少し前の「谷間の百合」ブログ記事の一部だが、記事の冒頭部分が特に興味深かったので転載する。これは私も前々から感じていたことで、私の青年時代には多くの文学者や評論家が実に刺激的な内容の著作や発言を通して我々凡人に「高度な知性とはこういうもので、人生を豊かにする知識はこういうものだ」と教えてくれたのである。
最近批判の多い小林秀雄などにしても、その言葉で「目が開けた」というものはたくさんある。たとえば、「人は物の名前を知った瞬間にその物自体を見なくなる(あるいは見えなくなる)」という指摘は、これは学校教育の中で必ず教えるべき言葉だと思う。三島由紀夫の著作(特に評論文)にしても、そこから私が学んだことは無数にある。特に「『見渡せば花も紅葉も無かりけり。浦の苫屋の秋の夕暮れ』という西行の歌は、上の句で描かれた花や紅葉が、それが存在しないと分かっても、その華麗な残像が現実の寂寞とした浦の苫屋の秋の夕暮れと重なりあって見事な効果を生んでいる」という指摘は、これこそまさに文芸解釈の黄金の言葉だと思う。言うまでもないが、以上はうろ覚えで書いている。
そのほか、澁澤龍彦、寺山修司、その他あらゆる評論家、小説家、歌人や俳人、演劇人、美術家、映画監督などが世界や芸術への我々の目を開かせてくれたのである。世界全体にもそういう知識人が多かったのである。彼らがいなければ、現実世界も脳内世界も実に索漠たるものになっただろう。
さて、現代にそういう「知的水先案内人」はいるだろうか。
(以下引用)
最近批判の多い小林秀雄などにしても、その言葉で「目が開けた」というものはたくさんある。たとえば、「人は物の名前を知った瞬間にその物自体を見なくなる(あるいは見えなくなる)」という指摘は、これは学校教育の中で必ず教えるべき言葉だと思う。三島由紀夫の著作(特に評論文)にしても、そこから私が学んだことは無数にある。特に「『見渡せば花も紅葉も無かりけり。浦の苫屋の秋の夕暮れ』という西行の歌は、上の句で描かれた花や紅葉が、それが存在しないと分かっても、その華麗な残像が現実の寂寞とした浦の苫屋の秋の夕暮れと重なりあって見事な効果を生んでいる」という指摘は、これこそまさに文芸解釈の黄金の言葉だと思う。言うまでもないが、以上はうろ覚えで書いている。
そのほか、澁澤龍彦、寺山修司、その他あらゆる評論家、小説家、歌人や俳人、演劇人、美術家、映画監督などが世界や芸術への我々の目を開かせてくれたのである。世界全体にもそういう知識人が多かったのである。彼らがいなければ、現実世界も脳内世界も実に索漠たるものになっただろう。
さて、現代にそういう「知的水先案内人」はいるだろうか。
(以下引用)
日本は日本人でない人間に支配され日本人はその奴隷になります。
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