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「いのちを捧げる」考

糸井重里の古いツィートだが、この男の事大主義的本性が見え透く発言だと思う。
まあ、事大主義は日本人すべての本性であり、あるいは人類すべての本性かもしれないが、醜い精神である、ということは確かだろう。

少し説明する。「いのちを捧げる」という言い方は、その「捧げる」対象が自分より上位の存在、具体的には社会的地位が高い存在であることを意味する。あるいは、宗教などの場合でも、自分より上位の存在に「捧げる」という行為があり、その言葉は使われるのである。
戦争映画や時代劇だと、「いのちを捧げる」対象は何か。言うまでもなく、国家であり、藩である。それ以外の場合には「捧げる」とは言わない。「七人の侍」の武士たちは百姓たちに命を捧げたわけではない。単に「義」によって立ち上がり、命を捨てることもいとわなかっただけだ。結果的に命を「捧げた」侍たちの生き残りを百姓たちは使い終わって価値の無くなった道具のように無視する。それでいいのである。義のための行為に対し感謝を求めることは醜いからだ。

かつての戦争での死者たちは命を何かに「捧げた」わけではない。無残に無意味に殺されただけである。
それは庶民の話で、兵士たちは国家に命を捧げたのだ、と強弁する人もいるだろう。では、その国家とは何か。抽象物でしかない。「国家が存在することで国民は生きていられるのだから、国家の存続は国民の生命に優先する」というのが戦争肯定論者の言い分だ。はたしてそうか。国家が存在しなくても、原始時代の人々は存続できた。重税を取られ、戦争で殺される原因となる「国家」(実際は、国家ではなく、単なる「時の政府」と、その周辺の「上級国民」である。)ははたして最優先で守るべき存在か。



(以下引用)

戦争映画や、時代劇だと「いのちを捧げて」やらねばならないことがでてくる。いまの時代は「いのち」は無条件に守られるべきものとされるから、「いのちを捧げる覚悟」は描きにくい。映画『Fukushima50』は、事実としてそういう場面があったので、それを描いている。約2時間ぼくは泣きっぱなしだった。





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