「悪霊」の中でキリーロフという男が、「生きることも死ぬことも同じだと知る者だけが真の自由を得る」という趣旨の言葉を言うのだが、これは仏教的な思想に思える。
と言うのは、「四苦八苦」の中には「生まれること自体が苦の原因である」という思想が入っているからである。「四苦」はいわゆる「生病老死」であるが、「生」が他の「老・病・死」と並列されているところが西洋人には理解できないところではないか。もちろん、論理的に言えば、「生」の中に「老・病・死」が含まれる、あるいは「生」と「死」は対立するもので、「生」の中には「老・病」という苦があると考えるのが普通だろう。しかし、生きることの中にはそれ以外にも無数の苦しみがあるのであり、いちいちそれを項目として立てるより「生」という苦、とするのが観念として面白い。まあ、苦を細別した「八苦」というのもあるが、私は「生病老死」という大別法が好きである。
ところで、我々は実際に死ぬまで死を経験することは不可能なのである。なのに、死ぬ前から、その未知の体験を死ぬほど(笑)恐れるわけだ。これはナンセンスな恐怖ではあるが、未知の事柄は常に我々を恐怖させるのであり、それについて何かを知っているつもりである者だけが、その恐怖から免れるわけである。宗教とは、そうした「来世への幻想」がほぼ不可欠なのではないか。逆に言えば、本来の仏教、つまりブッダの教えの中に、そうした「来世への幻想」が無いとすれば、仏教とは宗教ではなく哲学だろう、と私は思っている。もちろん、日本で生まれた仏教はまた別である。
(以下引用)
と言うのは、「四苦八苦」の中には「生まれること自体が苦の原因である」という思想が入っているからである。「四苦」はいわゆる「生病老死」であるが、「生」が他の「老・病・死」と並列されているところが西洋人には理解できないところではないか。もちろん、論理的に言えば、「生」の中に「老・病・死」が含まれる、あるいは「生」と「死」は対立するもので、「生」の中には「老・病」という苦があると考えるのが普通だろう。しかし、生きることの中にはそれ以外にも無数の苦しみがあるのであり、いちいちそれを項目として立てるより「生」という苦、とするのが観念として面白い。まあ、苦を細別した「八苦」というのもあるが、私は「生病老死」という大別法が好きである。
ところで、我々は実際に死ぬまで死を経験することは不可能なのである。なのに、死ぬ前から、その未知の体験を死ぬほど(笑)恐れるわけだ。これはナンセンスな恐怖ではあるが、未知の事柄は常に我々を恐怖させるのであり、それについて何かを知っているつもりである者だけが、その恐怖から免れるわけである。宗教とは、そうした「来世への幻想」がほぼ不可欠なのではないか。逆に言えば、本来の仏教、つまりブッダの教えの中に、そうした「来世への幻想」が無いとすれば、仏教とは宗教ではなく哲学だろう、と私は思っている。もちろん、日本で生まれた仏教はまた別である。
(以下引用)
四苦八苦
四苦八苦(しくはっく)とは、仏教における苦(ドゥッカ、dukkha)の分類。
根本的なドゥッカを生・老・病・死(しょう・ろう・びょう・し)の四苦とし
- 生苦(jāti dukkha)[1] - 生まれることに起因する苦しみ。
- 老苦(jarāpi dukkha)[1] - 老いていくことに起因する苦しみ。体力、気力など全てが衰退していき自由が利かなくなる。
- 病苦(byādhipi dukkha)[1] - 様々な病気があり、痛みや苦しみに悩まされる仏教問題。
- 死苦(maraṇampi dukkha)[1] - 死ぬことへの恐怖、その先の不安などの自覚。
根本的な四つの苦に加え、
- 愛別離苦(あいべつりく、appiyehi dukkha)[1] - 愛する者と別離すること
- 怨憎会苦(おんぞうえく、piyehi dukkha)[1] - 怨み憎んでいる者に会うこと
- 求不得苦(ぐふとくく、yampiccha dukkha)[1] - 求める物が得られないこと
- 五蘊盛苦(ごうんじょうく) - 五蘊(人間の肉体と精神)が思うがままにならないこと
の四つの苦を合わせて八苦と呼ぶ。
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