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脳内人生と現実人生

ネットゲリラ氏(野次馬氏)は幅広い教養というか雑学的知識をかなり膨大にお持ちだが、それを露骨に表に出さずにエロ小説やお色気動画などでサイトを満載にしているのが奥ゆかしいwww まあ、商いの宣伝ばかりしているのはあまり奥ゆかしくないが、大半の読者はそこは読み飛ばしているだろうwww テレビと同じだ。CMを真面目に見る視聴者はいない。だが、あれば記憶に残り、購買につながるわけである。
そんなことより「椰子の木」である。この歌詞を知ったのは小学校低学年か中学年くらいだったと思うが、私にとっては「謎のフレーズ」の多い歌詞だった。「旧の樹はおいやしげれる」とか「枝はなお影をやなせる」の「おいやしげれる」「影をやなせる」が意味不明だったわけだ。
かなり後になって、塾で古文を教える必要があって「係り結び」について調べている時にたまたま読んだ大野晋の文章(岩波古語辞典の付録的文章だったと思う。)で、「係り結び」とは、「終助詞を強調のために前に持ってきたもので、一種の倒置法である」と書かれているのを読んで目が開かれたのだが、この説を書いている参考書はひとつも見たことが無いし、他の国語学者で同じことを言っている人の文章も見たことがない。大野晋は国語学界では異端とされている学者なのかもしれないが、私はこの「係り結び=終助詞の倒置」説ほど腑に落ちた説明はほかに無い。
つまり、「おいやしげれる」は「生い茂れるや」の文末の疑問終助詞「や」が強調のために前に出たものなわけだ。「影をやなせる」も同様で「影を成せるや」の文末の終助詞「や」が前に出て「影をや成せる」となったわけである。(ちなみに「影」と「陰」は違うが、椰子の樹はその木陰で憩えるほどの「陰」を作らないという判断か、あるいは木の陰全体ではなく「枝」の「影」が浜辺に落ちているイメージを描きたかったからだろう。)
まあ、そういうところに疑問を持つ生徒がどのくらいいるか分からない。たいていは機械的に「ぞ・なむ・や・か→終止形止め(連体形止め説もあるか?)」「こそ→已然形止め」と丸暗記して終わりだろう。そして一生、謎の「係り結び」など記憶の彼方に追放して古文など自分の人生に無縁のものと澄まして生きるわけである。まあ、学校教科書に載っている古文や漢文や詩歌を理解するだけでも「脳内人生」がかなり豊かになるのだが、生活とは目に見えるものだけだと心得て生きる人間は膨大にいる。もっとも、そのほうが健全で客観的には幸福かもしれない。

最近読んでいる(残り4分の1くらいだ。)ドストエフスキーの「悪霊」の最初の辺りに、「人間、あまりに高尚になりすぎると、その教養が多面的になるという理由ひとつだけからしても、えてしてシニカルな考え方に陥りがちなものである」という一文がある。これはステパンという善良で根は無邪気な知識人が時としてシニカルな考え方をすることについての一文だが、素晴らしい洞察だと思う。「高尚になりすぎると」とは、要するに無駄な知識を頭に詰め込みすぎると、と言い換えてもいいだろう。「教養が多面的になりすぎる」と物事を単純に判断できなくなり、その結果、何事にも懐疑的になり、とどのつまりはシニカルになりがちだということである。


(以下「ネットゲリラ」より引用)

名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子の実一つ
 故郷(ふるさと)の岸を離れて 汝(なれ)はそも波に幾月

旧(もと)の木は生(お)いや茂れる 枝はなお影をやなせる
 我もまた渚を枕 孤身(ひとりみ)の 浮寝の旅ぞ

実をとりて胸にあつれば 新たなり流離の憂
 海の日の沈むを見れば 激(たぎ)り落つ異郷の涙

思いやる八重の汐々 いずれの日にか故国(くに)に帰らん



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HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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