私は70歳を過ぎている、世間から落ちこぼれた老人だが、若い頃から、心の拠り所にしていた原点がある。
 それは「人道主義」だ。「他人に対して優しい姿勢」と言い換えてもいいかもしれない。

 私は、子供の頃から、「人間としてあるべき姿」を考えてきた。もちろん、その通りに生きてきたわけではなく、ときに道を外れることも少なくなかった。今思えば、恥ずかしいかぎりだ。
 だが、今でも私の家に忍び込んで、さまざまなものを盗んだり、嫌がらせを続ける近所のA老人に対しては、人道どころか激しい殺意が湧いてくるので、本当は私に人道主義を語る資格はないのかもしれない。

 私は、子供の頃から朝日新聞を読んでいて、本多勝一に注目し、彼の文章に一喜一憂していた。そして、ベトナム戦争のルポルタージュを読んで、アメリカに対する激しい怒りが湧いた。
 私は高校の授業そっちのけで、ベトナム反戦デモに参加し、街路で機動隊と対峙した。

 ナパーム弾のなかで全身火傷を負いながら歩く少女の写真は、私を激昂させた。なおgooblogに載せたら「猥褻写真」の扱いを受けて、ブログ投稿が削除されてしまった。NTTは、どこまで馬鹿が管理しているのかと怒りが涌いた。

 私は、ついに、国家のなかの昇進秩序のなかで、他人と競争しながら権力や蓄財を目指す人生観に対しても、大きな疑問を感じるようになり、学歴社会のなかで、それを放棄し、底辺の労働者階級のなかで生活する道を選んだ。
 そんな虚構のナルシズムに生きるより、山歩きをしていた方が、よほど心地よかった。
 私は90年に百名山を完登するほど、山にのめりこんでいった。

 私は、土方をやったり、トラックの運転手をやったりして生きながらえた。勉強は嫌いではなかったので、学歴の代わりに、資格を何十種類も取得した。
 職も転々と換える世間の落ちこぼれ人生になったが、もう目の前に死が迫っている。
 私は世間並みの家族や地位を得ることは一度もなかった。一人で孤独に消えてゆかねばならない。もしかしたら、誰も死を始末してくれないで、自宅で白骨化するかもしれない。

 これこそ、典型的な落ちこぼれ人生ではあるが、私には、自分の心を支えてきた価値観がある。それが人道主義だ。他人に優しく生きることだ。
 まあ正義感と言い換えてもいい。「人の命を大切にすること」を正義と確信してきた。
 だから、アメリカによる非人道的なベトナム戦争に激しく憤った。反戦デモで逮捕されたこともある。

 私は、組織が嫌いだった。組織は必ず人間性を疎外するからだ。つまり、組織された者は、組織の利権を守らなければならず、間違っていると思っても、言いたいことも言えないからなのだ。
 私は、最初から最後まで一人でいたいと思った。間違っていると思うことを黙って我慢するなんて御免被りたい。だから企業のような組織に依存する人生は不快だった。

 私は、80億人の人間のなかで、たったひとりの私なのだ。自分が正しいと思った道を歩みたい。そして、それが「人道主義」なのだ。
 「強きをくじいて、弱きを助ける」
 幼いころテレビで放映されていたのは、勧善懲悪の番組ばかりで、月光仮面なんかに夢中になった。白い風呂敷を羽織って自転車で走り回ったものだ。

 勧善懲悪思想に大きな問題があることが分かったのは、もう少し成長してからだ。世の中は、そんな単純なものではなかった。
 だが、どこまでいっても、本当に大切な価値が、「人々の笑顔」であることは変わらないと思った。
 人々を「笑顔」にすることこそ、人間として生まれたなかで絶対的な善であり、価値観であることは、70年を過ぎても変わることはない。

 だから、世界情勢を見る上でも、複雑な諸国の事情も無視して、その人が「人の笑顔を大切にする人なのか?」という姿勢だけで、その人の本質が見事に浮き出される。
 今我々の前に見えている世界の権力者たち、プーチン、トランプ、ネタニヤフ、習近平(今は張又侠)、ハリス、進次郎、早苗なんか見ていて、何も難しいことを考える必要はないと思う。
 彼らのうち、誰が「人々の笑顔に貢献できるのか?」という視点だけあれば、問題の本質を見誤ることはない。

 もちろん、特権階級の一握りの大金持ちの笑顔に貢献してもらっても困る。「支配する者とされる者」という差別の構造がある限り、一方の笑顔は他方の涙なのだから。
 世界の多くの貧しい人々の笑顔に貢献できる人物なのか? が正しい視点だ。

 「人に対して優しいか」という人間性の尺度こそ「人間の本質」なのだ。
 プーチンは優しいか? その対極だ。彼は、モスクワアパートテロ事件や、チェチェン侵攻で、数十万人規模の凄まじい大虐殺を重ねてきて、今はロシアの若者8万人を戦場に送り込んで殺害させた。