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煙草と詩情

煙草と詩情という、無理なタイトルの小文を書こうとしているのだが、要するに、詩情とは食い物の味ではなく、煙草の味のようなものだ、という説である。つまり、生存や生活に何が何でも必要な要素ではない。しかし、それが無い生活というのは、実に索漠たるものだと愛煙者なら感じる、そういうものではないだろうか、ということだ。
そして、現代の社会から煙草が駆逐されつつあるのと同様に、あらゆる芸術から詩情という要素が消えつつある、というのがこの説のもうひとつのポイントだ。その代用が恋愛なのだろうが、恋愛からも詩情が駆逐されたなら、それは恋愛なのかどうかである。つまり、相手と寝れば、それで目的達成、という恋愛ははたして恋愛なのかどうか。
では、詩の中に詩情はあるのか、というのが大問題で、私は現代詩をまったく読まないのだが、それは現代詩の中に詩情は無い、と思っているからだ。poemと poetryはまったく別物で、poetryを欠いたpoemはゴマンとあるし、日常生活の中の日の陰りや草の上の露にもpoetryはある。
吉本隆明の晩年の本の中に、ヘンリー・ミラーの「北回帰線」は大文学だが、ヘミングウェイの作品はそうではない、といった感じの言葉があって、一応は詩人でもあった吉本隆明の「文学」の定義は何なのか、と思ったのは、ヘミングウェイの作品とは散文で書かれた詩であり、そのpoetryこそが彼の作品の価値だろう、と私は思っているからである。彼の時代の作家は、作品の中にpoetryを持った作家が多かったと思う。まあ、現代作家はほとんど読まないし知らないので、私は単に、映画やテレビドラマなどから、現代の創作物からは詩情がほとんど無くなった、と判断しているだけである。

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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
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