- 小田嶋隆のツィートをコピーしたら変な画面になったが面倒なのでそのまま続ける。
下に引用している小田嶋師の言葉はすぐれた智慧の言葉だと思う。(タモリも同じようなことを言っているらしい。もっと過激で、「人生に夢と友達は必要ない」と言ったとか。)
だいたい、夢は「現実ではない」から夢であり、その夢と現実とのギャップが常に人を苦しめるのである。
もちろん、夢と希望を同義とすれば、希望があるからこそ、人は現実の不幸や苦しさに耐えられるのだが、夢と希望はイコールではない。希望とは、「実現性があるもの」であるからこそ希望となりうるのである。だが、夢はそうではない。
幼い女の子が「お姫様になりたい」と願うのは夢である。現実にお姫様になることは不可能だと知って、「お姫様のようにきれいで可愛い女の子の絵を描く少女漫画家になりたい」と考えるようになれば、それは実現不可能な夢ではなく、「将来の希望」として十分に実現可能である。「あなたはどんな就職を希望しますか」は真面目な質問だが、「どんな仕事を夢見ていますか」と言えば、その仕事は実現不可能だということが(おそらく嘲笑的に)含意されているわけだ。
なお、夢を見ない人間、つまり徹底的なリアリストだけが現実での成功者になると私は思っている。
もちろん、これは壮大な目標を持つな、ということではない。
私など、世界平和と世界全体の幸福を産むような思想(アイデア)が発見できないか、といつも思っている。(会社の同僚には、昔、冗談で「世界征服が自分の夢だ」と言ったが、こんなのはあちこちの酒席で言われている冗談だろう。)だが、それは自分の無為の言い訳のようなものである。夢だとしても、それが夢だろうと分かったうえでの夢だ。
結婚を機に、一見実現可能そうに見えるが自分を苦しめていた幾つかの夢(不特定多数の女にもてたい、とかwww)を捨てた時点から、私の人生は楽になった。だが、世間の多くの人、特に若者は夢のために精神を病んでいると、自分自身の経験からそう思う。
夢(ドリーム)はドイツ語ではトラウム、つまりトラウマである。トラウマはしばしば奇想を産むが、たいていは人生を病的なものにする。
私は「デイドリームビリーバー」という曲は大好きだが、青少年がデイドリームビリーバーになるべきではない、と思っている。夢は寝てから見るものだ。
さて、今夜ははたして初夢を見るだろうか。
(以下引用)
「夢をあきらめないで追い続ける」という呪いが若い人たちを苦しめているということがどうしてわからないのか
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