あまり説得力がある論だとは思わないし、私自身、この論に全面的に賛成するわけではないが、方向性としてはこの論者と同じ考えである。
私が気持ち悪いのは、この「喫煙者弾圧」が、上からのみの弾圧ではなく、下からの同意(主にネット世論)を得ての弾圧であることだ。つまり、上と下が同意しているのだから、弾圧される側に逃げ道が無い。
はたして喫煙というのはそれほど重大な犯罪なのだろうか。副流煙被害という怪しげな部分を除けば、自分自身の健康を害するだけの嗜好であり、自己決定権の範囲の話ではないか。
そして、こうした形の弾圧が他の部分にもどんどん応用されていかないだろうか。
弾圧する対象は何でもいいのである。理屈が通っているかどうかも問題にはならない。ただ、怪しげな「科学的根拠」と、上と下が合意しているらしき世論を形成すれば何でも弾圧できる。
(以下引用)
2018-02-19
■喫煙者排除に潜む日本の病巣
「喫煙後45分間」も大学構内に立入禁止 北陸先端大が全面禁煙に踏み切った理由
https://www.excite.co.jp/News/smadan/E1509591737132/
上の記事を読んだ。なんとまあ喫煙後45分は呼気から有害物質が検出されるから受動喫煙防止のため立入禁止なのだそうだ。
もちろん私は一定の分煙に関しては異議を唱えるつもりはない。ネカフェで喫煙ブースに泊まることになった時はあまりの臭いに辟易した経験もあるし。
しかし、今回のJaist全面禁煙や、居酒屋含む飲食店全面禁煙の流れはあまりに常軌を逸していると感じる。
「タバコの臭いを嗅がないでいられる権利」ばかりを尊重しすぎて、「タバコを嗜む権利」を脅かしていないかということだ。
「タバコの臭いを嗅がないでいられる権利」に正当性をもたせるのは簡単である。「臭くて嫌だ」と主張すれば済む。さらに一般の人が受動喫煙として害になるか検証されていない、服についた煙の微粒子やら呼気に含まれる有害物質についても、化学物質過敏症の人の被害を引き合いに出せば、被害者を簡単に創出することが出来る。
しかしながら「タバコを嗜む権利」の方は、「タバコを吸いたい!」といった子供じみた権利の主張以外に何が出来るというのだろうか。結局非喫煙者の支持をとにかく得にくい構造になっているのである。
こうして「被害を受けない権利」だけが尊重され、「する権利」は衰退していく。
この構造は、現在日本のあらゆる場所で表出していないだろうか?
保育園では子供の金切り声による騒音を避けるため、園児たちは二重サッシで仕切られた室内でこじんまりと遊ばされている。
こういった流れが進行しているのも、活動的で主体となりやすい子供や若年層が減少し、一方で客体となりやすい高齢者が増えたのと無関係ではないだろう。
どんどんと窮屈になる日本。他人の多少の迷惑を許容する代わりに、「する自由」に満ちた社会のほうがずっと心地よいと思うのだが。