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生活の技術(6)



第四章 メンタル・ヘルスまたは「心術」


 


 「メンタル・ヘルス」というと、精神科医の分野になりそうだが、ここで私が述べるのは、より良い人生を生きるための「心の自己コントロール」の話である。そして、それには前の章で書いた人格形成なども含まれる。


 


1 生き方の基本


 


 メンタル・ヘルスは、その人の生き方と大きく関わってくる。昔なら人生論として扱ったことを、ここではメンタル・ヘルスとして扱おうと言うのである。


 まず、生き方の基本は、「問題解決の技術」と同じである。つまり、「現実認識―問題分析―計画―実行―反省―計画変更―実行」のサイクルである。(これはビジネスの世界ではP―D―C―Aサイクルと言うようだ。「プラン・ドゥ・チェック・アクション」である。なぜドゥとアクションの区別があるのかは知らないが。)そして、何よりも大事なのは、「継続」である。コリン・ウィルソンも言うように、我々が、決心したことを継続できれば、精神的な超人にもなれるのである。


 


2 精神の素材と精神コントロール


 


 良い人生を送るためには、精神の自己コントロールが必要だ。それができるかどうかで人生の質が変わってくる。


 まず、人間の精神は大きく分けて、「理性」と「感情」に分かれる。ここに、「意志」という柱を立てて三つに分けてもいいが、人間に自由意志があるかどうかは判断不可能な問題だから、意志については保留にしておこう。


 問題は、理性と感情はまったく別であり、感情を理性でコントロールすることは非常に難しいことである。感情に限らず、自己コントロールを最大限に高められるかどうかが、幸福な人生の鍵だとも言える。たとえば、あなたが何かの義務的な仕事をやらねばならない場合、それを苦痛に思うあなたがいる。そして、その仕事をやらねばならないと思うあなたがいる。はたして、あなたはそのどちらのあなたの言うことを聞くべきなのか。怠け者のほうのあなたか。意志的で努力家のあなたか。当然、後者だと言う人が多いだろう。だが、そこで怠けて過ごした甘美な時間と、苦痛に耐えて努力した時間と、どちらが人生にとって有意義な時間だっただろうか。これは、明らかに前者なのである。ただし、これは短い時間のスパンで考えた場合のことで、長期的にはもちろん、前者のような生き方はその人の人生レベルを低下させ、後者のような生き方は人生レベルを向上させる。


 これはつまり、美味い物を先に食うか、後で食うかという選択と同じことであり、もしも怠け放しでもそのダメージを受けることが無いのなら、一生怠け続けてもいいのである。つまり、大金持ちの家に生まれた人間なら、そういう生き方もできるわけだ。


 だが、ほとんどの人間は「生きるための労働」と不可分の生涯を送るはずだ。したがって、ここではそういう前提で論じる。


 さて、人間の精神は理性と感情に分かれる。感情は、目の前の義務的労働を苦痛に思い、理性は、長期的判断に基づいて、あなたに労働を強制する。


 もちろん、誰でも考えるように、感情が、労働を苦痛ではなく快楽だと考えればすべての問題は解決である。だが、果たしてそううまくいくかどうか。我々は労働を本心から快楽だと考えることができるだろうか。ここで、価値観というものが問題になる。つまり、快楽は価値があり、苦痛はマイナスの価値だという判断がここにはある。逆に、我々にとってのマイナス価値の強制が我々に苦痛を与えているとも言える。


 


 価値観の問題も、古くて新しい問題だ。納豆やオカラで満足できる人間なら、トゥール・ダルジャンの鴨料理などこの世に存在しなくても何も問題は無い。酒の飲めない人間にはロマネ・コンティも無価値である。草の葉の上の水玉の美しさに感動できる人間には、100カラットのダイヤも不要だろう。自分の女房を愛している人間には世界一の美女が言い寄っても迷惑なだけだ。


 人生の最大の秘密をここで書こう。



 それは、この世で生きる最大の鍵は、「価値観」にあるということだ。しかも、価値観とは、実はその人の主観なのである。このことを意識していないことに、人生の大半の苦しみの原因があるのだ。


 たとえば、あるタレントや俳優を好きか嫌いか、ということは、若い人にとっては「絶対的なもの」である。いや、年を取った人間でも、好悪については絶対に譲らないものだ。だが、その好悪にどんな根拠があるかというと、それはほとんど無いのである。Aという歌手とBという歌手の間に、それほどの違いがあるとは思えないのだが、ABのファンにとっては、天地の開きがあるのである。それは、つまり《主観の絶対視》なのである。


 さて、我々は、実は自分の主観に過ぎないものを絶対視しているということを知れば、人生を生きることが非常に容易になる。


 我々が自分の感情をコントロールできないのも、「主観の絶対視」のためであり、本当は簡単に譲れるものを譲れないと「思い込んでいる」だけなのだ。


 これは、しかし、感情を軽視しろということではない。藤原正彦が面白いことを言っている。「論理」というものは、実は出発点の妥当性は証明できない。つまり、すべての論理の出発点そのものは仮定にしか過ぎないということだ。これは私もかつて考えたことで、論理とは、「説明手段」でしかない、と私は思っている。他人を説得する手段ではあっても、必ずしも真理に至る道だとは限らない。一方、感情の方は、少なくとも、その感情がその人の心を支配していることは明らかであり、それだけでも感情の偉大さは分かる。つまり、我々の生涯の大半は感情とともにあるのだ。だが、感情が自己破壊的に働く場合がある。ここで私がコントロールを考えているのは、そういう類の感情なのである。


 ここでまた誤解する人がいるかもしれない。私は、一般的にマイナスとされている感情を自分の中から消し去れと言っているのではない。怒るべきときには怒り、悲しむべきときには悲しむことこそが、真に人間らしい生である。だが、問題は、我々はそうしたマイナスの感情に心を支配されるあまりに、自分の人生までも悪い方向に引きずっていく場合が多いということだ。そこで精神の制御が求められる。


 精神の制御において必要なのは、意識化である。自分がどのような状態か意識できれば、制御まではもう一歩だ。自分の状態が意識されていないから、制御できないのである。


 そこで、まず感情を分類する。これは昔から「喜怒哀楽愛悪懼」という七情として分類されている。つまり、「喜び」「怒り」「哀しみ」「楽しさ」「愛」「憎しみ」「恐怖」である。


 この中で、無条件でプラスと言える感情は「喜び」と「楽しさ」だ。(この二つの違いは微妙だが、たとえば、遊びをしている状態などは「楽しさ」であり、思わぬ利益を得た感情などは「喜び」だろう。)


 ところが、「愛」は、無条件にプラスとは言えないのである。というのは、愛とは一種の欠乏状態における感情なので、愛が喜びになることもあれば、悲しみになることもあるからだ。もちろん、単純に、好きなものの傍にいて、それを眺めている時の感情も愛だし、好きな人のために奉仕する気持ちも愛だ。そして、何かが「好き」という感情は、それだけでも一種の満足感を与えることもある。とりあえず、「愛」はある対象に対して抱く肯定的感情ではあるから、プラスとしておこう。


 さて、その他の「怒り」「哀しみ」「憎しみ」「恐怖」などの感情がマイナス感情であり、我々の心を苦しめるものであることは言うまでもない。(この「苦しみ」も七情に追加してもいいが、苦しみはむしろ総合的なマイナス感情だろう。)こうしたマイナス感情を心から完全追放してもいい、と思う人もいるだろう。実際、それができている人間もいる。それは「多幸症」という精神病患者である。また、麻薬などを用いることで、多幸症に近い状態を作ることもできるようだ。


 だが、精神病患者になるのも、麻薬を使うのもいやだというのなら、我々は「哲学的」に精神の自己制御を試みる必要がある。それが、これから本格的に論じる「心術」である。


 昔の用語では、心術とは、「心の状態」のような意味で使っていたようだが、私はそれをまさしく、「術」として論じるつもりである。

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