それらを読んで、そういえば沖縄にも昔は刺青文化があったなあ、と思い出して、下のNOTE記事を見つけた。なかなか真面目な論考である。ちなみに、私の祖母(母の母)も、下で言う「ハジチ(針突き)」を手の甲に入れていた。私の考えでは、消えるのが当然の旧習だと思っている。
(以下引用)写真の大半は省略。
沖縄の入墨文化「ハジチ」
4月10日の琉球新報の記事とその反応に胸がざわついた。
ハジチャー(ハジチを施術する人)として活動する、沖縄にルーツをもつ女性が取り上げられていた。
その記事を見ての反応というのも賛否両論であり、私も一つ思うところがあってnoteを書き始めた。ただの与那国島人(どぅなんとぅ)の独り言なので、どうぞよしなに。
この琉球新報の記事は、ハジチをとりあげるにはちょいと雑で美化されすぎな印象を受けた。ハジチは手放しに誇りだとか、カッコイイとかで取り上げていいものじゃない。復興と見出しにかくべきではなかったように思う。全く知らない人からしたら、見た目で嫌悪感抱くか、見た目だけで好みにハマるか、そこから薄い歴史だけが独り歩きする危険があるのに、今回メディアがそれを手引きするようなカタチになってしまったんじゃないかな…。
ハジチをとりあげるな!というわけではなくて、扱い方には気をつけないといけない題材なのに、こういうふうに記事にしたことがなんとも…。もう少し伝え方があったはずなのに。
こんなの沖縄の文化じゃない!と言う人もいるかもしれないが、私は消えた沖縄の文化だと思う。ハジチをしないといけなかった社会に対して、当時の彼女たちが個人ではなくそれぞれの地域組織の中で精神的活動が行なわれた事実があるから。頭ごなしに現代人が否定はできないはずだ。
そんな中、若い世代がハジチに興味をもちだしているようにも思う。復興というよりは、ハジチの歴史のRESTARTだろうか。時代変わり、ハジチに惚れる人がでてきたのも(でてきてもいい時代になった)未来からしてハジチの歴史がちょびっと動いただけのこと。
記事の様々な反応の中には、ハジチを忌み嫌う人達が関係ないはずの彼女の容姿にまで口出しをしていて、それはそれで人としてどうなのか。匿名で発する責任のない言葉は何も問題じゃないと思っているのだろうか。差別を指摘しながら、自分のやっていることにきづいていないだなんて。
ドウカシテルゼ!!
まぁ、まぁ、ハジチを知るところからはじめますか。
◎「ハジチ」とは?
なんだこのいかつい入れ墨は?と思いの皆さんにざっくり説明。
ハジチは今はもう消滅してしまった沖縄の習俗であり、沖縄の若い女性たちがその昔、手の甲に入れていた入墨のことを指す。
その模様の意味合いは、成女儀礼や子孫繁栄、魔除けや、極楽浄土の願いなど様々であり、ひとくくりに沖縄といえないように、その模様も地域によって異なる。
明治32年(1899年)に日本政府から風俗改善のために「入墨禁止令」が出されたが、昭和の初期まで密かに行われていた。今現在、当時のハジチを施した女性はもういないと思われる。
"沖縄の昔の女性達が入れていた入墨"
と言ってしまえば簡単に伝わりやすいかもしれないが、どうもそうはいかない歴史的背景がある。ハジチを入墨と表記されることは多いが、本土の入墨とは歴史的観点から区別する必要があると私は思う。施術方法は似ていても、現代社会において単なる入墨と見た目で判断せざるを得ないとしても、できることならば混同せずにみれる人は、まずその背景をみてほしい。
ハジチ=針突
私は入墨に対して専門的知識があるわけではないが、近所の親戚のアブ(与那国語でアブ=おばあさん)に聞いた話ではハジチは墨と泡盛を混ぜたものが用いられ、痛みに耐えながら針で突いたそうだ。現在私が20代で、親が50代、祖父母世代は90を過ぎている。母が子供の時、おばあちゃんたちの手にハジチがあったのを覚えていると言っていた。もう当時のハジチを入れた女性の手は写真でしか見ることはできない。しかし、近所の親戚のアブ(98)の膝に青黒い点々があったので尋ねると、針治療の一環で突いたものだと言っていた。「アブーのこの膝多分すごい貴重な膝なんじゃない?」と縁側で話したのが2年前くらい。実際貴重な資料なんじゃないかと思っている⬇︎
与那国を含む八重山では民間医療の一つとして
”医療ハジチ”といわれるものが男女問わず盛んに行われており、その効果もあったとかなかったとかそれぞれ。
◎ハジチの語源
ハジチは”針突き” からきている。何も知らない人が恥手が語源じゃないかと書いているのをみて呆れた。ハジチには「彫る」という言葉は用いない。「突く」という。沖縄県内でも呼称は様々あるようだ。以下その例(他にも多く呼び名は存在するが言葉の響きはどれも似ている。針突き、手突き)
沖縄・奄美 ハジチ、ハジキ、ファジキ、パジキ宮古諸島 ピゾッキ、パーツク、ハイヅチ
八重山諸島 ティク、ティシキ、ティーツキ
与那国 ハディチ
◎多種多様なハジチ
奄美諸島から与那国島にかけて、その地域それぞれ模様が異なる。
↓山本芳美さんの論文より以下一例↓
◎なぜ女性達はハジチを入れたのか
先にも書いたように、ハジチを入れた女性達の想いや当時の状況というのは様々である。ハジチは成女儀礼としての側面はあるが、明確に意識されていたとは言い難い。
・シマの外から来た人に連れて行かれないため
・ハジチを入れたら極楽浄土へいける信仰があったから(あの世への通行証)
・ハジチを入れることで一人前の女性として見られたから
・周りがやっていたから
・親に施術者(ハジチャー)のところへ連れて行かれたから
・婚姻や初潮の印として
・ハジチを入れてないと遊女にみられたから
・結婚条件の一つだったから
・厄払いのため
・ハジチの手に憧れていたから
◎憧れの存在から醜い存在へ
1871年(明治4年) 廃藩置県の話から進めよう。
それが発令された日本は中央集権国家へと大きな行政改革があり、琉球処分された沖縄、宮古、八重山諸島は1879年(明治12年)に沖縄県となった。
そんな政情不安な中で1899年(明治32年)に「入墨禁止令」が発令。
沖縄県では何度か見送られながらも「ハジチは野蛮なモノ」だとして風俗改良運動の進みや社会の変動が「入墨禁止令」を成立させた。禁止令前後は様々な不安(大和に連れて行かれる、極楽浄土へいけないなどの要素)に駆られながら禁止と分かりながらもハジチへの信仰が残る者は、世間の目に隠れてその手に祈りを突いた。そして多くの取締りの結果ハジチを突く者は減り、様々な想いが込められたその手は美しいモノから醜いモノへと社会の価値観が変化した。その後の彼女達は、人前では自分の手を隠す様に生きた。
当時の伝統的価値観に合わせて突いたはずのハジチは「蛮人」だと叱責された
自ら塩酸で焼却する様に仕向けられた
夫に離縁を言い渡された
ここまでのことが起こったことからハジチに対する悪印象は現代に続いていると思う。
その後の沖縄では、子供達が母や祖母など周囲の人に憧れて友達同士で突く「ハジチアシビ」が昭和初期まで行われ、ハジチ文化は静かに消滅していった。
その手にハジチを突いた女性達が生きた時代、その社会の変化はハジチに対する印象を大きく変えた。
”ハジチは女性軽蔑視の象徴”と一言で済ませることこそ当時の彼女達を軽蔑している気がしてならない。あの時、彼女達はほんとうに様々な状況や想いがあったけれど、その根本は祈りからくるものだったはずだ。ハジチをいれないといけない時代、そこに身体的にも精神的にも「痛み」があったことは忘れてはいけないし、可哀想だから、痛いから、怖いからと片付けるには信仰が強い時代があった。「痛み」を耐えること自体に意義が見出され、女性としての役割が定められていたことが普通な時代。今を生きる現代人の価値観と当時の彼女達の価値観が違うのは当たり前だろうに。彼女たちを馬鹿になんてできるのだろうか。
なぜ明治政府が「入墨禁止令」を出し、のちに廃止となったのか。
1870年頃の日本は西洋文化を取り入れ、近代化政策を推し進めていた。
殖産興業、富国強兵、いわゆる「文明開化」の中で、入れ墨、ちょんまげ、お歯黒、混浴、春画などがだんだんと取り締まられていった。晒し首や入墨刑もその頃に廃止になっている。そこに外から入ってくる海外の人たちから日本人が野蛮人と思われないように、とてもとても気にしていた明治政府は神経質なまでに庶民の行動を制限した。しかし「入墨禁止令」は1948年(昭和23年)に廃止となる。その成立から廃止まで日本は外の目を気にしていたからだったとか。(廃止に関して戦後のGHQの関与や、日本が恐れていたよりも入墨文化がIt's so cool と憧れた人たちがいたため)
私はそんな明治の近代化が無ければよかったのにと思っている訳ではないので…。その背景に日陰に押しやられた文化があり、「入墨禁止令」に関して振り回された沖縄県があり、それだけです。
現在ハジチはそのデザイン性からファッションにとりいれられてるのをよく見るようになった。アクセサリーや服やバックのデザインなど。
ハジチのデザイン性がいいことは共感するけれど、きゃーかわいいーでつけられたらたまったもんじゃないな。でもその綺麗だと思う感性は、昔の人にも通じるものがあったと思う。
日本のタトゥー史を約16000年前の新石器時代(縄文時代)から現在に至るまでを簡潔に説明している記事がありました。悪いものとばかり言いきれない過去があります。