幕末物語とか、維新の志士物語は、全部嫌いで、スルーしていたのだけど。

西郷どんだけは別でね。

私は、その事績も何も知らない頃から、西郷隆盛だけは好きでした。

いわば、新政府にたてついて、西南戦争を指揮した賊軍の大将にもかかわらず、東京に銅像が立つことも、不思議でした。

多くの人々から慕われているありさまが、じわじわと伝わる感があります。

(中略)

というわけで、わずかに、会津さざえ堂、阿蘇の火口、長崎出島そして、鹿児島だけが、思い出に残る旅行先となりました。

その中で、一番心に残った場所は、観光バスが、ヘヤピンカーブの途中に、しばし止まり「ここが、この場所が、西郷さんが、皇居を遥拝して、自害された場所です。」と聞いた場所。

ただの道路です。何もない。

にもかかわらず、その時の西郷さんの胸の内がしみいるようで、涙が浮かびました。

むしろ、その後、私はなぜ、そうまで西郷さんに、心を寄せるのか?

西南の役とは、なにか?

なぜ西郷さんは、決起したのか、
誰に向かって兵をあげたのか?


本当のことは、本人にしかわからないし、勝者の歴史は、西郷さんの真実は語るはずがない。

この前、保江博士のユーチューブを見ていたら、カバルの小児のいけにえやアドレナクロムの話題が、出て、そのあと、長州の連中が、中央に上って「ひどいことをやった」

「唐行さん」を、大量に売り飛ばした。

長州と薩摩が連合して、成し遂げた維新であったが、前に進むにつれ「こんなはずではなかった」という出来事が、次々出てくる。

そして、ついに、西郷は、耐えかねて国に還る。

自分の理想が、裏切られたからに違いない。

許せないさまざまなこと。

勝ちに行ったのか、負けを承知でたったのか、わからない。

けれど、もはや、これまでと言うとき、西郷さんは、はるか薩摩から皇居を遥拝する。

なぜ?

西郷さんは、もはや、ここまでと言うとき、はるか、皇居の天子様に向かって、なにを伝えたかったのだろう。

うらみごとを、言う人ではない。

天子様を守り切れなかったことを、お詫びしたのではないかと、
私は思う。

理想の政治から程遠い長州の仕業を、止めることも、正すことも、できずに、消えゆくしかない非力を、西郷さんは、はるか薩摩から、お上に、お詫びしたのだと思う。

少なくとも、西郷さんは、明治天皇を、偽物とは思っていない。
南朝系であろうとも、まことの天子と信じていた。

いや、すり替えられたとも、思ってはいなかったと思うよ。

もう、無理だろうとは、思いながら、最後の思いをかけたのではないだろうか。

今の安倍政権、そのほか、田布施の仕業を見れば、西郷さんの思いが、わかる気がする。

天子様が、どういう連中に祭り上げられ、とんでもない責任を押し付けられ、なさけない立場に置かれるか、西郷さんには、見えていて、だから、お詫びをして、この世を去ったのではないかと私は思う。

明治政府の犯罪と、明治天皇が一心同体だったとは、思わない。

天皇と言う立場が、すすんで犯罪行為に手を染める必然性はないよ。

それでも、主人である以上、責任は自分にあると、昭和天皇はマッカーサーに、伝えた。

私は、つまり、やっぱり。

天皇擁護。