秋篠宮家の長女、眞子さまの結婚問題で、国民の心が揺れている。天皇陛下と秋篠宮皇嗣殿下はともに「多くの人が納得し喜んでくれる状況」を願っていると、お言葉にされた。今後、お2人は今後、どのような道を選択されるべきなのか。皇室取材歴30年の女性自身記者で、ジャーナリストの近重幸哉さんに聞いた。
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――秋篠宮さまだけなく、天皇陛下もお誕生日の会見で、眞子さまと小室圭さんの結婚問題について「多くの人が納得し喜んでくれる状況になることを願っております」と言及されました。これにはどんな意味があるのでしょうか。
近重さん(以下、敬称略):天皇陛下のお誕生日会見によって、眞子さまと小室さんの結婚に関することは、秋篠宮ご夫妻と眞子さまの親子間のみにとどまる問題ではなくなり、この国民的関心事のレベルが上がった、重大さのハードルがもう一段上がったという印象があります。陛下がお言葉にされたということは、国民に祝福されない状態のまま眞子さまが結婚へと進まれるのは、皇室としても賛同できないことだということを表しているのです。
眞子さまと小室さんは、ご結婚の延期から3年をかけ多くの人が抱くようになった小室さんの母親の金銭問題や小室さんの突然のアメリカ留学などに対しての心配や不信感を払拭するだけの説明が必要になります。
また、陛下は「眞子内親王がご両親とよく話し合い」とも口にされました。そのように述べられた以上は、秋篠宮ご夫妻と眞子さまは解決に向けてきちんと対話をしなければならないということでしょう。
――今回の陛下のお言葉の前に、昨年11月末、眞子さまと小室さんの結婚について、秋篠宮さまは「認める」とおっしゃいました。一方で「婚約は別」とも。国民にとって解釈が難しいところです。
近重:秋篠宮殿下の「結婚を認める」という言葉だけが、目立ってしまいましたが、ご発言の全体を読み解けば、もっと深い意味があるとわかります。憲法では、婚姻は両性の同意のみに基づくものとされています。なので、父親としては眞子さまと小室さんの気持ちを尊重し、憲法で定められている結婚は認めるということです。しかし、秋篠宮殿下が婚約を認めない限り、宮内庁としては一般の婚約に当たる納采の儀をはじめとした結婚に関する一連の儀式は行えません。つまり、今の状況のままでは、皇室としての結婚はできないということなのです。
――それでも、秋篠宮さまの「結婚を認める」というご発言が明らかになって以降、さまざまな憶測を呼び、「年内に結婚」という記事も見受けられました。
近重:お二人が早く結婚したいと望んでいることは、これまで繰り返し報じられています。しかし、小室さんが眞子さまと本当に早く結婚したいのであれば、陛下や秋篠宮殿下がお言葉にされてきたことに対して、誠意を示して取り組むべきではないでしょうか。小室さんは夏に米国で弁護士資格取得の試験を受ける予定とされていますので、代理人を通じての説明でもいいでしょう。しかし私は、試験の結果が出てからの方がいいと思っています。今はコロナ禍という特別な状況であり、急いでことを進めようとしても多くの人の納得を得ることが難しい社会情勢だからです。
コロナ禍で、国民は気持ちにも生活にも余裕のない状態です。世の中がこのように厳しい状況では慶事もなかなか受け入れてもらえないものです。たとえ小室さんが十分な説明をしたとしても、皇族の結婚への国民の理解は得られにくいと思います。
コロナ禍の悪い流れが収束へ向かう状況に世の中が変わって、社会が立ち直る兆しがみえたときに、明るいニュースがあると国民は喜んでくれるものです。例えば、秋篠宮殿下と紀子さまのご結婚は、昭和天皇崩御の翌年でした。喪が明けてから、納采の儀が執り行われ、一連の儀式を経て、平成2年6月に結婚されました。平成の御代になって皇室初の慶事に、国民は心から喜び祝福したのです。
ですから、眞子さまと小室さんは国民の理解を得たいのならば、焦らないほうがいいと思います。
――とはいえ、眞子さまは今年の10月に30歳という一つの節目を迎えられます。眞子さまは昨年11月、小室さんとの結婚についてのお気持ちを文書で発表しました。眞子さまの言葉の一つ一つに、「早く結婚したい」という強い思いがにじんでいるように思えました。
近重:私は、もし眞子さまが今のままの状況で“強行突破”されたら、日本の皇室が大切にしてきた国民からの信頼が薄れてしまうかもしれないと思っています。
眞子さまは上皇さまの初孫であり、将来、天皇となられる悠仁さまの姉であり、両陛下のご長女・愛子さまのいとこの中で最も年長であるわけです。そして今は、皇族数の減少が大きな課題となり女性皇族の注目度も高くなっています。
コロナ禍の不安な状況で結婚を延期した方たちもいると思います。また初婚の平均年齢も上がっています。30歳まで、30歳のうちにというご自分たちの気持ちを優先され急いで結婚されたら、多くの国民は眞子さまと小室さんを心から祝福できないでしょう。眞子さまをお育てになった秋篠宮家にも、そのマイナスの印象はずっとついてまわります。
仮に、小室さんと米国で生活をすれば、日本にいる国民の声は聞こえないかもしれません。でも、それでは眞子さまはいったい何のために皇室に生まれお育ちになったのでしょうか。
――「皇室に生まれた意味」とはどういうことでしょうか。
近重:少し話はそれますが、日本人とは不思議なもので、若いころはさほど皇室に興味がなくても、年齢を重ねるにつれ、皇室に関心を持ってくる人が多くなるのです。実は私も20代のころは、皇室に興味がありませんでした。
しかし、30年にわたり皇室取材を続けるうちに、なぜ、日本の皇室がこれほど国民から敬愛されるのか、徐々にわかってきたのです。
皇室のお務めといえば、国際親善の場や、オリンピック、国体などの開会式や大きな催しへの出席など華やかな場面が報道されます。もちろんそれらの公務も大切ですが、テレビで放映される姿だけが皇室としてのご活動ではありません。被災地の慰問では、膝をついて被災者と同じ目線になって、被災者の声にずっと耳を傾けてこられました。福祉施設や、高齢者施設、小児科病棟なども訪問され、少人数の入所者との交流をお続けになっています。そうしたお務めを何十年も続けてこられているのです。こうしたご交流の積み重ねを行ってきた皇室の方々の尊さに、敬愛の念が生まれるのです。
国民から敬愛されることは象徴天皇制にある皇室には大切です。そのことを、天皇皇后両陛下、上皇陛下、美智子さま、そして秋篠宮殿下と紀子さま、他の皇族方も大切にされ、ご自身を律して過ごされています。平穏なときであっても、現在のように不安が世界中に蔓延しているときでも、国が安らかであるように、国民が安心して暮らせるようにと常に願い、祈られているのです。
眞子さまは、そうした皇室に生まれ多くの国民に見守られてきました。ですので、これまで皇室が大切にしてきたものを守られて結婚してほしいと多くの人が望んでいるのです。祖父祖母である上皇ご夫妻、天皇皇后両陛下がさまざまな場面で国民の心、気持ちを大切にされるのを、眞子さまはずっとご覧になってきました。皇族としての振る舞いをご存じなのです。
今回、陛下は言いづらいことにあえて言及されました。天皇陛下が東日本大震災の十周年追悼式でお使いになった「皆が心を合わせて」とのお言葉がありますが、それは天皇陛下と雅子さまが普段から大切にされているお考え、姿勢だと思います。
天皇陛下は今、心が一つになっていないと思われる秋篠宮ご一家にも、皇室の将来のことも考えて心を合わせて欲しい、眞子さまにご両親の話に聞く耳を持って欲しいと願われているのではないでしょうか。
(まとめ/AERAdot.編集部 鎌田倫子)
今、全文を読み返したが、我ながら面白い。あの頃はまだ頭脳がなかなかしっかりしていて、文章が非常に明晰である。1時間弱(30分程度か)で簡単に読めるので一読をお勧めする。
キリスト教(あるいはユダヤ教)とは何か、についておおまかな理解を得るには最上の文章だと自負している。それに、西欧の世界支配は新コロと新コロワクチンで新たな局面を迎えているので、もう一度「西洋文明の精神」をよく理解しておくのは有益だろう。
(以下自己引用)
以上で、この小論は終わりである。キリスト教信者やユダヤ教信者には失礼な事ばかり書いてあるが、実は私が言いたいのは、一神教的世界観から来る西欧人種的発想の危険性なのである。本論中に述べたように、神に対する倫理と人間に対する倫理のダブルスタンダードの結果、西欧人種は、世界にとって危険な存在となっている。彼らの推進する自由貿易は、必ずと言っていいほどその相手国を貧困に落としいれ、西欧国家との間で恒常的な貿易を続ける限り(、モノカルチャーのプランテーションに縛られたアフリカ諸国のように)貧困から抜け出せない。そして、彼らの最大の特徴は、自分たちのルールを相手に押し付け、都合が悪くなるとそのルールそのものを平気で変えることだ。つまり、彼らには異民族や異人種へのモラルは無いのである。彼らのモラルは、あくまでキリスト教、もしくはユダヤ教を信じる同朋に対してのみ存在し、神を知らない異民族に対してのモラルなど存在しない。だから、東洋人やアフリカ人に対する西欧人の食言は当たり前の行為である。
現在、神の存在を信じている人間は、本当は西欧人にも多くはないはずだ。社会の上位層が嘘ばかりついていて、弱者の不幸に対して無関心で、毎年のように何万人もの人間が銃で死んでも平気で、何の正当な理由も無く他国に攻め込んでそこの住民を虐殺することを延々と続ける、アメリカのような国は、果たしてキリスト教国家なのだろうか。もしも、キリスト教という宗教がそれを許容するなら、キリスト教にはまったく価値は無い。アメリカ社会の上位層の多くはユダヤ人だから、ユダヤ教も同様だ。彼らは本当に、自分の宗教を信じているのだろうか。それとも、やはり、彼らの宗教とモラルは同朋に対してのみのものなのか。神への信仰が無くなった状態の(そして一神教的独善性のみを残した)西欧人とは、より悪質な、アモラル(無道徳)な存在となるのである。
私のこの文章を、非キリスト教徒の独断と偏見だと思う人も多いだろう。だが、これは、世界中の人間がキリスト教やユダヤ教に対して抱いている疑いを、歴史的な聖書と教会(私の言う「新キリスト教」)のあり方の分裂の点から切り込み、分析して考察したものにすぎないのである。同じような事を、紳士的に書けば、たとえば次のようなものになる。これは中央公論社刊「世界の名著13『聖書』」の責任編集者で、ご自身も敬虔なキリスト教徒である前田護郎氏の、同著作の序文中の一節である。
「キリスト教教会の歴史には東西ローマの分裂とか、血なまぐさい十字軍とか、残酷な宗教裁判とかがつづき、教会の権威が学問を圧迫したこともあり、近代になってもキリスト教徒同士の争いは絶えない。今世紀の二度の大戦で、いわゆるキリスト教国が大量殺人をしたので、教会はかなえの軽重を問われている。アジア、アフリカの人々の多くにとって、キリスト教は植民地帝国主義者の宗教である。六日間非キリスト教徒を搾取して七日目に教会へ行く人々がキリスト教徒である、という人が彼らの中にある。キリスト教国といわれる地域の中にも、白人と黒人とが別々の教会へ行かねばならぬほど人種的偏見が強いところがある。
われわれ日本人にとっては、スペイン、ポルトガルの侵略に協力したキリシタン・バテレンの歴史も忘れがたく、現代では、原子爆弾や戦争裁判に関係した諸国のキリスト教会の態度が問題にされるという事実も否定しえない。
しかし、これらはいずれもキリスト教会あるいはキリスト教徒のことであって、彼らによって聖書の精神が無視あるいは曲解されて、一部の人々の勢力を守るために他が犠牲にされた不祥事である。聖書と宗教体制としてのキリスト教会とを混同してはならない。」
この言葉は、私などよりよほど過激に、キリスト教会とキリスト教徒を批判しており、私が言いたいことの要点を尽くしている。同じ文中に、「哲学者ヤスパースが聖書の宗教をキリスト教と区別して扱うのは注目すべき例である」と述べているのも、同様である。
要するに、私が述べたことを一言で言えば、「キリストは『キリスト教徒』ではない」ということだ。逆に、「『キリスト教徒』はキリストの教えが分かっていない」と言ってもいい。
西欧人種は、彼ら自身の内面、彼らの宗教の根本を考える必要がある。日本人は? 我々は、宗教に規制されなくても、社会的モラルを守るという伝統がある。(その伝統も、西欧文明化=グローバリズムや西欧的拝金主義によってあやしくなってきたが。)日本人に必要なのは、そうした西欧人種の正体を知り、西欧人の利益のための「グローバル化」と「西欧化」をこのまま進めていいのかどうか反省することだろう。特に英語の世界語化による言語的階層世界への組み入れや、あるいは無意識の西欧崇拝根性育成の意味を。
世界中で、政治的な植民地的侵略の尖兵となった「キリスト教」に侵されなかった国はおそらく日本だけである。それは、「キリスト教」の侵略者的役割を見抜いた秀吉と家康の鎖国という英断によるものだ。他のアジア・アフリカ諸国はみな、「キリスト教」の宣教をカモフラージュとした侵略に国を食い荒らされたのである。その日本が今や、グローバル化という第二の植民地化の波に飲み込まれようとしているのである。ここで、「キリスト教」と西欧人種の本質についてよく考えておく必要があるだろう。
ついでながら、西欧植民地主義はけっして過去の話ではない。西欧人は、自分の植民地が独立した後でも、現地人政治指導者を傀儡として使うなど、何らかの形で、その植民地を支配しているのである。(自分たちの気に入らない政権が出来てしまった場合は「民主的指導者」を支援してその国に「革命」を起こさせる。)それは日本に対しても同じであり、被占領国であった日本はサンフランシスコ平和条約で形式的には独立したが、それと同時に結んだ日米安保条約で国内に米軍基地を置くことを余儀なくされ、米国への反抗は半永久的に不可能になったのである。(戦後すぐに、アメリカの政治資金と工作によって出来た政党が現在のJ民党である。その日本側の中心人物が本来なら戦犯である岸信介であることからも、アメリカの政治のニヒルなほどの現実主義がわかるだろう。)日本の政治はアメリカからの年次改革要望書などの形でアメリカから常にコントロールされており、一部の人間の間ではすでに常識だが、日本は決して本当の意味での独立国家ではないのだ。
しかし、政治的な次元での支配、つまり表面化している植民地的支配は、実はそれほど危険ではない。もっとも危険なのは、精神的な支配、我々の中に内面化された、自発的な被支配根性、奴隷根性である。支配のプロであるかつてのローマ帝国が被植民地の民族に養成しようとしてきたのも、自発的に支配に従う精神であり、「キリスト教」の利用もその一つである。話はキリスト教だけのことではないのだ。あらゆる宗教は政治との持ちつ持たれつの関係によってその力を拡大するのである。その信者には本来は罪はない。だが、政治と結びついたその行動によって彼らは世界全体に大きな被害を与えるのである。
「宗教は阿片である」という言葉は、それを言った人間が〈マルキシズム〉という「宗教的政治思想」の提唱者であるだけに価値を減じているが、その言葉自体は正しい。阿片は確かに現世の苦痛から逃避させてくれるというメリットがあり、終末期医療の手段としてなら大いに結構なものだが、現実的認識と行動を不可能にさせるという極端なデメリットがある。それが、私がこの小文を書いた理由である。
[補記] 神の存在については、中江兆民が『続一年有半』の中で完全に論破している。この書は、世界の哲学書の中でもっともすぐれたものの一つだが、その内容が西欧精神の根本を否定しているために、これまで批評の対象とならなかったものである。興味のある人は、是非、一読を願いたい。
2008年 11月24日 記
2009年 8月24日 一部改稿