモナイものが押し寄せてくる。
とにかくそれに反対し、なにがしかの声を上げている人びとは、「闘っている」という実感を持っていることだろう。
だが、闘う以上は敵がある。敵が何なのか、どこにいるのか、何を考えているのか 分かっているのだろうか。
例えば原発。
原子力村という言い方がされる。テレビでも電力会社、官僚、政治家、御用学者などなど、それらしい面々が映る。こいつらの利権のために原発は推進されているんだ。そう思って闘っている人も多いだろう。
でも、ちょっと考えてみよう。日本国内の原発を止めたら、連中の食い扶持は本当になくなるのか?
たしかに、税金だけでも年間数千億円、さらに総括原価方式による電気料という名目で原発存在料を国民からいくらでも吸い上げることのできる「原発」という化け物は、その利権に与るものにとっては、天上の甘露であり、命より美味しい麻薬だということは、多くの人の指摘するとおりである。
原発という麻薬を口にした者達は、人間性を破壊され、理性を失い自分にとっての利害すら冷静に判断することができなくなっている。その気になれば、他の方法で同様の利権をむさぼることもできるのに、もう「原発」以外には何も考えられなくなっている。
いわゆる「原子力村の住人」というのは、ほとんどがこうした化け物たちである。
しかし、私は不思議に思うのである。
中長期の見通しも立てられないこうした麻薬患者が、本当に原発推進の大本営なのだろうか? と。
利益だけなら、必ずしも原発ではなくても吸い上げる方法はいくらでもある。
太陽電池であろうと、ガスコンバインドであろうと、あくどい連中が結託してあくどいカネの算段をすれば、同じような利権を構築することは、充分にできる。
どうしても原発で儲けたいむきには、輸出という「明るい未来」が開けている。
事実、事故直後の菅政権下において、こちらの方向に進みかけた時期もあった。
目の前の麻薬しか目に入らない連中は、切り捨てられるかに見えた。
実を言えば、2011年の後半には、私はかなりの確率で脱原発は実現するのではないかと思っていた。他でどんなに利権をむさぼられようと、とりあえず原発が止まるのなら、止まらないよりはいいと考えていた。
ところが、その後の野田政権では、原発中毒患者が息を吹き返し、日本の「原子力中毒村」は存続が決まった。
20万人からの人々が首相官邸や国会を取り囲むという、戦後史に特記すべき事態に対しても、「大きな音だね」とうそぶく野田政権は、自らの党がボロボロになることも省みず、一切動揺することなく原子力中毒村を復活させた。
この様子を見ていて、私は自分の認識が甘かったことを思い知った。
原発を、日本の原子力を動かしているのは、まったく別の力が働いている。そのことに、遅まきながら気がついた。
■■
逆から考えれば、実は簡単なことだったのである。
日本の原発を全て止めて、脱原発を宣言したときに、一番困るのは何なのか。
それは、誰が「日米原子力協定を破棄するのか」ということ。
5年後に更新期限を迎える日米原子力協定。これがある限り、日本が勝手に「原発やめました」とは言えないのである。
日米地位協定を残したまま「米軍基地は無くします」とは絶対に言えないのと同じことだ。
もちろん、形式的には5年後の更新時の半年前に事前通告すれば、日米原子力協定は破棄することはできる。5年間は使いもしないウランを買い続けたり、いろいろと矛盾もあるが、形式的には不可能ではない。
また、オバマ政権は基本的には原発に消極的だ。核軍縮も進めている。だったら、日米原子力協定だって止められるのではないか。そのようにも見える。
それは、日米原子力協定が何のためにあるのか、ということを見ない議論になってしまう。
原子力というからわかりにくい。Nuclear 核 である。
原子力発電についての協定ではなく、米国の核戦略にかかわる協定なのである。
要点中の要点を抽出するならば
①日本の核は米国が管理する
②日本では再処理によってプルトニウムを製造・貯蔵すべし
という2点に尽きる。
①は米国にすれば当然の話ではある。
では、②のプルトニウムは何なのだろうか。
米国にとってのプルトニウムとは、自らの核武装に無くてはならぬものであると同時に、あまりの危険性ゆえに、できれば自分では持っておきたくない地獄の門番なのでる。
米国も最初は自国内で使用済み燃料からプルトニウムを作る再処理を試みたが、余りの危険性と費用の増大に1970年代には放棄してしまった。
そこで考えたのが、遠くはなれた属国で、使用済み燃料からプルトニウムを作らせて、貯蔵させておこうという戦略である。
日本は、自分では原子力発電をやっているつもりかもしれないが、実際は、米国の核原料貯蔵庫であり、再処理実験場であり続けてきたのである。
その日本が、自分の都合で、原発辞めます とは言えない、言わせてもらえないのだ。
■■
日本の原発が米国の核戦略の一部であるということを指摘したのは苫米地英人だったが、その指摘した事も多くの人の認識に上ってきたようである。つまり、日本は米国の意思に逆らうことは不可能であるから、原発問題を日本政府の意思で決めることはできないわけだ。したがって、国民の過半数が反対した原発再稼働が国民意思を無視して決定され、さらに図々しく、電力料金値上げによって電力会社の免罪がいわば公式表明される、ということも不思議ではない。すべては宗主国の意思一つ、ということである。
ならば、ここで我々が問うべきことは、下記記事のタイトルのとおり、「僕たちは何と闘っているのか」であろう。
前に書いたように、戦う相手を間違えた戦いほど無意味なものはない。
日本が米国から本当に独立することが、大きな意味では(放射能汚染問題、TPP問題など)国民の生命と生活を守ることになり、また未来の子孫たちの幸福にもつながるのである。
そのための方法については、またいずれ考えたい。
(以下引用)
僕たちは何と闘っているのか
原発や放射能やTPPや消費税や、つぎつぎとトンデモナイものが押し寄せてくる。
とにかくそれに反対し、なにがしかの声を上げている人びとは、「闘っている」という実感を持っていることだろう。
だが、闘う以上は敵がある。敵が何なのか、どこにいるのか、何を考えているのか 分かっているのだろうか。
例えば原発。
原子力村という言い方がされる。テレビでも電力会社、官僚、政治家、御用学者などなど、それらしい面々が映る。こいつらの利権のために原発は推進されているんだ。そう思って闘っている人も多いだろう。
でも、ちょっと考えてみよう。日本国内の原発を止めたら、連中の食い扶持は本当になくなるのか?
たしかに、税金だけでも年間数千億円、さらに総括原価方式による電気料という名目で原発存在料を国民からいくらでも吸い上げることのできる「原発」という化け物は、その利権に与るものにとっては、天上の甘露であり、命より美味しい麻薬だということは、多くの人の指摘するとおりである。
原発という麻薬を口にした者達は、人間性を破壊され、理性を失い自分にとっての利害すら冷静に判断することができなくなっている。その気になれば、他の方法で同様の利権をむさぼることもできるのに、もう「原発」以外には何も考えられなくなっている。
いわゆる「原子力村の住人」というのは、ほとんどがこうした化け物たちである。
しかし、私は不思議に思うのである。
中長期の見通しも立てられないこうした麻薬患者が、本当に原発推進の大本営なのだろうか? と。
利益だけなら、必ずしも原発ではなくても吸い上げる方法はいくらでもある。
太陽電池であろうと、ガスコンバインドであろうと、あくどい連中が結託してあくどいカネの算段をすれば、同じような利権を構築することは、充分にできる。
どうしても原発で儲けたいむきには、輸出という「明るい未来」が開けている。
事実、事故直後の菅政権下において、こちらの方向に進みかけた時期もあった。
目の前の麻薬しか目に入らない連中は、切り捨てられるかに見えた。
実を言えば、2011年の後半には、私はかなりの確率で脱原発は実現するのではないかと思っていた。他でどんなに利権をむさぼられようと、とりあえず原発が止まるのなら、止まらないよりはいいと考えていた。
ところが、その後の野田政権では、原発中毒患者が息を吹き返し、日本の「原子力中毒村」は存続が決まった。
20万人からの人々が首相官邸や国会を取り囲むという、戦後史に特記すべき事態に対しても、「大きな音だね」とうそぶく野田政権は、自らの党がボロボロになることも省みず、一切動揺することなく原子力中毒村を復活させた。
この様子を見ていて、私は自分の認識が甘かったことを思い知った。
原発を、日本の原子力を動かしているのは、まったく別の力が働いている。そのことに、遅まきながら気がついた。
■■
逆から考えれば、実は簡単なことだったのである。
日本の原発を全て止めて、脱原発を宣言したときに、一番困るのは何なのか。
それは、誰が「日米原子力協定を破棄するのか」ということ。
5年後に更新期限を迎える日米原子力協定。これがある限り、日本が勝手に「原発やめました」とは言えないのである。
日米地位協定を残したまま「米軍基地は無くします」とは絶対に言えないのと同じことだ。
もちろん、形式的には5年後の更新時の半年前に事前通告すれば、日米原子力協定は破棄することはできる。5年間は使いもしないウランを買い続けたり、いろいろと矛盾もあるが、形式的には不可能ではない。
また、オバマ政権は基本的には原発に消極的だ。核軍縮も進めている。だったら、日米原子力協定だって止められるのではないか。そのようにも見える。
それは、日米原子力協定が何のためにあるのか、ということを見ない議論になってしまう。
原子力というからわかりにくい。Nuclear 核 である。
原子力発電についての協定ではなく、米国の核戦略にかかわる協定なのである。
要点中の要点を抽出するならば
①日本の核は米国が管理する
②日本では再処理によってプルトニウムを製造・貯蔵すべし
という2点に尽きる。
①は米国にすれば当然の話ではある。
では、②のプルトニウムは何なのだろうか。
米国にとってのプルトニウムとは、自らの核武装に無くてはならぬものであると同時に、あまりの危険性ゆえに、できれば自分では持っておきたくない地獄の門番なのでる。
米国も最初は自国内で使用済み燃料からプルトニウムを作る再処理を試みたが、余りの危険性と費用の増大に1970年代には放棄してしまった。
そこで考えたのが、遠くはなれた属国で、使用済み燃料からプルトニウムを作らせて、貯蔵させておこうという戦略である。
日本は、自分では原子力発電をやっているつもりかもしれないが、実際は、米国の核原料貯蔵庫であり、再処理実験場であり続けてきたのである。
その日本が、自分の都合で、原発辞めます とは言えない、言わせてもらえないのだ。
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