以前に引用した生チョコぽん酢さんの記事の一節であるが、これを読んで、その前に寝床の中で読んでいたさくらももこのエッセイの一節を思い出したので、ふたつを載せておく。後者は私が書き起こした文章になる。「意識(魂)・脳・心」の相違についてのほぼ完ぺきな解答だと思う。
中略した部分に「意識とは自分の根本のピュアなエネルギーの波動なのだ」などの論もあるが、スピリチュアル臭く感じる人も多いだろうから削除した。もちろん、そういう部分がこの論の「キモ」なのだ、と思う人は原書を読めばいい。「そういうふうにできている」というエッセイ集で、全体が非常に面白い。特に男性には女性の妊娠出産がどういうものか学べる。
蛇足を言うが、意識とは「自分が自分である感覚」だから、その感覚を失った人間はもはやそれ以前の人間とは別である。これが(引用1)での精神疾患だ。脳があっても、それを支配する本来の自我との結びつきが失われたわけだ。これは老衰でも起こることである。
(引用1)
精神疾患というのも、結局は意識の問題なのだと私は思っています。
意識が自殺願望に向く人もいれば、他害に向く人もいる。
意識によって幻覚や幻聴が生まれるし、人の意識の深さにはとても考えさせられると同時に、神秘的な一面を感じさせられます。
意識とは宇宙だなと。
(引用2)作者さくらももこが帝王切開で出産した時の思念の描写である。赤字や下線は夢人による強調。
手術が始まったようだ。私の腹は裂かれているらしいがその件については何も抵抗が無い。私は自分が今、これまでの人生の中で最も死に近い状態にいる事を感じていた。たまたま手術だから腹がパックリ割られていても誰もあわてていないだけで、普段の状態と比べたら明らかに死に近づいている。
私は意識が実に生々しくクリアになってゆくのを感じていた。自分自身が明らかになってゆく奇妙な感覚である。それと同時に、心のほうはどんどん静かになっていった。この世における未練が遠ざかってゆき、仕事のことも、大切な人々のことも、何もかもが本来の自分とは無関係であり、地球で生活していたすべての出来事は地球にいた時のみ関わっていた雑事である事を感じていた。
(中略)
脳と心と魂とは、全部別々のものであるというのが私なりの結論である。三つとも別々なのだが、非常に密接につながっているので混同してしまったり、何が何だかわからなくなってしまいがちだったのだ。
まず、魂と呼ぶものだが、これは「意識」と言い換えた方がこの場での説明がしやすい。(中略)この「意識」こそ、私は本来の自分そのものだと思う。ここで言う「意識」とは(中略)自分が自分であるという「感覚」なのである。
(中略)
肉体全体が「意識」の乗り物としてうまくシステム化されて作られている機械であり、その中でも脳という部品は「感情表現」「情報を交換する際の言語駆使」「肉体の様々な器官への命令」等をとり行うコンピューターシステムなのだ。
(中略)
では「心」とは何か。「脳」は単なる肉体の一部のコンピューターシステムにすぎず、「心」と呼ばれるものに付随する愛や温かさのような曖昧なものを生産しない。一方、「意識」は感覚のみのエネルギーの波動であり、「心」のように言語を駆使するシステムを持たない。「心」は「脳」でも「意識」でもないとすると何なのか? 今回の発見で一番面白いところがここである。
「心」に実体はなかったのだ。「脳」は肉体の一部であり、「意識」はエネルギーだ。だが、「心」は実存するものではない。「心」とは状態のことだったのである。
「意識」が、肉体の一部である「脳」を使い言語で思考したり感情や情報を伝達したりしてこの世で生活してゆくという、その「意識が脳を使用している状態」が「心」なのである。
だから、この手術で麻酔が効いて「脳」のコンピューターシステムが休止した際に言語が止み、「意識」だけがあからさまになったのだ。局部麻酔ですら私の場合は「脳」の機能も少しは止まったが、全身麻酔でなかったからこそ「意識」のみになった状態を把握できるくらいには半覚醒していられたのだ。
中略した部分に「意識とは自分の根本のピュアなエネルギーの波動なのだ」などの論もあるが、スピリチュアル臭く感じる人も多いだろうから削除した。もちろん、そういう部分がこの論の「キモ」なのだ、と思う人は原書を読めばいい。「そういうふうにできている」というエッセイ集で、全体が非常に面白い。特に男性には女性の妊娠出産がどういうものか学べる。
蛇足を言うが、意識とは「自分が自分である感覚」だから、その感覚を失った人間はもはやそれ以前の人間とは別である。これが(引用1)での精神疾患だ。脳があっても、それを支配する本来の自我との結びつきが失われたわけだ。これは老衰でも起こることである。
(引用1)
精神疾患というのも、結局は意識の問題なのだと私は思っています。
意識が自殺願望に向く人もいれば、他害に向く人もいる。
意識によって幻覚や幻聴が生まれるし、人の意識の深さにはとても考えさせられると同時に、神秘的な一面を感じさせられます。
意識とは宇宙だなと。
(引用2)作者さくらももこが帝王切開で出産した時の思念の描写である。赤字や下線は夢人による強調。
手術が始まったようだ。私の腹は裂かれているらしいがその件については何も抵抗が無い。私は自分が今、これまでの人生の中で最も死に近い状態にいる事を感じていた。たまたま手術だから腹がパックリ割られていても誰もあわてていないだけで、普段の状態と比べたら明らかに死に近づいている。
私は意識が実に生々しくクリアになってゆくのを感じていた。自分自身が明らかになってゆく奇妙な感覚である。それと同時に、心のほうはどんどん静かになっていった。この世における未練が遠ざかってゆき、仕事のことも、大切な人々のことも、何もかもが本来の自分とは無関係であり、地球で生活していたすべての出来事は地球にいた時のみ関わっていた雑事である事を感じていた。
(中略)
脳と心と魂とは、全部別々のものであるというのが私なりの結論である。三つとも別々なのだが、非常に密接につながっているので混同してしまったり、何が何だかわからなくなってしまいがちだったのだ。
まず、魂と呼ぶものだが、これは「意識」と言い換えた方がこの場での説明がしやすい。(中略)この「意識」こそ、私は本来の自分そのものだと思う。ここで言う「意識」とは(中略)自分が自分であるという「感覚」なのである。
(中略)
肉体全体が「意識」の乗り物としてうまくシステム化されて作られている機械であり、その中でも脳という部品は「感情表現」「情報を交換する際の言語駆使」「肉体の様々な器官への命令」等をとり行うコンピューターシステムなのだ。
(中略)
では「心」とは何か。「脳」は単なる肉体の一部のコンピューターシステムにすぎず、「心」と呼ばれるものに付随する愛や温かさのような曖昧なものを生産しない。一方、「意識」は感覚のみのエネルギーの波動であり、「心」のように言語を駆使するシステムを持たない。「心」は「脳」でも「意識」でもないとすると何なのか? 今回の発見で一番面白いところがここである。
「心」に実体はなかったのだ。「脳」は肉体の一部であり、「意識」はエネルギーだ。だが、「心」は実存するものではない。「心」とは状態のことだったのである。
「意識」が、肉体の一部である「脳」を使い言語で思考したり感情や情報を伝達したりしてこの世で生活してゆくという、その「意識が脳を使用している状態」が「心」なのである。
だから、この手術で麻酔が効いて「脳」のコンピューターシステムが休止した際に言語が止み、「意識」だけがあからさまになったのだ。局部麻酔ですら私の場合は「脳」の機能も少しは止まったが、全身麻酔でなかったからこそ「意識」のみになった状態を把握できるくらいには半覚醒していられたのだ。
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