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ユダヤ人問題の本質を考える


例によって、漠然とした事柄を、考えながら書いていくつもりで、どういう結論になるか、あるいは結論が無いままになるかは分からない。

柄にもないテーマだが、ここで考えるのはユダヤ人問題で、大きく言えば、理性と感情の対立という問題でもある。なぜ、ユダヤ人は歴史的にあれほど迫害されてきたのか、ということの考察でもある。そもそも、ユダヤ人とは何か、という明確な定義さえ無いと言われているのに、あれだけの執拗苛烈な迫害はなぜ生じたのか、ということだ。
ここでは、いつも私が批判の対象としているユダ金のことは論じない。彼らも、ある意味ではユダヤ人的な存在だからこそユダ金と言っているのだが、彼らが本当にユダヤ人であるというのではなく、「ユダヤ人的」と私が思うから、ユダ金と言っているわけで、世界には貧しいユダヤ人も無数にいたし、そのほとんどは善良そのものの人だっただろう。しかし、一部の「ユダヤ的」な大金持ちが社会に絶大な権力をふるい、世界を悪化させてきたことは確かであり、その行動もまた「ユダヤ的」だと多くの人が思ったから「ユダヤ陰謀論」はネット世界でも根強い支持を得ているのだと思う。
では、「ユダヤ的」とは何かと言えば、それは「強固な(概して宗教的な)信念と強固な理性、強固な意志力、その結果としての、非理性的なものごとの排除と非人間的な酷薄さ」ではないか、ということである。まあ、これは取り敢えず書き並べたことだ。簡単に言えば、彼らは「理性(知性)の化け物」ではないか、と多くの非ユダヤ人は感じ、それを明確に言語化できないまま嫌悪してきたのではないか、ということである。
つまり、多くの人々は、彼らの知性を恐れたのだ、というのが私の考えだ。ただ、それを認めると彼らを排除することは不可能になる。数では勝る劣等者たちが、数の少ない優越者を排除する(排除しないと、彼らが社会の上位に行き、自分たちを支配するだろう)には、彼らに「難癖」をつけ、むしろユダヤ人こそが劣等民族だというレッテル貼りをするのがいい、と欧州社会の人々は考え(もちろん、明確な思考ではなく、直観的に考えたのだろう)、あれほどのユダヤ人差別を行ってきたのだろう、というのが私の考えである。
そして、そのユダヤ人への恐怖には、同情すべき面があり、それは何かと言えば、「理性はしばしばその社会の道徳感情と対立する」ということである。たとえば、男性優越主義が当たり前であった封建時代に、男女平等思想を打ち出せば、とんでもない不道徳だ、とされただろう。道徳とは基本的に、その社会、その時代の常識でしかないのである。だが、その道徳に反する思想や行動は、当然ながら非難迫害の対象となる。
これは、ユダヤ人たちがその社会の道徳に公然と反抗したということではない。ただ、欧州社会は、「彼らの道徳は自分たちの道徳とは違う」ということに恐怖を感じていただろう、ということである。
道徳の違うグループが共存できるかどうか、それは現在、白人社会とイスラム移民の軋轢の形で問題化しているのである。つまり、この世界の表面からほとんど消えたユダヤ人差別に代わり、イスラム差別が生じてきたわけだが、白人社会というのは、常にそうした感情的な「仮想敵」を作ることで人民支配をしてきたのだろう。
感情というのは、理性ではコントロールできないから厄介なのである。それは男女の恋愛などを見れば明白なことだ。(これを、ロシアの神秘思想家グルジェフは、「知性と感情は別のセンターを持っている」と言っている。)











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