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「悪霊」のユーモア感覚

昨日は久しぶりに本を読めるだけの余暇があったので、気持ちが落ち着いたらやろうと思っていたドストエフスキーの「悪霊」再読を始めたが、第一章を読んだだけでも実に面白い。前に読んだのが18歳かそこらだったので、読みはしたが内容のほとんどは理解していなかったのである。ただ、面白いという印象だけはあり、理解できた部分部分だけでもその面白さのレベルが他の作家とは段違いだと思ったわけである。当時は世界についても歴史についても政治についても人間についてもこの作品の舞台の当時のロシア社会についてもまったく無知な状態だったので、この作品の理解度は、まあ、20%程度だったと思う。いや、10%あったかどうか。つまり、人物や事件など、話の大筋を漠然と感じ取っただけだったのだ。神学論争が柱である「カラマーゾフ兄弟」のほうが高校生でもある程度理解はできるのではないか。
年齢による理解の限界というのはあるのであり、たとえばディケンズの作品であれバルザックの作品であれ、高校生や大学生では理解できない部分が多いだろう。同じ作者でも、作品によって理解できる年齢というのがある。
つまり、高齢者こそ、大いに読書をすべきである、という話である。若いころには理解できなかったことや面白さが分からなかったことが、理解でき楽しめる可能性は大きいのである。
なお、「悪霊」とは、おそらく「狂熱的な改革思想、革命思想」の意味だろうと思う。ただし、作者がその思想を完全否定しているかどうかは分からない。それはともかく、帝政ロシアにおける「革命前夜」の社会の様相を描いていると知れば、興味を持つ若い人々もいるのではないか。帝政か、民主主義を詐称した資本主義社会かに関わらず、社会の上位層が革命を恐れながら、「仮に革命になったときどう保身するか」を考えて、革新主義者たちにも「渡りをつけておく」様(第一章は主にそのドタバタ喜劇である。)が非常に面白いのである。
「悪霊」は、冒頭部分に関してはほとんど「ユーモア小説」なのだが、題名がおどろおどろしいために敬遠されているという可能性が高い。(北杜夫が昔、部分的なユーモアを少し指摘したくらいか。)
まあ、一行、あるいは一文を読むだけでも面白いという作品が、大長編として目の前にあるのだから、これほどコスパのいい娯楽は無いわけである。
なお、ユーモアは「真面目」の反対だから、真面目な人間はもちろんユーモアや笑いを好まない。特に宗教とユーモアは両立できない。ユーモアは価値の相対化で生まれるから、「絶対性」が生命線である宗教には受け入れられないのである。これはウンベルト・エーコの「薔薇の名前」(私は映画しか見ていないが)で明示されたテーゼである。逆に、政治はドタバタ劇やナンセンスがほとんどだから、常に笑いの宝庫である。もちろん、暴力と死を内蔵した笑いだ。


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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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