滅多にない三連続降雨で、何もできることがなく、のんびり風呂に入りながら、自分の衰えた肉体をしげしげと眺めつつ想うことは、
 「この肉体とも、もうすぐお別れになるのだな」
 という感慨だ。

 とにかく、体中が痛い。起き上がるときは、「よいしょ」と声をかけなければならなくなった。無理をすれば、たちまち腰痛に襲われる。
 きつい運動をすれば、体を止めて激しく呼吸しなければならないので、家が片付かない。まさにゴミ屋敷だ。
 ブログを書いていても、細かい文字が見えないので、アップしたものは間違いだらけだ。誤字脱字などあたりまえ。

 肉体以上に知力が衰えている。
 今思い浮かんだアイデアを数秒後に忘れてしまう。昨日、どんなブログを書いたのか思い出せない。鍵やメガネをポンと置いても数秒後には見失ってしまう。何かを買うつもりで店に出向いても、何を買うつもりだったのか思い出せない。
 明らかな認知症の初期段階だ。

 必死になって、歩くことや、DHAサプリを飲むことで抵抗しているのだが、物忘れや精神力、アイデアの衰えが日々進行する現実から逃れることができない。
 「これが老いというものなのだ」
 と、直視したくない現実が覆いかぶさってくる。
 若い頃、これほど自分が劣化することは想像もしていなかった。

 一人暮らしなので、老いてゆけば、やがて調理の火を消し忘れたり、バイクで出かけるときに転倒したり、事故を起こしたりする確率が、若い頃よりも格段に上がってゆくので、いつか致命的な失敗をして命を落とすことは避けられないと思う。
 間質性肺炎も必死に歩くことで半分程度は治ったが、残りの半分は、どうしても治らず、ときどき呼吸が苦しなくなって、死を意識することが多い。

 死が一歩一歩近寄ってくる。まるでモーツアルトが自身の死を予感して作ったレクイエムを聞きながら怯えているようだ。だが、もう死を避けたいとは思わなくなった。
 父や母は、90歳以上生きたので、死んだとき何の感慨も起きなかった。それは、雨が降って風が吹くような、自然の一シーンにすぎなかった。
 両親は、子供たちを死によって悲しませないために、必死に生きたことがよくわかる年になった。

 自分は子供がいない。だから、ただ老いて風化し、朽ちてゆけばよいので、むしろ家族に恵まれなくて良かったかもしれないと思うこともある。
 ちょうど、山の獣たちが死を悟ると、誰にも見られないように姿を隠す気分に似ているかもしれない。この世に何も残したくない。まるで存在しなかったかのような人生で終わりたい。

 私は若い頃から、たくさんの山歩きを行い、人の行かない千古斧鉞の入らぬ森が好きで、アルプスの沢登りなどで積極的に歩いてきた。
 しかし、半世紀以上、数千回もの山歩きを重ねても、「獣たちの屍=獣墓場」を目撃したことがほとんどないのが不思議だった。

 獣たちは、自らの屍を見せることを極端に嫌っているように思える。もしかしたら、人の行かない山奥のどこかに、獣たちが死期を悟ってゆく墓場があるのかもしれないと思った。