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死の実相

斎藤茂吉は自身も医者だったが息子ふたりも医者なので、茂吉の臨終の様子が医者らしい冷静さで書き残されている。まだ七十歳だが腎臓病の持病のためか老衰が早く、ほとんど老衰死に近い死に方に見える。自分自身の死について考える参考になるかと思う。私が、死ぬなら即死したいと願う気持ちも分かるのではないか。


(以下引用)ネットで知った文書だが、大学の講義録か。出典名は冒頭に記す。長い文章の一部である。


文京学院大学外国語学部文京学院短期大学紀要 第9号(2009)



 柴生田稔の『続斎藤茂吉伝』では、次のようにいう。 昭和二十六年四月五日、私はやうやく外出できるようになって、九ケ月ぶりに茂吉宅を訪 れた。対面した茂吉は、すでに顔面の筋肉が弛緩して、別人のやうな風貌になってをり、 私は何とも言ひやうのない衝撃を受けた。(略) 私は幾度か大京町を訪れたのであったが、その間に茂吉の能力が、徐々にではあるが、確 実に低下しつつあることに気がついたのは、やはり言ひやうのない衝撃であった。私はで きるだけ茂吉を訪ねて色々質問し、茂吉の脳に働いてもらつたなら、あるいは能力をよ みがへらせることも可能ではないかととも、素人考へで考へてみたのであるが、結局さう 繁々と訪問することもできなかった。(略) 茂吉が、ほとんど口を利くのもおっくうにするやうになった頃の或る日、夫人が、以前は 机に向って何か彼にかしてゐたのでしたが、もう全く今は何にもしなくなりましたと、寂 しさうに語られたことを、私は忘れることができない。さうして、その時も茂吉は私たち の傍に茫然としてゐたのであった。おそらくそれより大分後に、私は強ひて茂太氏に願っ て、茂吉に会はせていただいたことがある。布団の上に物憂さうに横になった茂吉を一目 見た時、私はたまらなくなって、思はずその手首を堅く掴んだ。たちまち痛てい痛ていとういふ叫び声が挙って、茂吉は憎々しさうに私を睨みつけた(と私には思はれた)。これ が、茂吉の言葉を聞いた最後であった。30)  このように門弟は、茂吉の認知症の姿を公にすることに、抵抗感があり、ある程度の段階で 押さえている。柴生田は、茂吉の老いに愕然とし、いたたまれなかったのである。茂吉は、す でに門弟の柴生田であることを、認知していない。むしろ、医者である長男の茂太や、次男の 宗吉(北杜夫)が、茂吉の肉体的老いを医者の眼から、ありのままに冷徹に見つめ、その記録 を公刊している。  長男の茂太は自らの「病床日誌」で、1951(昭和26)年の12月9日に次のように記す。 父、このところ連日両便失禁あり。少しくapathisch。明日よりヴィタミンBC注射を再開 す。31)  Apathischとは、痴呆的という事である。1952(昭和27)年4月6日になり、茂吉は再び呼 吸困難の発作に襲われた。「病床日誌」に次のように記す。 午後九時五十五分、ゼイゼイという音に隣室の母が気づく。急に呼吸困難起りたり。十 時茂太かけつく。父は右を下にして、呼吸浅表。冷汗淋漓。直ちに、ビタカンファ二cc、 アミノコルジン一cc皮注。十時二十分、脈一三八、呼吸四一、口唇、指端チアノーゼ、 足先にもチアノーゼ。苦悶状、しっかり茂太の手をにぎる。枕頭には、母、私、美智子、 昌子、看護婦二名がいる。十時二十五分、綿棒にてのどの痰を取らんせしも、却って苦し がり中止。瞳孔かなり散大、対光反射あり。「寒くない、有難う」と云う。室温十七度。   (以下略)32)  また、次男の宗吉(北杜夫)は、昭和27年1月初旬の自らの「日記」に次のように記す。 正月帰省の折の父。ほとんど一人で歩けない。食堂まで手をひかねばならぬ。ツヴァング (強迫)的な笑い、なにかにつけ(おかしくもないのに)一分くらい笑っている。と思う と、腹を立てて何か言う。ゼニーレ・プシコーゼ(老人性精神病)みたいになった。僕た ちの話もあまり理解できぬようだった。33)  この症状は、精神医学では「感情失禁」と呼ぶもので、感情の抑制がきかない状態である。 さらに、7月21日には、次のように記す。 昨日見えた山形の重男(四郎兵衛の息子)さんが帰るとき、父は山形へ行くといってき かぬ。挨拶して握手して出て行こうとすると、玄関で「ちょっと、ちょっと」ととめる。 「靴を出せ」と言う。食堂にきてからも、「上野へ行く」などと言う。 食堂で坐っていて、そのままHarn(尿)をしてしまう。ときどき、「コラ、コラ」「なんだ、 なんだ!」と叱責するように言ったり、たまには憤怒の形をして「糞くらえ!」などとも いう。 机、柱、壁に掴まって辛うじて歩く。しかし、大声を出すので誰かが手をとると、その 手をぐいと掴む。父の手―白いうすい 444皮膚の下から血の色が浮かんで、なかなか色はよい。 爪は縦に長い。静脈が太く浮いている。汗ばんでじっとりしている。粘着力のある掴み方をする。 ゲニタリエン(陰部)の毛はほとんど白い。ホーデンはやっぱりゼンドウしている。そし て(サルマタはなし)尿臭。 目はひどくしょぼしょぼしてきた。ときどき薄く目を閉じて、そのまま上前方を見つめる ようにする。そして、目をひらいてそれをまたたかせる。34)   このように茂吉の記憶力は低下し、「手帳の置場所を幾度にても」忘れ、その姿を周囲にも 示した。  茂吉は、昭和28年2月25日に、心臓喘息のため亡くなった。享年、満70年9月であった。 次が、『つきかげ』に最後に収録された歌である。   いつしかも日がしづみゆきうつせみのわれもおのづからきはまるらしも (『つきかげ』昭和27年「無題」)  茂吉は、戒名と墓を生前に用意し、死への準備は万全であった。戒名は、すでに昭和9年に 「赤光院仁誉遊阿暁寂清居士」と決めていた。52歳の時である。さらに、墓は昭和12年に「茂 吉之墓」とし、自ら書いた。師の伊藤左千夫の墓よりも小さくするように要望した。墓は分骨 して、郷里金瓶の宝仙寺と東京の青山墓地にある。













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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
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