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Day dream believers(白昼夢信者「患者」たち)

「神戸だいすき」記事だが、私とは正反対の考えである。まあ、一般的には「神戸だいすき」さんの思想のほうが好感を持たれるだろう。
サイモンとガーファンクルの「冬の散歩道」の中に「僕が自分の可能性を考えていたころ、僕は非常に気難しかった」という一節がある。「気難しい」は意訳で「I was so hard to please」が原文だ。つまり、何を見ても愉快な気持ちになれなかったわけだろう。それは「when I think of my possibility」という年頃のことだったのだが、自分の可能性を考えていたこと自体が、その原因ではなかったのか、と私は思うわけだ。これは、夢を持つこと(夢が実現できないこと)で憂鬱になっているのと同じだろう。つまり、「神戸だいすき」さんの40歳になる娘さんは、その状態であるわけだ。
前に「向上心を持つのはいいことだろうか」という変な問題提起をしたが、それと同じく「夢を持つことの危険性」あるいは「夢を見たまま現実を生きることの危険性」を私は言っている。私は昔から他人に「夢を持て」とか「夢は必ず実現する」と言う連中が大嫌い(世の「成功者」はだいたいそんな無責任なことを言うものだ。そして、ほとんどの若者はそれに洗脳される。)だったのだが、夢を持つことで不幸な人生を送ったとしても、それはあくまで自己責任で、そういう「夢先案内人」は何も責任は取らない。自分はいい事を言い、いい事をしたとすら思っているのだろう。だが、現実社会で成功者となれるのは何%いるだろうか。「小さな夢」なら成功可能性も高いだろうが、たとえば、貧しくても、家族が平和に幸福に生きていければいい、という「夢」で我慢する若者はこの資本主義社会でどれくらいいるだろうか。
「自分は東大理Ⅲに入る!」という大きな夢を持った高校生のあの事件は、「夢を持つことの危険性」を示していないだろうか。
もちろん、「夢」を持つな、というわけではない。ただ、夢は寝て見るものでしかない。目覚めていても夢を見るような生き方の危険性を私は言っているのである。夢ではなく「目標」を持ち、その「プラン(行動計画)」を持つなら大いに結構だ。
「神戸だいすき」さんは、後者だろうが、その娘さんは前者に見える。「夢」という言葉を安易に使うことは危険だと私は社会全体に対して主張する。



若いころに見る夢の大きい小さいは、問題ではない。

問題は、その夢をいつまで見続けるかだ。(シュバイツァー)


なんか、急にね、娘が、

「平穏無事に、生活できていて、家族も仲がいいのは、本当に、ありがたいことだと思うんだけど・・・でも、私の夢がまだ、かなわない。

こんなこと、不満に思うなんて、あの、お金持ちの娘が、水たまりを通るときに、貧乏人には手に入らない「白いパン」を、投げ込んで、そのパンを踏んで、靴を汚さずに渡ろうとしたら・・・

白いパンもろとも、底なしの地獄に落ちた…おとぎ話みたいに、地獄に落ちそうだけど」

と、いってきました。

まだ、40代なのに。

私からみたら、時間もたっぷりあるのに。

「大丈夫よ。いつか、かなうって。今は、そのために必要な準備期間だって。

願い続ければ願いはかなう。」

「ほかの人が、成功しているのを見ると、うらやましくてたまらないの」


「ま、そりゃあそうだろうけど。

私なんかね、いまだに、夢がかなっていない。まだ、やり遂げたいことが、残っている。」

「だから、ママは元気なのか?」

「うん、まだ、やり遂げられないことを思うと、悔しい。悔しいから、頑張る。だから、元気」



話ながら、考えてみたら、私は、多くのことを手掛け、多くのことをともかくやり遂げたけど、「夢」は、近づくたびに遠のいて、いまだ、かなわない。

それどころか、時代の変化が急激で、昭和時代に描いた夢は、すでに、現実味がない。

一人ではできないから、だれか私より若い世代を協力者に育てないと、だめだわ。

最近、以前、伝統文化の教室でお世話していた子が、中学生になって不登校だと知った。

しめた、不登校なら、暇だろうから、この子たちを、呼び込もう!!

いい考えだ!と、思ったけど、

ま、そうは問屋がおろさないわね、
学校にいけないか、行かないには、深い大きな問題があるはずで、健康な普通のくらしの子に「スーパーボールすくいの世話係をやって」というみたいに、簡単なはずない。

そこまで到達するまでに、なにか、深い溝を飛び越えないとだめだよね。

一緒に、飛び越えたいけどね、私は。

前に弟子にしようとした「不登校の男の子」は、めでたく学校に復帰できて、高校生になった今では、クラブ活動をかけもちするモテモテ男子になってしまった。

めでたい話だが、私のそばから飛び立った。

いいよ、今度出会う子たちも、飛んで行ってもいい。でも、家にこもっているのなら、私と一緒に、ちょっと、跳ねてほしい。

人生は、長い、学校だけが生活じゃない。学歴だけが重大じゃない。

夢は、むしろかなわないところに値打ちがあるかも。

追い続けるのが、楽しいのかも。


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潮位変化で繋留漁船が転覆するわけ

カマヤンがリツィートしたものだが、いい記事である。小学生でも理解できるし、一般人が漠然と疑問に思っている疑問に答えるのは、専門家の重要な仕事だろう。
ところで、転覆した繋留漁船はどうなるのだろうか。引っくり返して水を掻い出せば元通りに使えるとは思うが、作業にカネがかかるのではないか。保障制度などはあるのだろうか。まあ、デスクワークしか知らない人間たち、自分の仕事や金儲け以外は社会に興味の無い人たちには無縁の世界か。

(以下引用)


今朝の新聞に、1m未満の津波で漁船が転覆するメカニズムが載ってた。ロープの張り具合は潮位の変化に合わせてちょうど良いバランスで調整されているそうで、想定よりも数十センチ上回るだけで転覆は起きるらしい。
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「笑い」とは何か

プーシキンの「ベールキン物語」は岩波文庫(神西清訳)では「スペードの女王」と一緒に入っていて、後者のほうが有名だが、小説としての面白さや完成度の高さはむしろ前者が上だと思う。
ここ数日、久しぶりに再読したが、以前はあまり面白いと感じなかった「吹雪」「葬儀屋」「駅長」のどれも面白く、若いころより「読書力」は増した気がする。冒頭の「その一発」は何度読んでも、短編小説としての完成度の高さは世界一だとすら思うし、最後の「偽百姓娘」は、読んでいる間、こちらのニヤニヤ笑いが絶えない、実に心を楽しませる作品で、「読後感の良さ」では、これも世界一かもしれない。で、細部の描写や会話のすべてが面白いのだから、私にとって「ベールキン物語」は短編小説集の理想像だ。この五つの作品の並び自体も、よくできている。サスペンスフルでミステリー要素のある傑作「その一発」で始まり、間にいろいろな「この世の哀歓」が描かれ、最後が楽しい作品で終わる、或る意味、音楽性のある構成だ。
私が好きな作家の代表はドストエフスキーだが、彼とプーシキンに共通しているのは、「高いユーモア感覚」である。文章の端々にユーモアがあって、読むのが楽しい。たとえ作中の事件で悲惨な出来事が描かれても、全体が基本的に「この世界への愛」を感じさせるのだ。
で、ドストエフスキーと同じくらいの大作家であるトルストイには、残念ながらユーモアが非常に欠乏している。彼の作品は、鋭利なナイフでこの世界を解剖して再構成した感じであり、「小説世界の中で生きる喜び」は私はあまり感じない。これはユーモアの欠乏から来ているのだろう。笑いは、その周囲全体を明るくするのである。
ここで、ユーモアと「冷笑」の違いが問題になる。冷笑はその世界を明るくしない。私がチェーホフの作品をあまり好まないのは、ふつう「ユーモアに溢れている」とされているチェーホフの「笑い」が実は冷笑だからではないか、という気がする。作者自身、物凄いリアリストで、日常生活ではほとんど感情を見せなかったという。(これは先ほど読んだ神西清の論文にあった。)で、彼は手紙をたくさん書いた人で、その中では冗談をよく言っていたようだが、それがたぶん韜晦だったのではないか、と思われる。神西清の論文の中から、その象徴となる「マーマレード」の一件を書き写そう。カッコ内は私の注釈である。


香水の匂いをぷんぷんさせた社交婦人が三、四人訪ねてきて主人(チェーホフのこと)とこんな問答を始める。
「この戦争はどうなることでしょう?」
「やがて平和になるでしょうな」
「まあ、本当に。でも、どちらが勝つでしょう?」
「強い方でしょうな」
「どちらが強いと思召して?」
「うまい物を食べて教育のある方でしょうな」
「でも、どちらがお好きですの? ギリシャ人? それともトルコ人?」
「好きといえば、僕はマーマレードが好きですね。あなたは?」
「私も大好き」
「私も」
「私も」
……そこで話は俄然活気を帯びて、やがて頗る満足した婦人連は、そのうちおいしいマーマレードをお届けしましょうと約束して、いそいそと帰っていく。
これはチェーホフ作るところのヴォードヴィルではない。ゴーリキィの回想に出て来る或る日のチェーホフの姿なのである。
ところで餌はマーマレードに限ったことではないはずだ。

(以上引用)

とまあ、こんなエピソードがあったらしいのだが、私はこの一幕はチェーホフの作品では感じなかった面白さを感じる。ここには作り物ではない、「人間チェーホフ」の姿がありのままに出ているところが面白いのだろう。つまり、シニカルな人間自体が「笑いの対象の一部」になっているところが面白い。モリエールの「人間嫌い」の面白さを連想させる。
だが、冷笑自体は、対象への愛ではなく、嫌悪から来るのであり、気持ちのいいものではありえない。つまり、一種の「世界の否定」だからだろう。愛情の欠如した笑いは、他者への攻撃なのである。他者を下げ、自分を高みにおく、自己愛の産物で、笑いとしては上等なものではない。世界そのものへの愛が笑いとなってこぼれてくる、そういうのが上質の笑いだと思う。まあ、赤ん坊の無邪気な笑いがその代表だ。









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「純文学」とは何か

竹熊健太郎のツィートだが、「ファインアート」の定義を初めて見た。この定義は世界的に公認されたものだろうか。いや、公認ではなくとも、常識としてそう認識されているのか。
もちろん、私はこの定義にほとんど同意するが、他の定義も成り立ちそうな気もする。
ちなみに、私は「純文学」の定義を、「世界(あるいはその国)に人間性や精神などへの新しい思想や感覚や発見をもたらした文学」と思っている。その点ではSF作品の中には「純文学」的価値を持った作品が多いが、推理小説などは、いくら面白くても「純文学」にはならない。「なろう小説」の大半が「何かの亜流の亜流の亜流」であるに至っては、単なる「消費物」である。
私の「純文学」の定義を言い換えれば、「読む人の精神世界を拡大する小説や詩」である。たとえば、詩でいえば、アルチュール・ランボー、小説で言えば、スィフトやルィス・キャロル、ポー、ドストエフスキーなどである。或る種の「狂人性」がそこには必要な気がする。もちろん、読む人の感性や解釈能力によっては「ドン・キホーテ」なども純文学だ。

(以下引用)

こういう表現をなんと呼ぶべきか。「純文学」「純音楽」「ファイン・アート(純粋芸術)」という言葉があるが、これらは「娯楽」とか「商業芸術」に対比される言葉で、目的が「表現そのもの」にある表現を言う。言葉を替えれば「その表現手法でなければ表現できないもの」のことだ。

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キチガイの「正義」

某ツィートだが、言い得て妙である。(念のために言うが「妙」は誉め言葉である。「妙(たえ)なる」とか「神妙」「妙好人」の類。)魔女狩りをした連中やナチスの協賛者とかは、現在の「ポリコレ」グループとまったく同質である。


(以下引用)

魔女狩りやらナチスの暴虐やら、今の時代から考えると信じられないことのように思うかもしれないが、 今の欧米のポリコレバカを見ていると、「ああ、確かにコイツらがそれを行ったんだな」と確信できるから面白いよな この300年、全く成長していなかったわけだ

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鉛筆の好みと書初め

何種類かのブログを書いているので、どのブログに書いたか忘れたが、私も2Bか4Bの鉛筆を使うことを推奨した記憶がある。書き味、書く快感というのが全然違う。HBは、まさに「仕事用」鉛筆である。書いてて、その感触が気持ち良くない。
ちなみに、子供にとっての書道の不快さというのは、「書いたら書き直しができない」という絶望感にある。絵を描くのも同じである。特に、絵の具を使うと、「失敗したら訂正できない」という圧迫感が子供にはある。その恐怖感を無くすために、画用紙やスケッチブックにでたらめに筆を走らせ、その筆跡やかすれや色のにじみの面白さを子供に教えることが、子供への美術教育として有益だと私は思っている。
私が最近凝っているのは、「水彩絵の具を使った『抽象画としての書道』」である。これは、偶然性も加わって、面白い作品になることが多い。つまり、才能など不要で、必要なのは筆やブラシ(掃除用ブラシである)を走らせながら、つぎに、どこにどの色の線や筆跡を走らせようか、という咄嗟の判断だけである。そして、基本的に「失敗は無い」と考えればいい。単に、「世界的な傑作」と「普通の出来」があるだけだ、と考えればいい。ちなみに、洗濯ブラシ(と言うより掃除用ブラシ)を使う場合は、同時に複数の色をブラシに載せて紙の上を走らせる。そうすると、色と色が混じって面白い効果が出る。
そのうちに、この方式で世界的な傑作を書く子供や若者が出て来ると思う。
ついでに言えば、書初めで試しにアクリル絵の具を使ったら、見事に汚い作品になった。水彩絵の具でないと、この方式は向かないようだ。


(以下引用)




 
 
 
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小学校ではHB鉛筆より2B推奨?(Coprid/stock.adobe.com)小学校ではHB鉛筆より2B推奨?(Coprid/stock.adobe.com)


 「今の小学生はHB鉛筆を使わないらしい」ーーこんな話を聞き、兵庫県内の小学校に通う親戚に電話で尋ねると「2Bだよ。かきかたの授業だけ6B」。入学時の説明会では学校から「鉛筆はBまたは2Bを4〜5本」と指定があったそうです。昭和世代の筆者にとっては鉛筆=HBだったのに。慣れ親しんだHB鉛筆の「今」を調べました。

鉛筆の硬度のJIS規格は17種類

 日本筆記具工業会のホームページによると、鉛筆の芯の硬度はJIS規格により6Bから9Hまで17種類あり、やわらかい順に6B、5B、4B、3B、2B、B、HB、F、H、2H、3H、4H、5H、6H、7H、8H、9Hの記号が付けられています。やわらかい芯の記号BはBlackの頭文字B、かたい芯のHはHardの頭文字。「HとHBの間にFがありますが、これはFirm(ひきしまった)の頭文字を使っています」。

HBと2B、2012年に逆転

 老舗鉛筆メーカー「トンボ鉛筆」(本社、東京都北区)では鉛筆の硬度別売り上げ比率は、1999年はHBが43%、2Bが22%、Bが21%でしたが、20年後の2019年には2Bが51%、HBが20%、Bが17%と首位が逆転しました(同社社内構成比)。


 同社担当者によると、2B鉛筆がHBに追いつきそうな傾向が見え始めたのは2006年のこと。2009年までほぼ同数出荷が続き、2010年には完全に同数出荷に。そして2012年、2Bがわずかに上回り逆転。2013年と2014年は2Bが少しずつ上回り、現在に至ります。


 HBはなぜ減ったのでしょうか? 同社担当者は2つの理由を教えてくれました。


 1つは小学校による2B鉛筆の推奨です。「小学校入学時、学校からの通達は以前は『鉛筆を持ってきてください』だったのが、『濃いめの鉛筆を持ってきてください』という説明に変わりました。教育がよりていねいにされているようです」。


 もう1つは、スマートフォンの登場です。「2007年にスマホが登場し、IT化も進み、文字を書かずにコミュニケーションが取れるようになりました。仕事など事務用のHB鉛筆が使われなくなりました」。


 といっても2B鉛筆の売り上げが増えたわけではなく、構成比において2BがHBを上回っただけだそう。「2Bは学校で使うため堅調に売れますが、鉛筆全体ではHBの売り上げが激減しました」。


トンボ鉛筆の売り上げ構成比(トンボ鉛筆への取材より作成)トンボ鉛筆の売り上げ構成比(トンボ鉛筆への取材より作成)

HB鉛筆じゃないとダメな場面も

 小学校やオフィスなどで使用される機会が減ったHB鉛筆。このままでは消えてしまうのでしょうか。


 同社担当者は「HB鉛筆は大学入学共通テストのマークシートやTOEICテストなどに指定されています。また、法務手続きなどの書類上で捺印や署名箇所を示す鉛筆書きの丸印はHB鉛筆が使われることが多いです」。HBの長所「何も書いてなかったかのようにきれいに消し去ることができる」が生かされているといいます。


 「HB鉛筆は社会のお役に立っています。HBの消費本数は減っていますが、信頼感を担っています。今後も社会をしっかり守っていく存在だと思います」(同社担当者)


大学入学共通テストの「机の上に置けるもの」に「黒鉛筆(H,F,HBに限る)」とある(同テストホームページのスクリーンショット)大学入学共通テストの「机の上に置けるもの」に「黒鉛筆(H,F,HBに限る)」とある(同テストホームページのスクリーンショット)

書道教室「字を濃く太く書くことが重要」

 児童や小学生も多く通う書道教室の現状は。小学校教諭の経験もある「睦麗書道教室」(神戸市中央区)の書道家、睦麗さんに話を聞きました。


──やわらかい鉛筆とかたい鉛筆の特徴は。


 「やわらかい鉛筆は字が濃く書ける。線の太い細いの強弱を出しやすい。小さい文字になると美しく書きにくくなります。一方、かたい鉛筆は字が薄い。線の強弱を出しにくい。小さい文字は書きやすいです」


(以下略)








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見えない「階級」

今、ドストエフスキーの「未成年」を断続的に読んでいるのだが、その一節を読んでいる時に「見えない階級」という概念が思い浮かんだ。まあ、学校という閉鎖集団などでの「見えない階級」はよく知られているが、やや誇張されている。階級ではなく、いじめ集団対いじめ被害者が大半だろう。私が言うのは、もっとはっきりしている「階級」だのに、それが階級だと意識されていない、というものだ。
それは封建時代には普通だった「長子相続制」における長男(長子)と、それ以外の子供の「階級差」であり、それが日本全国で普通だったのだから、明らかな階級なのだが、それが階級という意識がほとんど無かっただろう。
で、時代劇でおなじみの「御家騒動」だと、長子の相続に不満を持つ他の子供たちが長子を暗殺する計画を立てる悪人だ、つまり「秩序を壊す大罪人だ」となるわけだが、長子相続が本当に正当性があるのか、正義にかなったものなのか、ということは問題にならない。世界には「末子相続」という制度もあり、末子の年齢が低いなら後見人制度というのもある。
まあ、騒動など起こらぬに越したことはないわけで、一部の人間が不満を飲み込むことですべてが丸く収まってきた、というのが日本社会だったわけだが、これが自己主張の強い西洋人だと、同族の間の殺し合いで100年間くらい戦争が続いたのではないか。もちろん、日本も戦国時代にはそうだったわけで、戦国時代が終わって平和になったのは良かったが、「自分の不利益」を我慢した無数の人々の犠牲の上にその平和はあったわけである。
ちなみに、ネットコメントなどを見ると、他県民を蔑視し、東京都に住むだけで自分たちを「上流階級」であるとする馬鹿コメントに時々お目にかかる。まあ、タワマンの上層階に住むのは低層階に住む連中より上流階級だ、というキチガイ思想もあり、人間は階級というのが大好きなようだ。13階段の一番上まで行けば、後はどうなるかwww

(追記)上の話と関係があるような無いようなツィートだが、「家系」というのも「見えにくい階級」ではある。

平野啓一郎
@hiranok
保守系議員が夫婦別姓に反対したり、「家庭」という文言に拘ったりするのは、イデオロギー教育の場として、或いは自己責任論の押しつけ先として家庭に期待しているからだろうが、それだけでなく、二世、三世議員は「家系」というものが価値を失ったら、空っぽだからなのではないかと、最近疑ってる。

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プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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