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小説の登場人物の扱い

今、読みかけの小説は5冊以上あると思うが、ドストエフスキーの「死の家の記録」は、読み終わるのがもったいないので中止している。で、最近読み始めたのが同じくドストエフスキーの「二重人格(正しくは「ドッペルゲンガー」と訳すべき内容)」であるが、これは面白い反面、かなり理解困難な作品で、何が理解困難かというと、要するに作者がこれを書いた意図がつかめないわけだ。
明らかにコメディなのだが、笑いの対象は主人公その人で、要はその俗物性と神経症的行動の突飛さを笑うのだろう。つまり、読者に笑わせるのだろう。しかし、読者はそれを笑えるのだろうか。読者の大半は俗物であるだろうし、下級役人の主人公の卑小さは、同じような立場の人間には笑えないと思う。では、上級国民用の喜劇かと言うと、かつてそんな作品はあった試しがないだろう。つまり、笑いはその大半が権力への風刺であり、貧しい者や弱い者は同情の対象ではあっても、嘲笑や攻撃の対象ではほとんど無かったのである。
ドストエフスキー自身、弱者や貧しい者への同情や共感は他の作品でずいぶん書いているのに、この作品では貧しい弱者が、その性格が卑俗で図々しく奇矯であるために笑いの対象として選ばれているようなのである。いや、さほど貧しくも弱者でもない、一応は召使も持っている中級から下級の役人なのだが、そういう人間がより高い暮らしや地位を目指して足掻く、その姿が醜いからと言って、笑える人間がどれほどいるのだろうか。
私など、この主人公の言動を哀れだとは思うが、嘲笑する気にはなれない。彼にはそういう「身の程を知らぬ」行為をする権利があると思うわけだ。その結果、惨めな姿をさらすわけだが、私にはそれが笑えない。
もちろん、ドストエフスキーの書くものだから、細部の面白さはいくらでもあり、読む価値は十分にある作品だ。しかし、この作品が彼の作品の中でも珍しく一般的な評価がまったく得られなかったのは、実はここで笑われているのが一般読者の「同類」だったからだろう、と私は推測する。
読みながら私は、小説の登場人物が自分の扱いについて作者に抗議するという「メタ小説」を考えたのだが、そういうのは手塚治虫などが漫画でとっくにやっていた。


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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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