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「お前(日本)は既に死んでいる」?

「ネットフリックス」で「三島VS全共闘」(副題は「50年目の真実」だったと思う。)の後半を見たが、前半の哲学問答とは異なり、「三島にとっての天皇とは何か」というのが主なテーマになっていて面白かった。まあ、三島には「天皇のあるべき姿」というのがあって、それは「天皇親政」という政体での天皇であったようだ。それはもちろん戦後の人間宣言後の象徴天皇とはほど遠いもので、三島はそれが大いに不満であったのだろう。
三島がなぜ天皇親政を理想としたのかは私には分からないが、天皇が日本文化の特性である「菊と刀」の合一の象徴であるなら、天皇こそが政治の実権者でなかったらおかしいという、単純なものかもしれない。つまり、天皇親政でないかぎり、政権を握る者は必然的に天皇の政治的上位者になるからである。
しかし、それこそがまさに日本の政治の常態だったのではないか。「刀(武)」を政権担当者に完全に任せて、天皇と宮廷は風雅に「菊(文)」の世界に遊ぶ姿こそが日本文化の常道ではなかったか。それをも「偽善」だとすれば、日本の歴史と文化は偽善の歴史であり偽善の文化だったことになるだろう。
まあ、それはともかく、「天皇親政」と「直接民主主義」(おそらく全共闘の理想の政体だったと思う。)は、実はよく似ているという、ゲスト解説者(?)のひとり(確か内田樹だったと思う。)の言葉は面白い。つまり、どちらも主権者(治める者)と国民(治められる者)との間に政府という「媒介物」が存在しない、ということだ。それは、「媒介物による政治権力の簒奪」が生じないということである。もちろん、厳密には天皇親政でも直接民主制でも政府は存在するし、政治担当者が別に生じて、その担当者が政治主権を簒奪することになるだろうが、ここではあくまで原理原則の話である。
要するに、三島と全共闘は政治的には右と左に機械的に分別されながら、実はその精神はよく似ていたのではないか。それは、両者とも戦後民主主義を偽善のシステムと見做し、その変革を切望していたということである。しかし、彼らの時代には、「日本は属国であり、日本はジャパンハンドラーに操作されている」という認識がまだ明晰に意識されていなかったのだろう。だから、全学連も「安保条約破棄」でとどまり、その後の日本の「独立」と「独立後の政治システムをどうするか」という議論が起こらず、したがって全学連運動は国民的な運動(反米運動)に発展しなかったのである。
さて、今はどうだろうか。日本は属国だという意識はありながら「属国でいいんじゃね?」という若者が大半になっているような気が私にはする。つまり、日本文化も日本精神も滅びたわけで、それは日本という国は形骸としてしか存在しないということになるわけだ。まあ、それならそれで、世界の人間がすべて「世界人」になる未来を構築するという思想も「あり」だろうが、胴長短足で黄色い顔の日本人は劣等人種として嘲笑されながら、その世界で生きることになるのではないかwww






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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
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