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対立原理と包摂原理

サマセット・モームは「世界の十大小説」の中で、バルザックが「人間喜劇」(バルザックが自分の小説群に与えた総称)の中で描き出そうとした主題(人類の原理)を

「人間は善でもなければ悪でもなく、本能と性癖を生まれながらに持っている。社会はこの人間を、ルソーの主張とは違って、腐敗堕落させるどころか、完全にし、進歩向上させる。だが、その一方、利己心は人間の持つ悪しき傾向を極度にまで発達させる

という思想だとしている。
バルザック自身がそれに類したことを発言しているかどうかは別として、私もこの思想に賛同する。ただし、ルソーが言うように、文明や文化が人間を腐敗堕落させる面もあると思う。
要点は人間の悪を極度にまで発達させるのが「利己心」だということだ。

では、利己心に対して、東海アマ氏のように「利他心」を「正しい人類原理」だとするのは正しいか。それは大間違いだ、というのが私の考えだ。
東海アマ氏の考え方は「形式論理」であり、おそらく氏が称揚するヘーゲルの「弁証法」がその思考法の土台にあると思う。
なぜ、その考えが間違いかと言うと、「利他心」は「利己心」の完全な対立物であり、そのふたつを「正→反→合」とアウフヘーベン(何と日本語訳していたか失念。「止揚」か?)する作業が行われていないからだ。利己心に対して利他心を提出しただけでは、何も発展しないのである。
そもそも、「利他心」の中には「自分」という存在が捨象されている。つまり、完全な利他心は「自己犠牲」しか無いのであり、どこの世界にも、平気で自己犠牲をする人間は実に希少なのである。そんなものを人類原理にできるはずがない。
では、利己心と利他心をアウフヘーベンするのは何か。それは「人間愛」だというのが私の答えだ。人間愛なら、他人を愛するのも自分を愛するのも含まれることになる。
それほど大袈裟な話ではなく、「(汝自身と同様に)汝の隣人を愛せよ」というだけのことだが、これが実は難しいのである。汝の隣人は(だいたいは利害関係のため)しばしば汝の敵なのだから。
しかし、自分と利害関係の無い隣人まで憎悪するようになれば、それはまさに「人類の敵」であり、それが最近しばしば起きる大量無差別殺人事件の犯行者の心に起こっている現象だろう。つまり、社会から満足を得ていない人間が社会や他の人間全体を憎悪するようになるわけだ。
さらには、自分と何の関係も無い他の国やその国民を憎悪するようになると、これはまさに社会的精神病である。
議論はここまでとしておく。とりあえず、「人間愛」が人間の正しい原理であり、そして人類を幸福にする原理だとだけ言っておく。そしてその理解や実行には必ずしも宗教を必要とせず、自分の理性に問うだけで「これが正解だ」と分かるはずである。ただし、実行が容易だとは言わない。たとえば、誰か異性を愛した時に生じるのは人間愛ではなく激情と情欲と独占欲だろう。それはしばしば極度の利己心なのである。



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