「学校の授業は無駄。教科書さえあればいい」というスレッドのコメントのひとつだが、こういう「対面授業・集団授業」の根本的問題を真面目に考えている教育者はほとんどいない気がする。単に教師の学力や熱心さの問題だけが論議されていないか。
そもそも「教える」という行為が絶対善とされているから、「授業を聞く」ことも当然視され、「自分で考える」という部分が疎かになる、という気もする。だが、「授業を聞く」ということは、聞いている間は「自分で考える」ことが不可能なのである。
教師は「教えたつもり」になり、生徒は「教わったつもり」になるだけで実は何も理解していない、という授業が膨大にあるような気がする。
もちろん、最初から聞く気もなく理解する気もない、と言うか理解できる気にならないという生徒も膨大にいるわけである。
(以下引用)赤字は夢人による強調。まさに学生のころ授業中に私が無数に経験したことである。当時は気づかなかったが、軽い難聴で「聴覚の解像度」が低かった気もする。思考スピードが遅かったというのもある。
そもそも「教える」という行為が絶対善とされているから、「授業を聞く」ことも当然視され、「自分で考える」という部分が疎かになる、という気もする。だが、「授業を聞く」ということは、聞いている間は「自分で考える」ことが不可能なのである。
教師は「教えたつもり」になり、生徒は「教わったつもり」になるだけで実は何も理解していない、という授業が膨大にあるような気がする。
もちろん、最初から聞く気もなく理解する気もない、と言うか理解できる気にならないという生徒も膨大にいるわけである。
(以下引用)赤字は夢人による強調。まさに学生のころ授業中に私が無数に経験したことである。当時は気づかなかったが、軽い難聴で「聴覚の解像度」が低かった気もする。思考スピードが遅かったというのもある。
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ノートも取るのに手間とられるし、後で読み直すほど、時間も無いし。
結局、最終的に偏差値が大きく上がったのは、参考書を自分のペースで読んで、自分で理解しながら進める方法だった。俺にはこれが合ってた。