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自分自身の思想を疑え

為末大オフィシャルサイトの記事から転載。
非常に知的な内容であり、凡百の思想家の言葉より優れていると思う。

正しさや善というものは、価値観を固定しないと存在できない。

これは素晴らしい言葉であり、人々がこの言葉を熟考するだけでも世界の悪や過ちの半分は減らせるだろう。その固定された価値観とは、それを押し付けることによって社会的な利益を得ている一部の人々によって作られた可能性は高いのである。そして、その「正しさ」や「善」とされていることの「強制」(空気による強制も含めて)によって不幸になっている人々も多いはずだ。
いや、そうした「信者」たちの人生そのものが、ある意味では不幸だと思う。固定した(実は愚劣な)信念を持って生きることは、主観的には幸福だろうが、傍から見たら気の毒な幸福であって、それを「豚的幸福」と言ったのは夏目漱石だったか。


(以下引用)



無知は独善
2015年05月22日

私の好きな言葉で”無知は独善”というものがある。


無知とはどういうことか。物事を知らないという意味もあるけれども、私は自らを知らないという意味だととらえている。人間はいつも何かを思い込んでいる。私もあなたもおそらくあの頭のいい人も、今も何かを思い込んでいる。そして人は自分が思い込んでいると気づいた時には、もう思い込んではいない。つまり私たちはいつも何かを思い込んでいて、そして思い込んでいることに気づいていない。


独善という状態は自分の正しさを疑わず、かつ違う視点から考えられないことだと思う。人生では若い時には正しいと信じて疑わなかったことがある経験を経てそうとは限らないと気づいたり、明らかに正義だと思っていたものが現場に行ってみるとそうではなかったことと気づくことがある。自らの偏見に気づいた時、自分の正しさは一つの見方でしかなかったということに気づく。何度かこのプロセスを経て、人は自分が今言っている正しさは、将来も言い切れるとは限らないと知るようになる。正しさや善というものは、価値観を固定しないと存在できない。自分だけの一つの価値観は普遍の正しさだと信じることを私たちは”独善”と呼ぶ。


私の経験上自らが独善の状態にいることを私自身は認識していなかった。むしろどうしてこんな当たり前の正しいことをみんなは気づかないのかと憤っていた。独善の状態はなかなかに心地よい。何より自分自身は正しいのかどうかと疑う視点がないから迷いがない。


独善の状態で突っ走ることも重要な時期もあると思う。アスリートであれば何かを一心に信じることは大事だし、スタートアップの企業などでもいちいち自分を疑うわけにもいかないだろう。そういう時に正しいと信じ切って突っ走ることは大事だろうなと思う。ただし、独善であると自分が知っている状態と知らない状態は大きく違う。


無知は独善だと私は思う。そして独善状態の時、人は自分が独善であるなんて考えもしない。


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