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孔子本来の儒教の本質とは

偶然に見つけた「小さな資料室」というサイトから転載する。
このサイトは古今東西の名著名文の中から比較的短文のものを資料として収集してあるようだ。もちろん、それを書き起こすには大変な苦労を要したはずである。私の経験では、たとえば漢文に使われている漢字をワードなどで書くのは常人ではほぼ不可能に近い。実に頭が下がる努力である。
ネット世界の素晴らしさが、こうした事業に端的に現れている。まったく無私の心による奉仕行為であるわけだが、その願いは、少しでも世の中を良くすることに役立ちたい、ということだと私は想像している。
似たような試みとして「青空文庫」などもある。集団的努力の結集という、あれはあれで私は高く評価しているが、こうした個人的営為もまた大きな価値があると思う。
下の文章を書いた中根東里については、私は知らなかったが、「聖人の学」つまり(孔子本来の)儒教の本質は「仁」だ、と言い切っているのが素晴らしい。まさに、「仁」すなわち情けの心、他人への思いやりや愛情こそが、人間社会を、動物的闘争の世界から真に人間的な世界に変えるのである。今の世の醜悪な姿は、すべてその「仁」の欠如から来ているのではないだろうか。




(以下引用)




資料437 中根東里「学則」

        
 
      學  則

聖人之學。爲仁而已矣。仁者、天地萬物一體之心也。而義禮智信皆在其中矣。葢天下之物。其差等雖無窮。然莫弗得天地之性。以爲其性得天地之氣。以爲其氣。此之謂一體。是故自我父子兄弟。以至於天下後世之人。皆吾骨肉也。日月雨露、山川草木。鳥獸魚鼈。無一物而非我也。則吾不忍之心。自不能已矣。是故己欲立而立人。己欲達而達人。己所不欲無施諸人。人之善惡。若己有之、先天下之憂而憂。後天下之樂而樂。是之謂仁。是之謂天地萬物一體之心。其自然有厚薄者義也。譬影之參差。非日月之所私焉。禮其節文也。智其明覺也。信其眞實也。是心之德。其盛若此。但爲人欲所蔽。而不知其所謂一體者安在也。營々汲々。唯一己之名利是圖甚者視其一家骨肉之親。無異於仇讎。况他人乎、鳥獸草木乎。然而心之本體。則自若也。其感於物也。輙戚々焉如痛孺子之入井。閔觳觫之牛之類是已。况於吾父子兄弟。其能恝然乎。譬如雖雲霧四塞然日月之明。則無以異。纔有罅隙。輙能照焉。聖人之學。豈有他哉。勝夫人欲。以盡是心而已矣。葢合内外。以平物我而已矣。此之謂爲仁。此之謂好學。於戯。其廣大而簡易若是矣。彼以文辭爲學者。陋矣。求義於外惑矣。吾懼學之日遠於仁也。於是乎言。
丁巳冬 中根若思書于下毛之泥月菴。
 
 
 
 

 
   (注) 1. 上記の中根東里「學則」の本文は、国立国会図書館『近代デジタルライブラリー』所収の高瀬
         武次郎著『日本之陽明學』(鉄華書院、明治31年12月15日発行)によりました。
              近代デジタルライブラリー → 『日本之陽明學』本論第六 中根東里(73/160)
        2. 江戸中期の儒者・陽明学者であった中根東里(1694~1765)の「學則」は、東里が元文2
         (1737)年に、現在の佐野市の植野の泥月庵で、弟子を教育するために作ったもので、陽明
         学の大本を明らかにしたものだそうです。
        3. 佐野市のホームページに、佐野市指定文化財「中根東里学則版木」のページがあります。
            佐野市ホームページ → くらしの情報 → 文化・伝統 → 佐野市指定文化財「中根東里学則版木」
        4. 『黒船写真館』というブログに「浦賀に眠る陽明学者 中根東里」というページがあり、人物の紹
         介があって参考になります。
        5. 次に、中根東里の「學則」を書き下しておきます。          
 
      學  則
聖人の學は、仁を爲すのみ。仁は、天地萬物一體の心なり。而(しかう)して義禮智信、皆その中(うち)に在り。葢(けだ)し天下の物、その差等、窮(きはま)りなしと雖(いへど)も、然(しか)れども、天地の性を得ざるはなし。以てその性と爲し、天地の氣を得て、以てその氣と爲す。此れを之れ一體と謂ふ。是(こ)の故に我が父子兄弟より、以て天下後世の人に至るまで、皆吾が骨肉なり。日月雨露、山川草木、鳥獸魚鼈、一物として我に非(あら)ざるはなし。則ち、吾が忍びざるの心、自(おのづか)ら已(や)む能(あた)はず。是(こ)の故に、己(おのれ)立たんと欲して人を立て、己(おのれ)達せんと欲して人を達す。己の欲せざる所は、諸(これ)を人に施すことなかれ。人の善惡は、己(おのれ)之(これ)を有するがごとく、天下の憂ひに先だちて憂ひ、天下の樂しみに後れて樂しむ。是(これ)を之(こ)れ仁と謂ふ。是を之れ天地萬物一體の心と謂ふ。それ自然に厚薄あるは、義なり。譬(たと)へば影の參差(しんし)は、日月の私(わたくし)する所に非ず。禮は、その節文なり。智は、その明覺なり。信は、その眞實なり。是れ、心の德、その盛んなること此(か)くのごとし。但(ただ)し、人欲の蔽(おほ)ふ所と爲(な)つて、その所謂(いはゆる)一體は安(いづ)くに在るかを知らざるなり。營々汲々として、唯一(ゆいいつ)己(おのれ)の名利(みやうり)を是れ圖(はか)る甚しき者は、その一家骨肉の親(しん)を視ること、仇讎(きうしう)に異なることなし。况(いは)んや他人をや、鳥獸草木をや。然(しか)り而(しかう)して、心の本體は則ち自若(じじやく)たり。その物に感ずるや、輙(すなは)ち戚々焉(せきせきえん)として、孺子(じゆし)の井に入るを痛み、觳觫(こくそく)の牛を閔(あは)れむが如きの類、是れのみ。况んや吾が父子兄弟に於て、それ能く恝然(けいぜん)たらんや。譬へば雲霧四塞(しそく)すと雖(いへど)も、然(しか)も日月の明は、則ち以て異なることなきが如し。纔(わづ)かに罅隙(かげき)あらば、輙(すなは)ち能く照らす。聖人の學、豈(あ)に他(た)有らんや。夫(か)の人欲に勝つて、以て是(こ)の心を盡くすのみ。葢(けだ)し、内外を合し、以て物我(ぶつが)を平らかにするのみ。此れを之れ、仁を爲すと謂ふ。此れを之れ、學を好むと謂ふ。於戯(ああ)、その廣大にして簡易なること、是(か)くのごとし。彼(か)の文辭を以て學と爲す者は、陋(ろう)なり。義を外に求むるは、惑へり。吾、學の日に仁に遠ざかるを懼(おそ)るるなり。是(ここ)に於てか言ふ。

丁巳の冬 中根若思(じやくし)、下毛(しもつけ)の泥月菴(でいげつあん)に書す。

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