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神ベースの道徳と世俗ベースの道徳の優劣比較

私は「通俗道徳」という言葉が大嫌いなのだが、それは「世間一般で言う道徳=通俗道徳」という印象をこの言葉が与えるからであり、それは拡大されて、「通俗道徳の否定=道徳の否定」になるからだ。
で、「通俗道徳」を否定する人間は、ではどのような「世俗的道徳」なら肯定するのか、その議論は私はまったく聞いたことがない。

私は、現代の西洋社会の崩壊の根底は、「道徳の消滅」にあると思っている。新自由主義そのものが、完全に不道徳の極みなのだから、資本主義の到達点は社会の崩壊、あるいは社会の地獄化になるわけだ。改めて言うまでもないだろうが、流行りの言葉を使えば、「新自由主義」とは「今だけ、カネだけ、自分だけ」なのである。まさに資本主義・自由主義の極点ではないか。
で、西洋社会の道徳が崩壊したのは、「神(創造神、唯一神、全能の神、道徳の立脚点)の存在」が信じられなくなったからなのである。道徳の根底である「神の存在」が信じられなくなったら、道徳も信じるに足りない、となるのは必然だろう。

日本が、経済的にはかなり下落しても、まだ社会崩壊に至らない理由は、まさに日本人の道徳は神を前提としていないからである。それを「通俗道徳」と言っても「世俗道徳」と言ってもいい。とにかく、「周囲に迷惑をかけない」というのが、その基本だ。
それが「自由を束縛する」と文句を言う人は、では、自分は他人の「自由」な行為によって迷惑をかけられてもいいのか。絶対に、そちらは「御免蒙る」と言うはずだ。それが、実は「世俗道徳」の強さなのである。
当たり前の理屈の上に、この道徳は成り立っているから、神の存在も権力や権威の存在も必要としないのだ。あえて言えば、「自分が迷惑をかけられたくないから、自分も他人に迷惑をかけない」という、「利己主義がそのまま利他主義となる」のが、世俗道徳なのである。何も、利他主義という、それ単独では成立しにくい思想を振り回す必要はない。根本はむしろ利己主義、あるいは動物的自己防衛本能にある。
「自分が迷惑をかけられたくないから、自分も他人に迷惑をかけない」というのは、「フェア(公平)」という概念だ。そして、西洋人はフェアという言葉を使うのが好きだが、それはだいたいにおいて「自分をフェアに扱え」という要求であり、自分が他人に迷惑をかけるのは、別の話なのである。それは、彼らが何よりも自由を好むからであり、自由とは他人の上に自分の力を揮うことだからだ。彼らのこの矛盾は、彼らが「世俗道徳」を考える思考体験をほとんど持たないからだろう。
日本の場合は、日常生活そのものが世俗道徳をベースにしているから、改めて道徳の問題を考える必要もほとんどない、少なくとも、これまではなかったのだが、これからははたしてどうか。






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