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セクシーな時間の使い方

セクシー小泉が一紙でも新聞を読んでいたことが驚きであるwww
10紙取っていても4コマ漫画しか読まない可能性もあるが、「ペリクレス」などという名前が出てきたのは驚きだ。塩野七生が好きなようだが、まあ、自民党の爺さんたちが好みそうな作家ではある。つまり、歴史や社会を「リアリスト」として評論する作家だ。曽野綾子にも似ている。自分やその仲間に都合の悪い事実には目を向けないリアリストwww 歴史を語るぶんにはいいが、小賢しい分、現実政治に口を出すと最悪な人種だ。

(以下引用)

小泉進次郎「新聞を読むのをやめましたね、時間の無駄。習近平やプーチンなら何をするか考えてるんですよ」

1: ペンシクロビル(SB-iPhone) [IN] 2021/03/29(月) 12:10:00.89 ID:bi7nGYFz0● BE:144189134-2BP(2000)
小泉
実はね、新聞10紙を読むの、止めたんですよ。「時間の使い方」を変えようと思って。新聞を読み終わった時、あまりにも残るものが少ないと気づきましたね。だったら、塩野七生さんの本を読んだ方が、時間の使い方としてよっぽど学びがある。

なんのために時間を使うべきか。使わないべきか。本当に考えている。なにをやるべきか。
なにをやらざるべきか。1時間があったら、何をできるんだろうといつも考えています。そうすると、自分の行動原理が変わります。

1時間があったら習近平とプーチンは何をやるんだろうな、アレクサンダーだったら1時間あったら何をやったんだろうか、ペリクレスだったら何を考えていたんだろうな……というふうに。バカみたいでしょ、「何、言ってんだ。この人」と思うでしょ(笑)。でも、本当にそんなことを考えるんですよ。
以下略全文はソースへ
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/54068?page=4
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52: ファビピラビル(東京都) [GB] 2021/03/29(月) 12:16:43.35 ID:mI5tpl430
>>1
何をやらないかばっかり考えてそうw



58: テノホビル(大分県) [US] 2021/03/29(月) 12:17:27.85 ID:069TrjaP0
>>1
いや!おまえは読んどけ!
プラスチックの基本事項すら知らんのだから!



92: ビクテグラビルナトリウム(福島県) [US] 2021/03/29(月) 12:23:06.43 ID:3cg0k2140
>>1
そんなのはみんな中2の夏休みとかに済ませてる思考だろ
お前の今やるべき事は政治家をやめる事だと思うぞ?



124: ラニナミビルオクタン酸エステル(東京都) [US] 2021/03/29(月) 12:27:38.44 ID:GgDiYkoT0
>>1
これほんとに言ってんの?



155: リルピビリン(東京都) [FR] 2021/03/29(月) 12:35:09.17 ID:Nv3e3tfP0
>>1
久しぶりに読んで損した気持ちになった( ・∀・)
新聞読んだ方がましだった( ・∀・)



287: イノシンプラノベクス(埼玉県) [US] 2021/03/29(月) 13:04:03.97 ID:quHk2+m/0
>>1
それだけ学を貯めこんで思いついたのがレジ袋の有料化か。バカなのか?



315: リトナビル(兵庫県) [FR] 2021/03/29(月) 13:11:25.16 ID:8JNbblSG0
>>1
新聞10紙を読んでたのに、そんなに見識がないの? ってことにビックリしました

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中国の躍進の理由

ツィート者の名前などまで入れるとコピーできなかったりするので、文章のみ転載。
まさに、「その国を進歩させ豊かにし、人民の支持を得る」のが政府の必須条件。社会主義も実は民主主義(人民の支持を得る)を根本としているわけだ。社会主義と対立するのは資本主義だが、中国は経済では資本主義に移行しながら、社会主義的政治で資本主義の暴走に歯止めをかけている。それが中国の大躍進の根本にあると思う。つまり、私が昔から言っている「資本主義と社会主義の結婚」だ。

(以下引用)


その通り アメリカ政府の勝手な価値観 嘘の「開かれた自由と民主主義」 を押し付けないで下さい 世界800ヶ所にも及ぶ軍事施設を本国に引き上げてからですね 話はそれからでしょう
引用ツイート
宋 文洲
@sohbunshu
·
「他国の政治体制が良いかどうかは米国が決めることではない。その国の実情に合い、その国を進歩させ豊かにし、人民の支持を得ることが基準だ 一年で50万人以上国民を犠牲にし、4万人も銃で死なせ、偽情報でイラクを侵略し数十万の民間人を死なせる国は民主主義と人権を語る資格がない」中国外務省

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時代や状況の変化と「言葉の保守性」

tanuki氏の知性と教養が伺えるコメントだが、これに関して、あまり誰も指摘していない日本語の欠陥をひとつ書いておく。
それは、「顔見知り、特に仕事仲間に対し、午後になってその日初めて顔を合わせる時の挨拶の言葉として適当なものが存在しない」ということだ。「おはよう」はあくまで朝いちばんで顔を合わせる時の挨拶なのである。では、午後だったら「今日は」ならいいか。職場の顔見知りの相手に、「今日は」と言いながら職場に入っていくと馬鹿みたいである。つまり、かつての日本は「仕事仲間と午後になってから顔を合わせる」ことがほとんど無かったから、その際の挨拶の言葉が存在しなかったのである。
日本で一番最初(重言か?)にこの問題に逢着したのが芸能界、特にテレビ界である。そこで、その世界において、朝だろうが昼だろうが夜だろうが、その日最初に顔を合わせる相手にはみな「おはようございます」で済ませるという暗黙の了解が出来上がったわけだ。
なお、時代や状況の変化で新しい言葉が必要になることはよくあるが、「自分たちは時代の先端を行っている」ことのアピールのために新語やカタカナ言葉をやたらに使う馬鹿が論外であるのは言うまでもない。これは官公庁やマスコミ人種に多い。
ちなみに、tanuki氏の文章冒頭に出てくるmadhenは「キチガイ牝鶏」ではなく、ドイツ語の「メイデン」つまり一般的には「少女」と訳される言葉だろう。(綴りは初めて知った。)下の記述を見ると、若年の婦人全体に用いる言葉のようだ。


(以下引用)


大学時代ドイツ語の授業中madhenの使い方で、年下の女性に対してなら年齢関係なく使えると言ってましたな。
先生が留学時代、混んだトラムで空席を見つけた老紳士が、年配の女性に向かって Madchen! と手招きして座らせてたなんて話をしてましたなあ。先生は女の子がどこにいるのかキョロキョロしてたら白髪の老女がトコトコ歩いてきて座ったと。


但し若い人が年上女性に対しては失礼だから駄目だぞ。と。


要するに言葉はつねに相対的なものであって、相手を尊重しいたわる気持ちがあるかどうかなんですな。下品に嘲笑ったり、コケにする気持ちで言葉を使うから世間一般の顰蹙を買う。
これも普段からの心の持ちようですなあ。
まあアタシもジジババとは言うが、自分もそうだからギリギリセーフか。


まあこのあたり石原慎太郎なんかも同じようなこと言っていた。性格の根っこに男尊女卑、女性の価値を性的にしか捉えられない精神的欠陥があるのでそれが事あるごとに破れ出るだけですな。


そういや未だ日本人はgood nightとgood eveningの使い方がわかってないんですな。
夜間のこんにちはがgood evening、さようなら(おやすみ)がgood nightというのは大体シチュエーションとしては間違いないんだが、eveningはまだまだこれから活動する(だろう)人に対して、nightはこれから休む人に向かって使う言葉なんですな。だから時間は関係ない。
深夜のバーでもナンパするときはgood eveningだし、夕方日のある時間でも帰宅する人にはgood night。
相手次第で使う言葉が決まる、ということは相手に対する想像力が必要なんですな。


森元や自民党幹部バカ似非保守連中には根本的に欠けた能力ともいえるわけです。


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キチガイ集団

電通の佐々木の過去のヒット作とされているCMが軒並みくだらないことが、あの「オリンピッグ」事件以来多くの人に認知されているが、かなり前の小田嶋隆師の下の記事が広告業界について引導を渡しているので、転載する。まあ、ああいう詐欺的商売が若者憧れの職業だった時代もあったということで、その実態は、案外、知っている人は知っていたのである。私も青年漫画誌「ビッグコミック」に載っていたホイチョイプロダクションの漫画で夙(つと)に知っていた。「上役やスポンサーのナニをサランラップで包んで尺八が新人社員の必須技能」、などというのはその漫画で知った。しかし、やる方もやらせる方も何が面白いのか、キチガイの世界である。


(以下引用)

小田嶋隆「大日本観察」

担当者より:コラムニスト・小田嶋隆さんが2008年に『広告批評』休刊をうけて書いた原稿です。また先日、小田嶋さんと岡康道さんの共著『ガラパゴスでいいじゃない』(講談社)が発売されました、そちらもぜひ!

配信日:2008/06/18


『広告批評』が休刊するのだそうだ。なるほどね、と言おう。ずっと前から予想がついていたみたいな口調で。ふむ、と。実際に、予想がついていたのかどうかはともかく。だって、『広告批評』がわれわれに教えてくれたのは、「何事につけて、わかったふりをしておこうぜ」という態度だったわけだから。「いつもわかったような顔つきを保ち続けることが、もののわかった人と思われるための秘訣だぞ」と、私は、あの雑誌から、そういうメッセージを受け取っていた。

で、実際、天野祐吉は、いつでも「わかった人」として、コメントしていた。殺人事件から、経済指標、グルメ、ファッション、ジャズ、映画、文学、生理用品まで。広告を批評する人間は、全世界を批評できるんだぞみたいな、そういう誤解を定着させることに、あの人たちは成功していたわけだよ。天晴れ、広告卑怯――というのは、言い過ぎだな。訂正する。批評広告。

正直に言うと、私は、びっくりしている。まさか、『広告批評』が休刊するなんて、予想すらしていなかったから。どうしてなんだろう。ここでは、その理由を分析してみたい。なぜダメだったのかという、広告屋さんたちが決してしないタイプの分析作業を、誰かがせねばならないはずだから。っていうか、批評という立場から撤退するのなら、『広告批評』は、自分たちの撤退について、まず存分に批評的な分析をせねばならなかったはずなのだ……とか、そういう難しいことを言うのはやめよう。そもそも批評なんかじゃなかったのかもしれないわけだからね。批評という商売。一種のメタ広告としての疑似批評広告、と。

代理店の人間は、勝つ理由についてなら、ヤマほど理屈を並べることができる、そういう人々だ。一方、敗因分析はからっきし苦手だ。売り上げに直結しない分析は、あの業界では無視されるから。しかしながら、オレら構造不況業種の申し子であるところの出版界の人間は、むしろ敗因分析を本業としている。後智恵。愚痴。あるいは、死者に鞭(←「支社に無知」by Atok)。あんまり生産的ではないが。

とにかく、ここしばらく、広告に関しては、あまりパッとした話を聞かなかった。やれ広告制作の単価が安くなっているとか、新聞の広告売り上げが右肩下がりだとか、伝わってくるのはそんな話ばかりだ。テレビもひどい。なんでも、今年にはいって、民放各局のスポットCM売り上げは、軒並み、前年比で十数%下落しているらしい。

たしかに、テレビ画面に出てくるCMは、この10年ほどの間に、驚くべき水準で劣化してきている。私のような素人の目から見ても、映像そのものにカネが掛かっていないのが丸わかりだ。ラインナップも、パチ屋、サラ金、尿漏れパンツ、老人向け年金保険、墓地、入れ歯安定剤……と、10年前だったら画面に出すことさえはばかられていた商品が、目白押しで並んでいる。それもゴールデンの時間帯に、だ。

新聞広告もひどい。スッポンだの鹿の角だのから出来ていることを謳った怪しげな健康食品、先物取引に自己啓発研修、あるいはマルチまがいの浄水器みたいなものの広告が、一流とされている新聞の紙面に堂々と掲載されている。折り込みの形で挟まってくる広告はある意味、さらに破壊的だ。地域によって多少の差はあるだろうが、どっちにしても地域密着型の詐偽まがい。SF商法や売り逃げ店舗の開店チラシ。催眠商法のバラ撒き広告や試供品詐偽の釣り用チケット。駅前の呼び込みみたいな調子のダミ声。ひどい。

以上のごとき次第で、「テレビで宣伝している会社だから一流だ」「新聞に広告が載っている商品だから大丈夫」といった感じの昭和の常識は、すでに瓦解している。というよりも、20歳から下の若い人々は、瓦解もなにも、はなっから広告に対して憧れを抱いていない。

思うに、『広告批評』の休刊はこういうところから来ている。つまり、「メガ広告の終焉」だとか、「広告媒体の多様化」だとかいったそれらしい分析以前の、モロな「広告」の破産という事態が、『広告批評』を休刊に追い込んだのであって、「広告」という作業そのものが信用を失ったことに、私どもは注目せねばならないのである。

知り合いの広告関係者に言わせると、うちの国の広告は、ほとんどまったくドメスティックな枠組みで作られているがゆえに、予算規模自体が、国内限定のケチくさい枠に縛られている。であるから、ナイキだとかアディダスみたいな会社が世界数十カ国に配信することを前提に作っている予算何十億の広告作品とは、はじめっから勝負にならないらしい。なるほど。

だから、天気待ち(野外撮影の場合、良い映像を撮るために、最適な光を求めて好天を待つものらしい)もろくにできていない、安い光で撮った、ショボい映像が、無防備で茶の間に流れているわけだ。で、その、ホームビデオで撮ったみたいなチープなCMを見ながら、若い連中は、広告業界への憧れを、徐々に喪失して行った――これが、バブル崩壊以後の20年ぐらいの間に起こったことの真相なのだと思う。

私が若者だった頃、広告業界は、学生や若いリーマンにとって、まさに憧れの職場だった。クリエイティブで、おしゃれで、高収入で、将来性があって、自由で、経費使い放題で、最先端で、女にモテて、育ちの良い同僚がいっぱいいる、とにかく、あらゆる点で、最高の就職先に見えた。広告作品自体も、なんだか時代をリードしているみたいに見えていた。なにしろ、「作品」と呼ばれていたぐらいだから。実態は宣伝媒体に過ぎないくせに。

結局、広告は「広告」を広告することに成功していたわけだ。広告業界は、「広告業界って最高だぜ」というプロパガンダを定着させ、「広告が時代を変えるんだぜ」というお題目をまんまと実体化し、そうやって、本来は流通の末端にいるはずの仕事を、経済界のトップに位置しているかのごとくに見せかけていたのだな。だから、広告業界には、ワナビーがたくさんいた。なんとかして広告に関わりたいと願っている、そういう若い業界予備軍の存在が、広告の単価を上げ、広告人の地位を押し上げ、彼らの社会的地位を幻想上の殿上人たらしめていたのである。

二十世紀のある時期まで、若いヤツは、誰もが皆、広告関係に就職したいと願っていた。それゆえ、姿形に自信のあるタイプのおねえちゃんたちもまた広告の周辺に蝟集した。で、「広告には才能が集まる」というプロパガンダは、じきに一定の真実を含有するに至る。ひとつの世代のうちの一番優秀な組がこぞって広告業界に集中するみたいなことが、実際に起こっていた時代があったのである。と、才能と収入と世評と外国製乗用車に引き寄せられる形で、女とコンパと酒とコネクションが業界に集中して、最終的に、業界は、一種の仮面舞踏会へと昇華していった。

かくして、広告業界は、広告会社の社員が最も典型的なエリートであるという風評を作成することに成功し、そうした風評の裏付けに、『広告批評』を利用していたわけだ。広告作品を「批評」可能な独立した表現であるかのごとく扱うための媒体として。他人のふんどしで相撲を取りながら(←つまり「クライアントのカネでモノを作っているくせに」ということ)、生活のリスクを負うこともなく、制作費は丸抱えで、そのくせ手柄だけはパトロン抜きで独り占めしようとする、そいう話だったわけだ。そもそものハジメから。

もちろん、広告が時代を反映しているということはまぎれもない事実だ。が、だからといって、広告がひとつの独立した表現として評価されるべきであるのかどうかは、また別の話だ。『広告批評』が、あくまでも、業界紙として、たとえば『日刊鉄鋼新聞』や『月刊住職』みたいな位置づけで、業界人オンリーの雑誌として出版されていたのなら、それはそれでオッケーだと思う。業界の人間が、あくまで業界内の情報として読むのであれば、それなりに、有用な情報も提供できただろう。

が、『広告批評』は、もっぱら業界ワナビー向けに作られていた。文芸誌が作家志望の青年向けに刊行され、ロック雑誌が単に音楽業界人向けにでなく、むしろロケンローラー予備軍を含む、音楽と無縁なティーンエイジャー向けに出版されていたのと同じように、つまり、一種のスターシステムの象徴的媒体として、だ。けれども、そういう時代は終わった。だって、ワナビー自体が、消滅してしまったから。

いずれにしても、広告業界は、中にいる人々にとって、素敵な場所だった。でも、素敵なことばかりが起こっていたわけではない。事実、電通や博報堂に憧れて試験を受けた野心家の多くは、意味のわからない理由で落とされていた。その代わりにまんまと入社していたのは、一部上場企業の重役の息子や、テレビ局の関係者だったりした。癒着ともたれ合い。そう。うちの国の標高の高い場所ではいつも同じプロットが展開される。そういう宿命なのだ。

で、『広告批評』が言っているみたいな、ハイブローでアーティスティックでクリエイティブでハイファッションな作業はともかくとして、業界は、ホイチョイが描いたところそのままの腐敗ぶりを露呈しつつ、徐々に調子を狂わせ、そうこうするうちに、不況と国際化のはさみうちにあって、絶対に国際化できない宿命を担った、うちの国の広告は、いつの間にやらもとの木阿弥の三流業界に立ち戻ってしまったわけですね。ええ、ざまあみろです。

あ。最後の一行は取り消し。忘れてください。分析を装った記事で、本音が露呈してたりするのって、最悪だからね。


●小田嶋隆(おだじま・たかし)
コラムニスト。

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医者や看護婦のエクソダス(大脱走)

新コロ詐欺の旗振りを一生懸命にしている某医者のツィートだが、公立病院から医者や看護婦が大量に辞職する可能性がある、という情報だけは有益だろう。経営者たちはその対策をしているか?
医療者の大量辞職とは、新コロ患者だけでなく、それ以外の病人も誰も医療を受けられなくなるということだから、一般人にとっても他人事ではない。
医療業界は、いつまでも新コロ詐欺の片棒を担いでいると、自分たちが泥沼に沈んでいくということを分かっているのか。

(以下引用)


恐ろしい話なんですが、4月以降、全国の病院の新型コロナに対する診療機能が著しく低下する可能性があります。 『今年度までは頑張る!』と決めて新型コロナの治療に当たっていた医療従事者が燃え尽き、3月末で退職するケースが少なからず生じているからです。 どうぞ、感染予防を徹底して下さい。


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新コロファシズムの旗振り馬鹿

某漫画家がリツィートした山本〇郎(太郎に非ず。ネット界のいかがわしいインフルエンサーのようだ。)のツィートだが、こうした発言がマスクファシズム、ワクチンファシズムを形成していくのである。新コロ詐欺を批判する私から見れば、こうした発言こそ詐欺加担で無数の人々に迷惑をかけるどころか、世界をほとんど破滅に導く犯罪的行為である。

(以下引用)


貴殿ひとりが10年早く死ぬ分には「いい奴だったがマスクしなかったので仕方がない」で済むけれども、貴殿がマスクをしないお陰で感染させられる無関係の人が出て10年早く死ぬ可能性があるのだから、おとなしくワクチンを打ちマスクをしてソーシャルディスタンスをも守ってくれという話ですよ。 twitter.com/unkotaberuno/s…



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秘密力を研究する秘密の人物?

「混沌堂主人雑記(旧名)」から転載。長い記事なので前半略。
私はこの「国際秘密力研究」(菊地という人の文章らしい)の文章が苦手で、これまでほとんど読まなかったのだが、ここに書かれた「陰謀論レッテル」批判は素晴らしい。マスコミやネットに蔓延する、〈「物事の真相(あるいは深層)」を究明しようとする言説をすべて「陰謀論」と決めつけて馬鹿にする姿勢〉を実にきちんと批判している。(文章に違和感を感じるのは、これがツィッターの文章を集めたものだからだろう。つまり、短文に収めるために主語の「私」が無い文章だからだ。それが、この文章の「正体不明」感を出している。)

(以下引用)

〇「事実と道理」はあくまで自分の思考や言動を反省する為の基準であって、自分の思考や言動自体が常に事実や道理に即していると思い込むのとは全く別の事である。後者は「独善」と言う。独善に陥らない為の基準であるのに「事実と道理」という概念に執着して自分の思考自体と混同すると本末転倒になる。
〇「事実と道理」と言っても何が「事実」で何が「道理」かは人ぞれぞれ捉え方や考えが違うので議論や対話に開かれた姿勢も重要だと思う。その意味で、言論弾圧は勿論、何の論証もせず根拠も提示せずに「デマ」と決めつけたり、“陰謀論”なるレッテルを貼り付けるのは極めて道理に悖る態度と言うほかない。
〇自称リベラルなどの陰謀否定論者は「正義に照らして自分の考えを反省する」のではなく「自分の考えが正義だ」という態度である。「人の振り見て我が振り直せ」と言う。事実や道理は自分の思考を反省する為の基準であり、自分の考え自体を「事実」「道理」と思い込むと俗物陰謀否定論者と同類になる。
〇所謂ポリコレなどに「「正義に照らして自分の考えを反省する」のではなく「自分の考えが正義だ」という態度」がよく見られる。この類にとり「正義」とは「自分を反省する為の物差し」ではなく「他人を殴る為の棍棒」である。「自分は正義」というのが大前提である。かかる独善はリンチを誘発しがち。
〇俗物(スノッブ)とは、単に俗欲が深い人物という意味ではない。見栄っ張りで自分を上品で教養の深い知識人と見せたがるような人物を言う。それも結局は俗欲が根底にある訳だが。「陰謀論」を連呼する陰謀否定論者は大抵「インテリ」を気取る擬似知識人なのでまさに「スノッブ」と呼ぶのが相応しい。
〇陰謀追及に「陰謀論」のレッテルを貼るのは擬似インテリ村の掟である。擬似インテリ村では「陰謀論者」という烙印を押される事はムラからの追放を意味する。この村の住人になるには「良識を備えた教養の深い知識人」然として振る舞い、「陰謀論」と決めつけて鼻で笑うスノッブである事が条件である。
〇例えば「グレート・リセット」という語感だけで“陰謀論”と思い込む前にダボス会議が実際に唱えている事くらいは知っておくべき。何事も調べもせずにとりあえずイメージで“陰謀論”と決めつけ“鼻で笑って”みせる擬似インテリ村の“作法”は実に醜悪と言う他はない。すのっぶには付ける薬なしと言った所か。
〇メディアが「陰謀論」の典型としてよく挙げる「小児性愛者ネットワーク」も然り。ジェフリー・エプスタインの事件が表沙汰になっている上に、エプスタインと欧米の「エリート」層(英国の王子などが含まれる)の関係も明らかになっている以上只の「陰謀論」として一笑に付す事は出来ないはずである。
〇「悪魔崇拝」もそうだろう。著名人が何故か「コルナ」サインをする事が多いのは事実である。このサインは元々はイタリアの風習だが、アントン・ラヴェイが採用して以後はサタニズムのシンボルとなった。世界中の有名人がイタリアの風習をやる必然性はないので、サタニズムに関係している可能性は高い。
〇この場合例え「陰謀論」と決めつけても欧米“セレブ”らがコルナ・サインをやる意味の合理的な説明はない。「悪魔崇拝」「悪魔教」「サタニズム」は西洋文明の裏の側面である。これもまた「陰謀論」でも何でもない。故にコルナをやる連中がサタニスト・秘密結社員の類と推測しても何ら論理の飛躍はない。
〇以前書いたが、英国に於ける年間の子供の行方不明者数は他の国と比べて異常に多い。そういうデータがあるのは事実。背景として英国がオカルティズムの中心地である事を想定したとしても決して突飛とは言えないだろう。あくまで可能性の話だが、調べもせずに「陰謀論」の一語で否定し去る事は出来ない。
〇最近は「陰謀論」という侮蔑語を用いるメディアの中傷報道が増えている。「人は何故陰謀論にはまるのか」「身近な人が陰謀論にはまったら?」の類。根拠なく特定の説を盲信するならば「陰謀論」(思考停止語)だろうが「陰謀否定論」だろうが同じ事である。「陰謀論」と限定する所に意図が感じられる。
〇陰謀追及は事実の探求である。否定したいなら根拠を挙げて反証すればよいだけ。反証が出来ず、肯定も否定も出来ないような見解ならば事実探求としての陰謀追及ではなく形而上学的断定やドグマの類なので、その事を指摘すればよい。疑問も持たずに「陰謀論」という思考停止語を使うなら独断論者と同じ。
〇問題なのは「見解への執着」である。ある論者が未証明の特定の説を絶対視すれば確かに「見解への執着」になるが、メディアが弄する論証抜きの「陰謀否定論」にも「見解への執着」が潜んでいる事を看破しなくてはならない。問題は「事実か否か」であり「陰謀論か否か」ではない。事実は認めねばならぬ。
〇論証抜きで「陰謀論」というレッテルを貼り付けて「人は何故陰謀論にハマるのか」「身近な人が陰謀論にハマったら?」などという「何とでも言えるようなざっくりとした印象操作」というメディアがよく用いる手口は実に姑息で卑怯である。かかる陰謀否定論にこそ執拗な意図と執着が潜む事を見抜くべし。
〇確かに陰謀追及界隈には誘導情報の類も多く思想ツールに嵌められたりして排他独善的になったりカルト化するグループもいる。メディアはそれを一般化して陰謀追及者全体を貶める。全くのお門違いである。特定の見解や言説を絶対視し執着する事が問題なのであって、それは陰謀否定論にも言える事である。
〇「覚醒」「目覚めた」という言葉には注意が必要である。物事の理解は段階的に進むので一度の「覚醒」「目覚め」で全て分かる訳ではない。「学校やメディアが言わない裏の構造がある」事に気付くなど転換点となる「気づき」がある事は否定しないが、それは「入口」であり、そこからさらに探求が始まる。
〇「覚醒」「目覚め」は英語圏では「great awakening」(Qアノン系が多用・元々は米国の基督教用語)という表現が用いられているようである。こういう概念に執着すると、そこで停滞してしまい、思考の柔軟性が失われる可能性があると考える。つまり「覚醒」の時点で得た見解を絶対視しドグマ化する恐れ。
〇「裏の構造に気付いた」など転換点となる「気づき」は「入口」であって、その時点の認識に停滞する事無く、そこからさらに事実を探求していくべきである。人は知らない事の方が圧倒的に多いので、どこまで行っても極まりはないと言える。そういう謙虚な姿勢を持すれば排他独善的にはならないと思う。
〇比喩的な意味などとして「覚醒」「目覚め」等の言葉を使っていても、入口段階の見解を絶対視したりせず、常に事実を探求し続ける思考の柔軟性が失われていなければ何も問題はない。要は独立的思考が働いているか否か。特定の観念や概念、見解への執着がこれを失わせる原因になる事が多いと見ている。
〇メディアが陰謀追及者に「そうあって欲しい」という「像」があると見る。○排他独善的○過激な行為に走りたがる○事実の探求を怠り特定の見解を絶対視○終末論やメシアニズムを盲信しており「もうすぐ世界が救われる」と根拠なく吹聴する...等々。これを一般化して陰謀追及者を貶められるからである。
〇メディアが陰謀追及者に「そうあって欲しくない」像もあると考える。例えば、事実を重視・地道に事実を積み重ねる・論理的である・対話や議論など開かれた姿勢がある・根拠の無い事は肯定も否定もせず無記で臨む・独断的ではない・道理を守る...等々。こういうタイプの追及者が増えると嫌がると思う。
〇熱狂は冷める時節あり。「世界はもうすぐ救われる」「○月×日に何かが起こる」等一挙に問題が解決するかのような出来事に期待するメシアニズムは、それが起こらなかった時の落胆と表裏一体である。世の中が正されるのはあくまで地道な積み重ねの結果(原因・条件・結果の連鎖の結果)ではあるまいか。
https://twitter.com/kikuchi_8/status/1367166579847299076


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