小谷野敦の或る本を読んでいたら、宮沢賢治の
「私という現象は仮定された有機交流電灯のひとつの青い照明です」
という言葉が出てきて、もちろんこれは賢治の処女作品集の序文に出てくる有名な言葉で、アニメ映画「銀河鉄道の夜」のラストにも使われて見事な効果を上げたものだが、その言葉を久しぶりに見て、やはり宮沢賢治は凄いなあ、と思ったのだが、それは、「私」という存在を「現象」と見ていることを凄いと思うからだ。科学者の目で自分自身を観ているイメージだ。
つまり、「私」とは、この世界に無数に存在する「現象」のひとつにすぎない、という、自分を特別視しない姿勢がここにはある、とするのは誤読だろうか。私がそう解釈した理由のひとつは、その「現象」も、ひとつの「仮定された世界の中の現象」だということが文脈から伝わるからだが、その「仮定」はもちろん「世界解釈」の一つであって、現象自体はちゃんと存在しているのである。自分という存在を無意味だというニヒリズムではなく、世界そのものが素晴らしい中で、自分もその中のひとつの現象として存在している、とでも言えばいいだろうか。
下に挙げるのは、宮沢賢治の詩「目にて云ふ」だが、ここで死を目前にしながら、五月ごろの青い空と気持ちのいい風にうっとりとしている人物は、賢治の「世界に対する姿勢」そのものだと思う。
「私という現象は仮定された有機交流電灯のひとつの青い照明です」
という言葉が出てきて、もちろんこれは賢治の処女作品集の序文に出てくる有名な言葉で、アニメ映画「銀河鉄道の夜」のラストにも使われて見事な効果を上げたものだが、その言葉を久しぶりに見て、やはり宮沢賢治は凄いなあ、と思ったのだが、それは、「私」という存在を「現象」と見ていることを凄いと思うからだ。科学者の目で自分自身を観ているイメージだ。
つまり、「私」とは、この世界に無数に存在する「現象」のひとつにすぎない、という、自分を特別視しない姿勢がここにはある、とするのは誤読だろうか。私がそう解釈した理由のひとつは、その「現象」も、ひとつの「仮定された世界の中の現象」だということが文脈から伝わるからだが、その「仮定」はもちろん「世界解釈」の一つであって、現象自体はちゃんと存在しているのである。自分という存在を無意味だというニヒリズムではなく、世界そのものが素晴らしい中で、自分もその中のひとつの現象として存在している、とでも言えばいいだろうか。
下に挙げるのは、宮沢賢治の詩「目にて云ふ」だが、ここで死を目前にしながら、五月ごろの青い空と気持ちのいい風にうっとりとしている人物は、賢治の「世界に対する姿勢」そのものだと思う。
だめでせう
とまりませんな
がぶがぶ湧いてゐるですからな
ゆふべからねむらず血も出つづけなもんですから
そこらは青くしんしんとして
どうも間もなく死にさうです
けれどもなんといゝ風でせう
もう清明が近いので
あんなに青ぞらからもりあがって湧くやうに
きれいな風が来るですな
もみぢの嫩芽と毛のやうな花に
秋草のやうな波をたて
焼痕のある藺草のむしろも青いです
あなたは医学会のお帰りか何かは知りませんが
黒いフロックコートを召して
こんなに本気にいろいろ手あてもしていたゞけば
これで死んでもまづは文句もありません
血がでてゐるにかゝはらず
こんなにのんきで苦しくないのは
魂魄なかばからだをはなれたのですかな
たゞどうも血のために
それを云へないがひどいです
あなたの方からみたらずゐぶんさんたんたるけしきでせうが
わたくしから見えるのは
やっぱりきれいな青ぞらと
すきとほった風ばかりです。
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