「日経ビジネス」所載、「とり・みきの『トリイカ!』」より、抜粋転載。
私も「はだしのゲン」は絵柄が苦手で読まなかった方だ。それに、原爆の悲惨さを訴えた漫画というのも、漫画を娯楽としか思っていない子供には、敬遠の対象となったわけである。だが、そういう「教育漫画」も、漫画の一つのジャンルとして、必要なものではある。また、悲惨な内容を語っていても、その高い文学性で読み手に感動を与える作品は多い。ある漫画家は、手塚治虫の最大の功績は、漫画に「悲劇」を持ちこんだこと(言いかえれば、子供っぽい娯楽を「文学的なドラマ」のあるものに変えたということ)だ、と言っている。まあ、一流の漫画の中には杉浦茂のような無邪気なナンセンスもあり、悲劇性やドラマ性だけが高度な文学性としてもてはやされるのも困るが、悲劇も現代漫画の一要素である、というのは今さら言うまでもない。
さて、下記記事は現役漫画家の発言だが、
「自分の経験からいえば、そもそも子供は誤解や誤読をしながら、あるいは大人から見れば不健全な興味から作品に入るのだ。そうして年月をかけて学習をし、ここは正しくここは間違いだった、などと吟味しながら、それでもなぜ自分がその作品を好きになったのか、を突き止めていくのだと思う。」
という言葉がすべてだろう。世間の「有識者」たちや、親御さんたちは、この言葉をよく考えることだ。要するに、古い歌だが、「一言文句を言う前に、ほら先生よ(親父さん)、ほら先生よ(親父さん)、あんたの生徒を(子供を)信じなさい、ほら信じなさい、ほら信じなさい」ということである。(歌詞は、うろ覚えであるが)
(以下引用)
現在、閉架問題で話題になっている作品は、既に高校生になっていた73年の連載開始であり、個人的には洗練された新しいマンガ表現に夢中になっている時期だったので、正直その一時代前の泥臭い作風だけで敬遠してしまうところがあった。
だが、好きか嫌いかでいえば、けっして好きではないその作画や表現の異様さが逆に気になってついつい読んでしまうのだ。誤解を恐れずにいえば、内容以前に異形のモノへの興味が先行した形になる。これもまた一種の作品の力ではある。
閉架問題そのものについては、私はあまり語る言葉を持たない。
このコラムでしばしばとりあげる「私は私を会員にするようなクラブには入りたくない」のメンタリティからすれば、学校の図書館に率先して置かれるようなマンガは、私は最初からあまり読みたくないと思うからだ。
しかし「無垢の子供に誤解や悪影響を招く」といった文言、あるいは逆に「いや子供はちゃんと真実を見抜いている」というような文言を見ると、どちらにもちょっとした違和感を覚える。
自分の経験からいえば、そもそも子供は誤解や誤読をしながら、あるいは大人から見れば不健全な興味から作品に入るのだ。そうして年月をかけて学習をし、ここは正しくここは間違いだった、などと吟味しながら、それでもなぜ自分がその作品を好きになったのか、を突き止めていくのだと思う。
それにしても今年の夏は、地上波で放送される戦争関係のドキュメントがちょっと少なかった印象だ。去年までNHKでやっていた「証言記録 兵士たちの戦争」が今年はあまり流されなくなったせいもあるかもしれない。
お盆の時期くらい、我々はもっと死者の声を聞いてもいいと思う。
生きている人間のくだらないクレームよりも。