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信仰と合理性

「ZERANIUMのブログ」所載の「神秘家の道」(だったと思う)という書の一節である。
これは宗教と哲学の根本的な違いを明確に示していると思う。
そして、多くの人が間違うのは、宗教を理性や論理で説明できるかどうか試みることである。もともと信仰とは「理屈抜きで信じること」だと言っていい。「トマスの不信」は、信仰に理屈(合理性)を持ち込んだ者の誤りの事例だと言えるだろう。
トマス・アクィナスの言葉だったと思うが、「不合理ゆえに我信ず」というのは、信仰というものの性格を見事に示している。合理的ならば信じるも何も無い。理性(自分自身が勝手に設定し構築した理屈の体系)に従うかぎり、ただ、その結論を受け入れるしか無いのである。つまり、それは「信じている」のではない。ある意味では自己の中の他者としての理性に屈従した、ということであり、人間がただの「計算機械に堕した」とも言えるのだ。つまり、自由な人間から「時計仕掛けのオレンジ」になったのだ。ドストエフスキーは、こうした「合理主義」を「1+1は2」的な思考として嫌悪した。

念のために言うが、「考えることを許さない」神学は、ほとんどが狂信となる、ということも言い添えておく。



(以下引用)


   神学は信条に、つまり信仰に始まる。
   そして哲学は疑いに、つまり論理に、理性に始まる。哲学とは思考することだ。そして神学とは、思考することなく信じることだ。思考したら、人はキリスト教徒ではあり得ないし、どんな宗教の信者にも決してなることができない。なぜなら宗教は考えることを許さないからだ。だからいかなる宗教にも哲学はない。あらゆる宗教にあるのは独自の神学だ。

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