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「怪談」と「ミステリー(推理小説)」の文学的価値と『ねじの回転』

「ねじの回転」は英文学部(最近はそういうのがあるかどうかも知らないが)の卒論向きの作品である。つまり、考察すべき部分がたくさんあるわけだ。
その主なものを挙げておく。

1:この小説は「枠物語」あるいは「入れ子構造」の形式の話で、まあ「千一夜物語」でシェラザードが前置きをしてから話に入るような形だ。ところが、話の冒頭に出てきた、この「怪談」を聞く連中が最後に登場してこそ、その形式は完成するのだが、話は「語り手」(実は、語り手はふたりいて、話の前置き部分に出てきて話を紹介する男性と、話の「一人称話者」の女性で話の主人公のふたりである。)が語り終わった段階で、ぷつりと切れて終わる。この話が怪談でなくミステリーなら、肝心の謎解き部分の無いミステリーになるわけだ。
2:この話の中で「幽霊」とされている男女の死の内容(事情)がまったく語られない。だが、主人公もその同僚も、彼らを「邪悪な人間だ」としており、なぜ邪悪なのかは語られない。せいぜい、男の方が少し図々しいらしい程度である。特に主人公は、「幽霊」を見ただけで、彼らを邪悪な存在だと最初から決めつけている。これは欧米(キリスト教圏文化)特有のものらしい。つまり、人は死んだら最後の審判までは「存在しないも同然の存在」であるべきで、幽霊とは、死者が現世に「復活」したようなものだから、ある意味、キリストの「死後の復活」のパロディのような冒涜的なものになるという考えだろう。ここには、一人称主人公の女性が田舎牧師の娘であるという事情も関係しているかと思う。
3:女主人公が雇われた「魅力的な」富豪男性が、なぜ幼い甥と姪に関わることを嫌うのか、理由が最後まで明らかにされない。
4:女主人公が教育を任された幼い兄妹が「邪悪な」本性を持っている、と女主人公は考える(確信する)のだが、その理由がひどく曖昧である。単なる「表情」などから「鋭敏な自分」はそれを見抜いた、と思っているらしい。

ざっと以上から、この話での語り手の女性(女主人公)は、被害妄想から狂気に陥ったのだ、と推定できるわけだ。
一番の問題は、死んだ男女の雇用人の死の事情がまったく語られないことである。これは、彼女を雇った「魅力的な」富豪男性、つまり話の舞台である屋敷の主人が、この男女の死と何か関係があるのだろう、と推定できる。彼がこの屋敷に帰りたがらず、幼い兄妹のことは雇ったばかりの若い娘にすべて任せ、いわば「養育義務放棄」をしていることを考えると、この兄妹はふたりの男女の死の事情に気づいている可能性もある。
つまり、この話で「語られなかったこと」のほうが、「ミステリー」としてははるかに面白い要素を持っているわけで、この話が最後で「解決篇」があれば、ミステリーとして完璧だっただろう。だが、そうなると、「文学的評価」は地に落ちることになる。作者のヘンリー・ジェイムズはそれが分かっていたから、最後の「解決篇」を書かなかったのだと思う。


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