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神仏が存在しない世界

これは仮説なのだが、現代社会が無道徳になったのは、全世界的に教育が普及したためではないか、という気がする。この場合は国家的な洗脳目的の「教育」ではなく、純粋に有益な知識を教える、ごく普通の教育の意味である。
要するに、教育を受けると、人間は物事の真偽が見分けられるようになる。そうすると、宗教的な物事は「エビデンス」が無いのだから、科学的ではない、つまり嘘だ、という判断になるのは当然だ。そうすると、社会の道徳性の基礎となっていた宗教心が社会から消えるのだから、その社会は当然無道徳な社会になるわけである。
言うまでもなく、大昔から社会の上層部にいる連中は宗教を単なる国家運営の道具としてしか見てこなかっただろうが、そういう連中でも心の底では神罰や仏罰を恐れてはいた。だから、表面的にではあれ、道徳性の仮面を着けていたわけである。これは偽善ではあっても、行動としては善に等しい。要するに、道徳的行為の基盤は宗教にあったということだ。これはどの社会でも同じだろう。
人間が「科学的な」見方や考え方をするようになれば、魔術や魔法を信じなくなるのは当然だ。だが、それは同時に神や仏をも信じなくなるということだろう。まあ、科学への信頼も行き過ぎると狂信、つまり一種の宗教になるわけだが、それは別の話だ。
さて、人々が神や仏を信じなくなれば、彼らはどう行動するか、と言えば、当然、「自分の利益になることが最大の行動目的になる」わけで、それは昔からそうではあるが、しかし、「自分の利益になるからと言って、他人を害する行動を取れば、その社会の鼻つまみ者になる」わけで、そこにも道徳の基盤はあった。つまり、「他者と協調して生きる」ことが必要な世の中なら、あまりにエゴイスティックな行動はできない、ということだ。
では、現代はどうか。或る人間の生きる「社会」は、分化している。たとえば家庭と職場の分離などだ。行動範囲が大きく広がってもいる。たとえば、家族の前では善良な父親が、会社経営においては冷酷極まる人間だとしても、まったく問題はないわけである。そして、当人の内面でも、これはまったく問題がない。つまり、神も仏も存在しないのだから、法的処罰さえ受けなければ、非道な行為もまったく彼には痛痒を感じさせないわけである。要するに、「良心など存在しない」人間がたくさんいる。
今の自民党のことをここで持ち出すと話が小さくなるが、あの連中のあきれるほどの厚顔さ、破廉恥ぶり、というのは、そうした「神仏が失われ、道徳の根拠が失われた時代」の産物ではないか、と思われる。

なお、私は、悪というのは、悪を行う当人を卑小な存在にし、その生をつまらないものにする、と思っているので「悪は当人にとって不利益である」と考えている。毎度言うが、この世に生まれるのに、安倍総理や麻生大臣や竹中平蔵の人生を送る、というのは最悪だろう。ゴキブリ以下の人生である。ゴキブリは彼らほどの害悪を人に与えていない。





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